人体における機能、体型は縄文時代も今もそう大差はないであろうが、我々現代人を取り巻く環境は、縄文時代とはおよそ比べようもないほどに様変わりした。
縄文人は食べものを「自分の知恵」で確保し、場所を移動するに「自分の足」で歩き、太陽が照れば木陰に入り、雪が降れば暖かい穴蔵を探し、自分の体を養い、保護し、動物としての生命と生活を維持していたことであろう。
しかし、現代人はどうであろうか・・?
ちょっとそこまで買物に行くのに車を使い、太陽が照れば冷房のある部屋に入り、雪が降れば暖房のある部屋に入り、お金を出せば食べものもすぐに手に入る。
これらの社会システムは縄文期後の弥生期以降に発生した機能認識の進歩発展により構築されたものである。システムとは合理的メカニズムを追求したものであり、このシステムに従ってさえいれば、人間は知恵を出さなくとも生活することができる。
現代社会はこのシステムが神経細胞のごとく、網の目のように張りめぐらされている。法律システム、経済システム、物流システム、情報伝達システム、危機管理システム・・等々。数えたらきりがない。
これらのシステム運用はマニュアル化されているため、我々現代人はこのマニュアルを修得するに忙しい。ゆえに、「現代若者気質」は文学や哲学ではなく、生活を優雅に、快適に、便利に、エンジョイすることができる「マニュアル学指向」となる。
これらのシステム指向は非常に便利なものであるとともに、また非常に危険なものでもある。その危険とは、システムを「設計する者」においては、いかんなく人間本来の「知恵を駆使する」のに対して、その設計されたシステムに「従う者」においては、何らの「知恵を必要としない」ことである。
この原因はかかるシステムが、システム運用者が考えなくとも機能が達することを目的として設計されているからであり、システム自体に考えることを禁止する機能が内在しているからに他ならない。
危機管理システムとは社会で発生する危機的状況下において、人間による判断を極力排除し、次々と決められた手順に従って、行動選択がスピーディーに為されることを目的として構築されたものである。
人間がこれらのシステムを運用すればするほど、社会は効率化されて行くが、比例して、考えない人の数もまた増えて行く。さらに、達成される利便性によって、人間は頭だけではなく、体さえも使わなくなって行く。
「頭と体を使わない人間の集団」とはいったいどのようなものになるのであろうか・・?
人類は縄文時代と比べ、進歩したのか・・? それとも退化したのか・・?
これらの状況に何らの危機感をもたず、これらを持続するならば、人類は肉体的安逸によって「頓死」に至り、精神的停滞によって「脳死」に至ってしまう。
以上を鑑みるとき、「縄文人の何と人間的」、そして「現代人の何と機械的」であろうか。人間は「万物の霊長」と言われるごとく、断じて「コンピュータではない」ことだけは確かなことではあるのだが・・・。
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