「行動の美学」と言われる美学があるが、これは古代ギリシアの彫刻の中で追求されたアポロン的な肉体美に基準をおいた美学である。
物質的アポロンの対極は、精神的ディオニュソスである。
行動の美学があれば、同様に古代ギリシアの神話の中で追求されたディオニュソス的な精神美に基準をおいた、「思いの美学」があってもよいであろう。
私はアポロン的なものを、日本的表現として「弥生的」と呼び、ディオニュソス的なものを、「縄文的」と呼んでいるが、行動の美学の根底には、この弥生時代以降の価値観が多く含まれ、思いの美学の根底には、縄文時代以前の価値観が多く含まれている。
弥生式土器に顕れたものは、「物質的機能性」であり、この価値観から考えれば、行動の美学とは、「行動の機能美」に還元される。
同様に縄文式土器に顕れたものは、「精神的情意性」であり、この価値観から考えれば、思いの美学とは、「思いの情意美」に還元される。
縄文式土器に顕れた様式や、描かれた文様は、土器本来の物質的機能の何たるかを顕わしているのではなく、縄文人の精神的情意の何たるかを顕わしているのである。
我々は現在、物質文明繁栄の中に生きているが、今その物質文明社会のいたるところでさまざまな問題が発生している。その問題の根源には、この「行動の美学」と、「思いの美学」のペアポール構造がある。
現代人の多くは、物質的機能美と、表層的な装いの美ばかりに目が奪われ、その内部に存在する情意的な思いの美に目を向けることがない。
簡潔に言えば、現代人は多くの物(土地、金、家、車、衣服、装飾品・・等々)を身につけることばかりに奔走し、多くの思い(人間性、誇り、尊厳、志操・・等々)を身につけることを忘却してしまっている。
巷間、耳にする、「誇りでお金が儲かるのか・・?」、「尊厳でいったい飯が食えるのか・・?」等々の捨てぜりふが、かかる状況の深刻さを物語っている。
「思いの美学」を忘れて、現代人はいったい何処へ行こうとするのか・・?
まったくもって、大きな欠落である。
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