主観と客観の対立概念の構図は、「本音と建前」の対立構図に相似する。
本音と建前の乖離が大きくなればなるほど、物事や事態はあやふやになり、混沌としてくる。現在の日本社会が遭遇している混迷も、この日本古来の伝統、本音と建前という意識の「二重構造」の乖離が、抜き差しならぬ状況に立ち至ったゆえかもしれない。
客観主義を発展させた科学文明は、この現実世界を時間と空間の概念に還元した。そして、その概念を補強し、保証するために、精密な測定器を考えだし、この時間と空間を「数値化」したのである。
数値化された時間と空間のデータは、数学的法則や理論の構築を促し、科学的客観世界を「実在する世界である」とする確信に、我々を至らしめたのである。
しかしながら、時間を測定する時計は測定器であり、「時間の実体」ではない。また、リンゴが木から落ちる現象を説明した万有引力の法則は、時間と空間の測定データから構築された論理であり、「現象の実体」ではない。
それらは時間や現象を説明するために使用される実体把握の「手段」である。換言すれば、それらは時間や現象の本質を語る上で使用される便宜的な意識の「仮想概念」である。
我々はその仮想概念である法則や、論理を、あたかも現実に実在する実体であると考えてしまっているのである。
つまり、我々現代人は「意識の指向性」をもってしまっている。
時間や、現象の本質をとらえた人は、未だいないと言ってよい。
時間が時計であると言ってみても、時間をとらえたことにはならないし、現象が数式であると言ってみても、現象をとらえたことにはならない。
時間とは「ある何か」であり、現象とは「ある何か」である。
この「ある何か」という本質を、ひとつの「時計」や、ひとつの「数式」でとらえられると考える現代人の思考回路は、あまりに短絡的であり、多分に独断と偏見に満ち、傲慢な姿勢であろう。
すべては「ある何ものか」であり、我々はその何ものかの本質を疑い、探求し続けるだけの存在でしかない。
現代人がこの世界を時間と空間の要素で構成された世界と定義した事件は、アダムとイブの失楽園のくだりに暗示的である。
つまり、禁断の果実である「知恵の木の実(リンゴ)」を食べたことにより、アダムとイブは楽園を追放され、日々労働を課せられる運命となった事件である。
このアダムとイブの事件は人間の原点風景を暗示的に表象し、禁断の果実である知恵の木の実が、現代人にとっては「この世の時間と空間への還元」であることに暗示的に符号する。
この暗示は、縄文世界から弥生世界への意識構造変化にも同様に表象している。
自然を崇め、受動的狩猟採集生活をしていた縄文人の意識は「呪術的」であり、自然を観察し、能動的農耕生活をしていた弥生人の意識は「機能的」である。
この意識の呪術性から機能性への転換こそが、この世の時間と空間への還元における原点風景である。
失楽園を追放され、弥生世界に移り住んで以来、人類は数千年に渡り、この客観的仮想世界で、生計を立ててきた。客観的仮想世界構築に使用された、測定器や測定データから導かれた法則や論理は、我々の身の回りの生活世界を、機能性を基とした実践的関心によって、さらに高度な客観的仮想世界へと導き、次々と変質を遂げ、現在見るような科学的物質文明世界の繁栄に行き着いたのである。
しかしながら、繁栄した科学的物質文明世界は、客観的仮想世界の繁栄であることを忘れてはならない。
本質は主観に存在するのであり、客観に存在するのではない。
科学的物質文明世界は、この世を時間と空間へと還元した、意識の指向性が発生させた仮想世界なのである。
科学的な意識の指向性は、手段であって、目的ではない。
人間目的の主体は、主観的意識であって、客観的意識ではない。またその人間意識の根本は、主観的本質であって、客観的道具ではない。
現代社会が呈する混乱、不安、戸惑い・・等々の大半の原因が、この主客の転倒錯誤にあると言っても過言ではないであろう。
我々現代人は今、アポロン的理知性、弥生的機能性の基となった客観的意識、客観的道具という「拘束意識(意識指向性)」から脱皮し、ディオニュソス的混沌性、縄文的呪術性の基であった主観的意識、主観的本質という「自由意思」を再確認する段階に立ち至ったものと思われる。
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