今後は量から質に移行する日本社会では最終的に次の3つのものが余剰となる。
1.土地の余剰 2.人員の余剰 3.資金の余剰
量から質への移行は過剰になった工場の整理縮小を促す。
工場設備は廃棄し帳簿上から消滅させれば事足りるが、土地は廃棄消滅させることができない、よって土地は余剰となる。
また人員の余剰も株式評価損などのように帳簿上から消滅させることはできない、よって人員は余剰となる。
さらに土地と人員が余剰となることにより、結果として資金の余剰に至る。
量から質への転換の根本的原因は物質的余剰であるが、この物質的余剰に端を発する世相の転換は、かくして日本経済社会に「遊休な土地」、「遊休な人員」、「遊休な資金」で満ち溢れる状況を現出することに至る。
だがここで問題となっている土地・人・金の3つの資産は、従来の日本経済社会が最も高い価値をおいてきた資産である。
この最も有益な資産が有効性を消失してしまったのは言ってみれば簡単なことではあるが、この有益な資産である土地・人・金を運用して何をやったらいいのかが「わかんない」からである。
日本社会は明治維新以来、常に先進諸国に対し、へりくだり、下請的な位置と姿勢を踏襲してきた。自らが主張する親会社の位置と姿勢で先進諸国に対したことがないのである。へりくだった下請的な政治とは下請け的な政治政策を基として行われ、その下で展開される経済政策もまた下請的な経営手法を基として運営され、さらにそれを支える国民もまた下請的な精神姿勢を基として生活が営まれる。
かような位置と姿勢は親会社が健在の内は有効性を保つが、親会社の経営がおかしくなったり、倒産する場合などに立ち至ると下請会社の存続は危機的な状況を呈する。
そして今、ふと気づいてみれば自分たちを先導してくれていたリーダー(親会社)がいなくなってしまっているのである。それはちょうど小学校の遠足で広漠たる荒野で引率者である先生からはぐれ、放置された子供たちの状況に似る。いくら周りを捜しても先生は見つからず、途方に暮れている状態である。
だがいくら途方に暮れていてもどうなるものでもない。自分たち自らが、方向を選択し、歩き出さなくてはならないのである。
今まですべてを先生に頼ってきた子供たちからすれば、それは清水の舞台から飛び降りるほどの勇気と決断力を要することであろう。
だがここが重要なポイントであり、大海に浮かぶちっぽけな木の葉舟であっても自らの価値観と倫理観に準拠し、自らの意志で漕ぎ出すことこそが、「その時」には必要なのである。
自分以外に頼るものなど広漠たる荒野の真ん中にはないのであり、自分を信じ歩き出すことができさえすれば、必ず何をしたらいいのかが「わかる」はずなのである。
以上の状況を考えれば、公共投資一辺倒の不況対策では効果がまったく期待できないことがわかる。
なぜなら、何をしたらいいのか「わかんない」から、「わかる」という意識改革においてはお金など一銭も必要としないからである。
国民それぞれが自分の明日を創造し、開拓するために必要なものは、自らの強い精神力以外の何ものでもないのである。
(※この稿は4年ほど前に書かれたものであるが、日本社会は依然として立ち尽くしている状況である。)
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