それでは自立した自己評価の確立とはどのようなものであろうか。
一見すると自立した自己評価を確立しているように見える人でも、よくよく見ると「目の輝き」に精彩がない。目に精彩が感じられないとは表面的な自立であり、内面的には自立してないという事実の顕れである。言うなればポーズとしての自立であり、「見せかけの自立」である。
本当の自立した自己評価とは、他者評価から「完全に離脱」したものである。自分自身が本心から楽しいということであり、真剣であるということである。
このような自立した自己評価は「見せかけ」などという、いまだ他者評価を気にしている状態では「本物」ではない。それは掛け値なしの自分自身との「1対1」の対話からしか生まれないものである。
自分自身が本心から楽しいとはいかなることか・・?
自分自身が本心から信じるとはいかなることか・・?
それは、あくまでも自分自身の心に問うことでしか確立しないものである。
誰もいない炎天下のグランドを一人黙々と走り続ける無名のマラソン選手の自立した呼吸、山村のグランドで夏蝉の声に負けじと甲子園を目指す無名高校の高校球児の自立した汗と躍動、これらの姿にはみじんも「見せかけ」が感じられない。彼らは新聞などの他者評価から離脱し、彼ら自身による自己評価と「1対1」で対峙している。
だからこそ、我々はこれらの名も無き彼らの掛け値なしの笑顔と涙に、また掛け値なしに感動するのである。
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