行動に挙措の美があるように、思いにも挙措の美がある。
行動における挙措の美とは、一連の動作がよどむことなく、流れるように進行する中に顕れる美である。日本の古典芸能である能や狂言、伝統芸道である茶道や華道は、このような挙措の美を追求したものであろう。
行動における挙措の美は、その行動を発生させる思いの挙措の美でもある。おそらく能や狂言、茶道や華道の中に顕れた「様式や礼法」は、この思いの挙措の美を追求したところに顕れた「挙措の方式」であろう。
思いの挙措の美がなければ、かく単純化された、芸能や芸道が、現代まで連綿と存続するはずがないのであり、思いの挙措の美がないのであれば、茶道は単なる「おままごと」でしかないのである。
様式や礼法に則った、行動と思いの2つの挙措の美が、よどむことなく一連に流れる「場の構築」こそ、能や狂言、茶道や華道が目指す世界である。
アインシュタインが目指した「場の構築」は、「重力場」と呼ばれる。この場を前述の方式で記述すれば、重力場とは、重力の様式と礼法に則った、「物質場」であると還元される。
この稿は、意識を主体にして、この世を観察しているのであり、この視点で物質場を記述すれば、よどむことなく一連に流れる思いの挙措が「意識場」を構築し、その意識場がよどむことなく一連に流れる行動の挙措を発生させ「物質場」を構築させる・・となる。
行動の挙措と、思いの挙措は、一枚の紙の表裏であり、行動の美は、思いの美から顕れる。この構図を理解しないで、日本の古典芸能を鑑賞しても、また伝統芸道を修練しても、何ら得るところがない。
爽やかな行動の美は、爽やかな思いの美から顕れ、強き行動の美は、強き思いの美から顕れ、やさしき行動の美は、やさしき思いの美から顕れるのである。
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