普及著しい「インターネット」は「現代意識の世界」を我々に垣間見せてくれる。現代社会の意識世界を実際に目に見えるようにするならば、「このようになる」のであろう。
インターネットが地球全域に張りめぐらされた「情報社会」とは、換言すれば「意識社会」のことである。今や世界の片隅にいるある人間意識が世界全域にいる他のある人間意識を知ろうと思えば、いかなる意識ともコンタクトすることが可能となった。
インターネットは地球全域に張りめぐらされた通信回線網により、何十億という世界の人々の各端末コンピュータに連結されているのである。
この状況は、1個1個の端末コンピュータを脳細胞の1個1個と考え、くまなく張りめぐらされた通信回線網を脳神経と考えれば、今や地球規模の脳が構築されたに等しい。
また、1個1個の端末コンピュータは一人一人の人間意識と対応しており、この1個1個の端末コンピュータを、一人一人の個別意識と置き換えてもよい。
つまり、現在の地球表面に実在する何十億もの個別意識がひとつに繋がり、地球規模の全体意識を構築していることになる。
この地球規模で構築された全体意識がいかなる時空を象出するのか人類はいまだ把握ができていない。また、何十億の個別意識が一体化された全体意識がこの現在という時空にいかなる作用をおよぼすのかもまた把握されていない。
それは吉か、はたまた凶か・・?
だが、それを知ってか知らずか、現代の先端情報産業はその情報化社会に明るい未来を宣伝し、バラ色の未来を描いている。
原始、人々の意識は個別意識として一人一人分離され、それぞれの意識が自律していたことに疑いはないであろう。
その後、人々は集団化し、社会を構成するようになる。初期の小集団社会は統合され、大集団化されることで、やがて国家社会を構築し、我々が今目にする現代社会に至ったのである。
だが、この人間集団化プロセスの裏側では人間一人一人の独自性と自律性の喪失が進行したのである。集団が大規模化すればするほど、人間が「小市民化」するのは必然の成り行きである。
そしてまさに今、インターネットの登場により、集団化の進行プロセスは物質的な人間集団化にとどまらず、意識的な人間集団化の段階に到達したのである。
意識的な人間集団化は、物質的な人間集団化と同様に「意識の小市民化」をもたらすこともまた必然の成り行きであろう。何らの意識の自律性をもたずに、毎日、朝から晩までコンピュータに張り付いている「コンピュータおたく」と称される若者の姿はこれを暗示している。
人間にとって、この意識の小市民化は、はたして幸せをもたらすのであろうか・・?
原始、人々は丘の上に自分の足でしっかりと立ち、通り過ぎる風に吹かれながら、緑なす密林を眺め、「今日はあそこに行こう」という確固たる個別意識で生きていたに違いない。そしてまた、この個別意識で構築された宇宙は、そのまま一人一人がしっかりと把握できた全体宇宙でもあった。
原始、人々は集団化がなされなかったがゆえに、この宇宙に顕現した「大市民」でもあったのではあるまいか・・?
原始人と現代人、はたしてどちらが人間として偉大なのであろうか・・?
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