現代社会に最も不足しているものは「思い」である。
逆に現代社会に最も氾濫しているものは「言葉」である。言葉は人類が社会というシステムを発展させる中で洗練させ、高度に複雑化させてきたものである。だが言葉が高度化されればされるほど社会システムは仮想化され、虚構化される。現代社会で発生する万物事象は言葉を用いて、いかようにも言い訳される。つまり、認識で構築された社会はまた認識でいかようにも変更可能である。誤りは正解に、嘘は誠に、不正は正義に代わり得る。現代社会では各々がよって立つ立場の言葉を使用して、都合がいいように言い訳されるのである。
このような仮想化、虚構化がさらに進展すれば、やがて人は「心の死」に至る。
衣食住が満たされれれば生物の生命維持は可能である。だが単に人間が生存しさえすればよいというのであれば、人間の生活は畜舎の豚の生活と何ら変わるところがない。豚には申し訳ないが、人間は「豚の生活」を手に入れるために、毎日あくせく神経をすり減らし働いているのではあるまい。人間にとって、より本質的な存在感とは人間としての「思いの存在感」である。
その人がそこに存在するとは「その人の思い」がそこに存在することである。
現代人が言う人間の存在感とは単なる物体的な存在感であり、名刺の肩書き的な存在感であり、金銭的な存在感である。このような存在感は副次的存在感であり、人間としての主体的存在感ではない。言うなればそれは「狸の置物」のような存在感である。
人間ははたして、そのような物体的、肩書的、金銭的な単なる置物であろうか?
そんなはずはなく、堂々たる人間の存在感とは「堂々たる思い」がその人に付随していることにより顕れる存在感である。同様に愛深き人間の存在感とは「愛深き思い」が付随した、勇気に満ちた人間の存在感とは「勇気に満ちた思い」が付随した、太陽のごとくの暖かい人間の存在感とは「太陽のごとくの暖かい思い」が付随した、誇り高き人間の存在感とは「誇り高き思い」が付随した人間に顕れる存在感である。つまり、「思いの存在感」である。
はたして現代社会において、このような思いの存在感を感じさせる人の数はいかほどであろうか?
現代人の多くが抱く「精神的飢餓感」は、この思いの存在感に出逢わないことに起因する飢餓感ではあるまいか。この世は万物事象が単なる物体として陳列された博物館ではない。この世は万物事象に付随している思いが自生自化し、かた時も留まることなく生々流転する世界である。
万物事象を物質的にとらえると「光」に収束し、意識的にとらえると「思い」に収束する。物質文明発展の歴史の中で我々は「もっと光を」と祈った。だがこれからの精神文明発展の歴史の中で我々は「もっと思いを」と祈らなければならなくなるであろう。
人は思うことにより本質的存在感が顕現する。この世の片隅で思うことであっても、人が本当に思うことであれば、その思いは全域にあまねく行き渡り、永遠の生命を得ることができる。大きな人とは、大きな思いの人であり、身長や体重が大きい人でも、資産の大きい人でも、まして権力や武器を多大に所有している人でもない。思いこそが、この世に生を受け「顕れたもの」の存在証明であり、最後に到達する高みでもある。そこに至った時、人は「永遠の時空」の中に「永遠の生命」を実現することになる。
後生大事に物体的生命のみを維持保全することが、この世の生ではない、精神の躍動と意識の飛躍を追い求め、大いなる思いを維持保全することこそが、この世の生である。
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