ここまで日本は「しゃにむに」前進してきた。戦後復興期に生まれた団塊の世代と呼ばれる我々は前方のみを見ることを強いられ、明日に向かって走ってきたのである。
結果、日本はまれにみる高度経済成長を達成し、豊饒なる社会を構築したのである。
だが、その経済成長は今勢いを失い、足踏み状態にある。経済成長一辺倒で生きてきた者にはその停滞に対する対応策が思い当たらない。この「戸惑い」こそ、現在の日本社会が元気のない理由である。
ではこのような現状を突破する策はどこに見出されるのであろうか・・?
「繁栄した理由がまた衰退する理由である」とは文明盛衰における、歴史の教訓であり、歴史の法則である。後方を振り返らずに前方のみを見てしゃにむに前進したことが「日本繁栄の理由」であるならば、その繁栄の理由をもって「日本衰退の理由」となるのである。
この歴史の文明盛衰法則から脱皮するには、日本繁栄の理由となった「今までの生き方」を転換しなければならない。巷間、「過去の成功体験を捨てよ」、「次期なる社会に向けて自己改革をせよ」等々喧伝されているが、これらは単なる「お題目」であり、その真の意味が何かと問われると、曖昧模糊とした回答しか返ってこない。
換言すれば、「言葉としては理解できるが意味が解らない」のである。
行動に踏み出すためには「具体的な策」こそが必要である。
日本の繁栄は、我々の回りに豊かな「物質社会」を構築したのであるが、同時に我々の回りにそれに応じた「意識社会」をも構築したのである。
その意識社会とは「社会的倫理観」と言い換えられる。
しかしてその倫理観とは以下のごとくである。
社会は繁栄しなければならない。
会社は成長しなければならない。
売上げは毎年増えなければならない。
お金は貯めなければならない。
毎日勤勉に仕事をしなければならない。
むやみにお金を使ってはならない。
遊んではならない。
集団には協調しなければならない。
異を唱えてはならない。
目立つ服装をしてはならない。
いつもにこやかにしていなくてはならない。
効率は上げなければならない。
世の中は便利にならなければならない。
新技術は開発されなければならない。
人間は立身出世しなければならない。
学業試験の成績は向上しなければならない。
謙虚でなければならない。
・・・・等々。
これらの倫理観は日本の物質社会繁栄の裏で構築された意識社会の状況を物語っている。その倫理観は今も尚、強力な「意識の束縛」を我々に強いているのである。
その意識の束縛の内実とは、これらの倫理観からの逸脱は即社会からの落ちこぼれに至るのではないかという「強迫観念」である。
しかし、文明の盛衰は世の習いであり、勢威も頂点に至れば衰退は必須である。日本社会がこの倫理観に拘泥し、さらに今後も踏襲するならば、「歴史の理」通りに、この倫理観をもって、日本社会は衰亡の道に至ることは必然である。
唯一この衰亡から脱出できる道は、物質文明繁栄の裏で構築された意識社会の意識束縛からの脱皮である。
それは今までの価値観の反転であり、以下のごとくになる。
社会は繁栄しなくともよい。
会社は成長しなくともよい。
売上げは毎年増えなくともよい。
お金は貯めなくともよい。
毎日勤勉に仕事をしなくともよい。
むやみにお金を使ってもよい。
遊んでもよい。
集団には協調しなくともよい。
異を唱えてもよい。
目立つ服装をしてもよい。
いつもにこやかにしていなくてもよい。
効率は上げなくともよい。
世の中は便利にならなくともよい。
新技術は開発されなくともよい。
人間は立身出世しなくともよい。
学業試験の成績は向上しなくともよい。
謙虚でなくともよい。
・・・・等々。
日本の物質社会繁栄を支えた倫理観のこれらの否定は、現在の日本人が聞けば「驚くほど非常識な倫理観」であろう。
だが、今やその非常識に向かって我々は踏み出さなくてはならないのである。歴史の文明衰亡の理から脱皮するとは、これらの倫理観からの逸脱を畏れないことである。
不沈戦艦大和の神話が崩れたごとく、やがて日本の「成長神話」も崩れる日はやって来る。今こそ「勇気ある撤退」をしなければならない。
「前進する勇気」も勇気であるが、それ以上に「撤退する勇気」こそ、英断を要する「真の勇気」なのである。
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