私はいったいどのようにして、現実としての実在をとらえているのであろうか・・?
確かに現実はここに「在る」と感じてはいるのだが、それが眠っている時に見る「夢」であると言われれば、否定するすべが無い。
だがこの現実が夢かと言われれば、これは夢では無いという「ある種の確信」を感ずる。
その確信はいかなるところからやって来るのであろうか・・?
私が見る「その石」と、あなたが見る「その石」が、同じ存在であることはどのように証明できるかを考えてみる。
私はその石を鉱物組成から「花崗岩」であると解釈する。あなたはその石の大きさと重さから「漬け物石」と解釈する。この両者の解釈は、ともに「その石」の存在を述べている。その石は「花崗岩で、漬け物石」である。またある人は、その石を「庭石」と解釈し、またある人は「青い石」と解釈し、またある人は「丸い石」と解釈する。であれば、その石は「花崗岩で、漬け物石で、庭石で、青い石で、丸い石」である。このように、その石の存在は、無限に続く解釈の記述となる。
では「その石」とはいったい何か・・?
その石がそこに「そのように在る」という確信は、いかなる人も感じているのであるが、「在るという意味」がそれぞれ異なっている。
現象学を創始した哲学者フッサールは、だれもが感じる「そのように在る」という確信のことを「知覚直観」と表現し、その「在るという意味」のことを「本質直観」と表現した。簡単に言えば、その石が「そのように在る」という確信は言葉にならない知覚的な直観であり、その存在が「石という言葉」で表現されるのは本質的な直観である。
我々はこの「ふたつの直観」によって、「夢」ではない「現実」を感じているとするのが、フッサール現象学の出発点である。
音楽や芸術は、言葉にならない知覚直観であり、我々がこれらの知覚直観に遭遇する時、そこに「何ものかが在る」という確信を得る。
また科学や工学は、言葉で表現された本質直観であり、我々がこれらの本質直観に遭遇する時、そこに「何ものかの意味」を得る。
換言すれば、前者は「ディオニュソス的・縄文的な存在」であり、後者は「アポロン的・弥生的な存在」と対比される。
では、石という「言葉の意味」とは何か・・?、その石が、「花崗岩」で、「漬け物石」で、「庭石」で、「青い石」で、「丸い石」であるという、「その石」という言葉の裏側に広がる意味である。
言葉の意味によっては、現実の実在はいかようにも「変化する余地」をもっているようにみえる。
今は例として、ひとつの石をとりあげたが、現実の実在は森羅万象、無限数に近い存在が集合したものである。石という言葉の意味においてさえ、無限数あるのであり、これから考えれば、我々が今目にする現実の実在の意味などは、もはや「混沌」以外の何ものでもない。
日々、社会で語られる「これは確かなことである」などという言葉の意味は、これからすれば、混沌から発生した「たわごと」でしかない。
我々は確かな現実空間に生きているように感じてはいるが、その現実は言葉の意味によって構築された「ひとつの解釈」による現実でしかない。
それは、「丸くも」、「青くも」なる現実なのである。
人類が知り得る歴史の意味は、この試行錯誤の経過である。
ある時代は中央集権制であり、ある時代は民主制であり、ある時代は独裁制であった歴史の変遷は、その時代の人々による現実解釈によって発生した実在である。
現実はこのように、常に「変化し得る」ものであり、従って、歴史が変遷することは、必然の帰結である。
我々が確信する実在としての現実とは、言葉の意味から発生した「現象」であるとするのがフッサールの言わんとするところであり、彼が言う「知覚直観と本質直観」の構図は、物理学者デビット・ボームの言う「暗在系と明在系」、ライプニッツが言う「予定調和」、心理学者ユングの言う「集団的無意識」の構図と等価である。
つまり、あなたは現実としての「現在の境遇」や、「社会の現状」に嘆くことなどないのである。「実在からの脱皮」の道は、常に洋々と広がっているのであるから・・。
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