シュレジンガーの波動理論によれば、波動関数の収縮により、「あるひとつの宇宙」が発生する。
波動関数の収縮とは一種の観測問題であり、万物事象を観測するたびに波動関数は収縮し、あるひとつの宇宙が実空間に象出し固定される。
この観測の観測者がネズミや猫では収縮はおこらない。
それは人間的な、より言えば意識的な観測でなければならないのである。
ここに至ると科学的量子論物理学は心理学の様相を呈する。
ではこの波動関数の収縮問題を社会学的にとらえた場合にいかなることになるのか。
意識的な観測とは突きつめると「価値の選択」に還元される。
意識的観測が価値観によって選択されることを例をあげて述べると、おなかのすいた人には目撃されるすべてが食べ物に見えるであろうことを想起すれば了解されるであろう。
同様に愛に飢えた人にとっては観測するものがすべて愛という価値観で選択されたものとなり、権力に飢えた人にとっては観測するものがすべて権力という価値観で選択されたものとなるであろうことも了解されるであろう。
これらの状況から次のような社会学的宇宙が実空間に象出する。
意識が金銭的価値観を選択すれば・・金銭を基とした社会が発生し、定着する。
意識が権力的価値観を選択すれば・・権力を基とした社会が発生し、定着する。
意識が名誉的価値観を選択すれば・・名誉を基とした社会が発生し、定着する。
同様に
意識が愛を選択すれば・・愛を基とした社会が発生し、定着する。
意識が悲を選択すれば・・悲を基とした社会が発生し、定着する。
意識が歓を選択すれば・・歓を基とした社会が発生し、定着する。
つまり、
「意識が○○を選択すれば・・○○を基とした社会が発生し、定着する」
意識がある価値観を選択することにより、その価値観を基した社会が発生し定着する様相は、物理学的な波動方程式の波動関数の収縮により、あるひとつの宇宙が発生し定着する現象と等価である。
中国の思想家、王陽明が唱えた「心即理」、日本密教の創設者、空海が論じた「即身成仏」等の思想の根本には、この意識的価値選択により、暗在系(虚空間)から明在系(実空間)に「あるひとつの宇宙」が象出するメカニズムの意図が内在している。
空海が言った「三界の狂人は狂人たることをしらず、四生の盲者は盲者たることをしらぬ・・」とは、人間たちがこの宇宙発生メカニズムに「未だ覚醒しない様」を描写したものではなかったか・・?
美的価値観では美の世界が、愛的価値観では愛の世界が発生する。
その価値観が選択されるまで、我々自身は宇宙全域に霞のように広がっている。この宇宙のいかなる所にも存在し、かつまたどこにも存在しない。
物質のもつ二重性(波動性と粒子性のPairpole)から導かれた波動理論で考えれば、この宇宙全域に霞のように広がっている状態とは、物質である我々自身が波動性をおびて宇宙全域に波のように広がっている状態であり、我々人間意識があらゆる価値観の選択可能性から、あるひとつの価値観を選択した瞬間(観測した瞬間)、物質である我々自身が今度は粒子性をおび、この現実世界に物体として象出し定着する。我々自身はもう宇宙のいかなる所にも存在することはできず、我々が現実と言い、この世と言い、誰もが私の生活と言う「この場所」に存在が拘束され、固定されてしまう。
霞のような波動性として宇宙全域に広がっていた我々自身の状態が粒子性として、ある特定の1点の「実在場」に物体として拘束され固定される態様は、我々自身が「相転換」した状態であるとも考えられる。
我々が相転換し、「今の今、此処の此処」と言う現実世界に拘束され固定された原因は、前述したごとく、あらゆる価値観の選択可能性から、あるひとつの価値観を選択したことにある。
我々自身の価値観の選択が変われば、それに従った「今の今、此処の此処」と言う現実世界が象出するはずである。
これは物理学者、アインシュタインが想起した時間と空間の拘束からの突破「タイムマシン」のようであり、哲学者、ニーチェが画した時間の拘束からの突破「永遠回帰説」のようであり、盟友、関西学院大学の宮原教授が言う空間の拘束からの突破「無限変身説」のようである。
人間最大のルサンチマン(恨みや嫉妬心等)は「今の今、此処の此処」と言う我々の存在を絶対的に拘束する時間と空間に起因する。
シュレジンガーの波動理論と人間意識の観測問題は、この人間最大のルサンチマンからの脱却の可能性を示唆している。
またPairpole宇宙の狭間にある対称性が崩れている「今の今、此処の此処、という刹那宇宙」に開口されたニヒリズム超克の道もここに垣間見える。
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