社会は権力によって動くと言われる。
権力の内容を分析すると、ふたつの要素によって構成されていることが解る。ひとつは「権」という文字に表象している「抽象的で無形なエネルギ要素」と、もうひとつは「力」という文字に表象している「具体的で有形なエネルギ要素」である。この構造は宇宙を構成するふたつの要素である「意識」と「物質」に対応する。
抽象的で無形なエネルギ要素である「権とは精神的なパワー」であり、天皇の権威というような「権威」という言葉に代表され、具体的で有形なエネルギ要素である「力とは物質的なパワー」であり、軍の力というような「力」という言葉に代表される。
このふたつのエネルギ要素は互いに密接な関係をもつPairpoleであり、対称性構造をもつため、どちらのエネルギが勝るとも、また劣るとも言えない。
例をあげれば、我々人間が腕力という具体的で有形なエネルギ要素のパワーをもっていても、抽象的で無形なエネルギ要素のパワーである権威を備えた釈迦如来の仏像を打ち砕くことができるか否かである。
かって歴史はこの抽象的で無形なパワーである権威により幾たびか転変した。維新回転の転機は「鳥羽伏見の戦い」であったが、この戦いは大軍を擁した徳川幕府軍が天皇の権威を象徴する錦の御旗をかかげた寡兵の薩長軍の前に為すところもなく敗退した。
この逆の例をあげれば、戦国の世にあった織田信長の「比叡山攻め」である。神聖なる仏法の総本山であった比叡山を焼き討ちし、一山の老若男女ことごとく殺戮した。
その後の権力の変遷を辿ると以下のようになる。
比叡山の権威が喪失すると、今度は信長自身がその比叡山の権威に代わって神仏になるという新たな権威を創出する。しかし、その権威を畏れた明智光秀は本能寺を大軍をもって囲み、軍の力をもって、創出された新たな信長の権威を倒すが、自身に権威のなかった光秀は羽柴秀吉の軍の力により、天王山の戦に敗退し、信長の後を追う運命をたどる。
その信長や光秀を反面教師とした秀吉は、その後、「権」と「力」のふたつのパワーを巧みに使い分け、ついに天下統一を果たす。
結果、秀吉は文字通りの「権力」を手中にしたのである。
具体的で有形なエネルギ要素である「力」は「むき出しのパワー」であるために解りやすい。一方、抽象的で無形なエネルギ要素である「権」は「裏にひそんだパワー」であるために解りにくい。しかし、権力とは、このふたつのパワーが一体とならなければ構築することができない。
今や世界の覇権は超大国アメリカにある。かってローマ帝国が覇権をもって世界に君臨した時代は「パクス・ロマーナ」と呼ばれ、国々はそのローマの権威に服した。現在のアメリカ合衆国による覇権は「パクス・アメリカーナ」と呼ばれる。
確かに現在のアメリカは強大な軍事力を備え、「むきだしの力」を所有しているが、権威という「裏にひそんだ力」を所有しているかどうかは、今のところ不明である。パクス・アメリカーナがパクス・ロマーナを凌駕できるか否かはこの点にかかっている。
いつの世も「大義名分」無き戦いは、負け戦なのである。
|