我々が実空間を存在すると感じる現実感は人体の「五感による作用と反作用」に起因する。
私が手で壁を10Kgで押した時(作用)、壁から受ける反力(反作用)が5Kgしかなかったとすれば、私はその壁の実在性に疑問を感じるであろう。まして、何らの反力(反作用)を受けなかったとすれば(のれんに腕押しの状態)、私はその壁を「幻のごとく」感じ、実在性を否定するであろう。
この作用と反作用の関係は時間や熱のように「非可逆的な方向性」をもっている。時間の方向性とは過去から未来に向かう方向性であり、熱の方向性とは温度高きから低きに流れる方向性のことである。
作用と反作用の方向性も作用→反作用であり、反作用→作用という方向性はない。私が壁を手で押さない限り、壁は私の手を押し返さない。もし壁が押し返したとすれば、私はその壁が「生き物」であると考えるであろう。
ここに重要な事柄が隠されている。つまり、「生き物と作用・反作用の関係」である。我々が生きていると感じる根拠は、この人体の五感による作用と反作用に起因するとともに、その作用と反作用の方向性がまた「生き物」そのものの「存在性」を定義づける。
「死人に口なし」とは反作用なきことを意味し、もはや生きていないことを定義する。
我々がこの現実という実空間に存在することを保証するのは、つまるところ「五感で感じるこの作用と反作用の効果」だけである。
また生きていることとは、自分の「身の回り」の万物事象に限りなく作用をほどこし続けることに他ならない。作用なき生活とは夢や幻のごとくのものであり、作用をほどこさずに反作用だけを期待するような生活とは、「生き物」ではなく、単なる「置物」のような存在である。作用なき反作用を期待して待ってみても永遠に何事も獲得することはできない。
いつの世も言われるごとく、「求めよ、されば与えられん」がこの実空間の真理である。我々人間が少しでも、この実空間で生き物として有意義であろうとするならば、つまるところ「未来に向けて、作用をほどこし続ける」以外に他に手だてがない。
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