時間の呪縛からの脱出はいかにして可能であろうか・・?
過去と未来は人間意識の概念によって構成された記憶を基とする虚の空間である。さらに言えば概念の基本構成要素である言葉によって創られた「意識物語」の空間である。
だがそうは言ってみても我々は過去がそのように「在った」、そして未来がそのように「在る」という実在性に対する確信を持ち続けている。それが単なる「物語」であるなどと言われても「はいそうです」などと簡単に納得することはできないであろう。
愛という「ひとつの言葉」を考えてみよう。愛とは何か・・?
愛そのものを完全に把握しているなどと我々は言えない。それは「単なる愛」という代名詞である。我々は通常この曖昧な愛という代名詞で愛そのものを理解したかのごとくふるまっている。
この愛という言葉ひとつでさえ、その実体を確定することは至難の業である。
人間の記憶はいつも曖昧で不完全である。概念を構成する言葉の選択も場当たり的で正確とは言い難い。このような曖昧で不完全な言葉でつづられた「過去物語」や「未来物語」はまた同様に曖昧で不完全なものであろう。
ゆえに過去物語と未来物語は常に修正につぐ修正を余儀なくされる必然性をもつ。
それは法廷で検事と弁護士がこの過去物語の実在性(真実性)を激しく争う「事件裁判」の審理過程を考えてみればよい。
現在進行している和歌山の「毒入りカレー事件」の裁判の行方ははたしてどこに決着するのであろうか・・?
物的証拠が少なく、すべては目撃証言などの状況証拠を基にこの事件の実在性(真実性)を確定しなければならない。記憶とその記憶を構成する言葉の曖昧さ不完全さを考えればこの公判の難しさが理解されよう。
はたして、その過去物語はそのようにあったのか・・? なかったのか・・?
これらの構造を鑑みれば我々が実在性として確信している「昨日」と「明日」がいかに曖昧模糊とした頼りない空間であることか・・理解されよう。
極論すれば「昨日と明日は無い」と言っても、そう間違いではないのではないか・・?
同様に我々は不完全な記憶と言葉を使って論理、思想、善悪などの概念を創り出し、これらの創られた論理、思想、善悪などの概念を基として、現に我々が生活する「今の今」という現代社会を創り出しているのである。
この創造過程に介在する曖昧さと不完全さを考慮すれば、現在という実在世界もまた曖昧模糊とした「仮想世界」と言わざるを得ない。
ここで注意すべきはこの実在世界に存在する人間以外の動物や植物が、人間意識によって創作された論理、思想、善悪などの概念に従って生きているわけではなかろうということである。
彼らは人間とはまったく別次元の世界に生きているように観える。
我々が実在性として信じているこの現在世界は、人間意識がこの現実空間というスクリーンに投影した特異な世界像であり、人間だけがこの特異な世界像を実在性として珍重しているにすぎない。
人間が陥った時間の呪縛からの脱出は「ここらあたり」を探求することから始められよう。
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