欧米人の生活倫理や人生哲学は「キリスト教」を基とし、東洋人のそれは「仏教」を基とする。
我が日本は無宗教な国と言われ、あらゆる宗教が容認され、布教される。日本人の生活倫理や人生哲学がこれらの宗教の上に構築されているのかどうかは判然としない。
日本人の宗教観は、ある種の「つきあい」であり、「儀礼」であり、「ファッション」のごとく観える。現代日本での仏教は「葬式仏教」と呼ばれ、お坊さんが唱えるお経の意味を考える人はまれである。日本でのキリスト聖誕祭は「クリスマス商戦」と呼ばれ、厳粛な聖夜は「クリスマスパーティ」の喧噪で満たされる。
このような「惨状」の中で、唯一日本人にとって「しゅうきょう」の意味に近いものが何かと考えると、あるひとつの観念に行き当たる。それは「金銭崇拝」という執着心である。
日本人の生活倫理や人生哲学がこの金銭崇拝の上に構築されているのであるとするならば、機能上は他国の「宗教」と等価であると考えても何らさしつかえがない。
日本人は好むと好まざるとにかかわらず、この金銭観念の執着心の統制下で、この数十年間にわたり生きてきたのである。
それはまた現代日本人の思考や行動様式の裏に横たわる潜在意識でもあり、教育しかり、芸術しかり、科学技術しかり、この「金銭崇拝教」の上に構築されてきたのである。
現代日本では、あの人は立派であるとは「お金持ち」のことであり、あの人は偉大であるとは「資産家」であることを意味する。
最近では恋人になるのも、結婚するのも、この「しゅうきょう」に支配される。
ここまで日本人の生活倫理や人生哲学に強い統制を与える以上、もはやこの金銭崇拝教を日本の「宗教」と呼ばずして何と言おうか・・?
日本人の生活倫理とは資産を増やすことであり、人生哲学とは預金通帳の0の数を増やすことであり、人間の幸福感がこれらの金銭に囲まれることであるとは・・日本人の軽薄と浅薄ここに極まる。
金銭とは「手段」である。
その手段である金銭をこのように崇拝するとはいったいどうしたことか・・?
人間の生活やその人生の目的は、手段である金銭を縦横無尽に使用して得られるものである。現代日本人はこの構図を解ってか、解らずか、修正することができない。ここに現代日本がかかえる最大の問題があり、この問題を克服しなければ、経済の危機も、教育の荒廃も、社会の殺伐も、改善されないであろう。
古代日本民族は自然を崇拝し、万物事象を神として生活し、人生を語ってきたのであり、現代日本人は、陥ってしまったこの金銭崇拝の邪教から各々が速やかに覚醒しなければならない。
その改宗に成功した時にこそ、誇り高き大和民族の人間性は再び回復し、その瞳が爽やかに、明るく、力強く、輝きはじめることであろう。
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