刹那空間とは時間が存在しない現在の空間であり、この空間には過去や未来は存在しない。
連続空間とは時間が存在する歴史の空間であり、この空間には過去や未来が存在する。
時間とは空間の変化を表現する関数であると還元できるが、時間という存在を「観測」した人はいない。言ってみれば数学的概念であり、時間とは空間の変化率である。単純に言えば「時間とは空間が変化する度合い」であり、さらに言えば「時間とは物事が発生する順番」である。
この時間の数学的空間変化率関数の概念から刹那空間と連続空間を記述すると、刹那空間とはある空間の変化前と変化後の「狭間に存在する空間」であり、連続空間は次々に変化する空間を順番に「連接した空間」である。
我々は変化空間を連接することにより、因果が成立するこの連続空間を現実に実在する場であると考えているが、過去や未来に手を触れたという人に出逢ったことがない。一方、手に触れることができる刹那空間を因果が存在しないという点をもって実在に疑いをもっている。これは道理に合致しない。どうも「因果律こそ」が我々の宇宙観をゆがめている元凶のように観える。
刹那空間は直観的場面が構築される意識空間であり、連続空間は歴史的場面が構築される物質空間である。刹那空間は人間意識が理解できない虚空間であり、連続空間は人間意識が理解できる実空間である。
前項で述べたこれらの空間の位置づけは、元凶である因果律を消去すると逆になる。
直観的場面が構築される意識空間である刹那空間こそ実在性が保証され、歴史的場面が構築される物質空間である連続空間のほうが実在性があやしくなる。
刹那空間が実空間となり、連続空間が虚空間に転化する。
この転倒の原因は時間に対する人間意識の姿勢であろう。より詳しく言えば「時間は空間の中を流れる」という意識姿勢から、「時間は空間が変化する順番」という意識姿勢に変えたことにある。
時間という存在の実在性を目撃し、手に触れた人がいない以上、この2つの空間に対する実在把握の正誤を断定することはできない。
我々は長い間「時間の虜」になってきたのかもしれない・・?
時間の概念を消滅させた時、そこにまったく様相を一変する宇宙が現れてくる。別次元の「今の今」という刹那宇宙が大きな存在感をもって迫ってくるのである。
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