こうして考えてくると「非日常性」とは物理学で言うところの「特異点問題」と同質であることが理解されてくる。
物理学で言う特異点とは、その点に至ると我々が構築してきた科学理論が破綻してしまうという点である。科学者は何とかしてこの科学理論が破綻してしまう特異点を突破しようと、日夜やっきになって挑戦を試みている。この特異点を突破した時、新たな宇宙の視界が開かれることになる。
この対比で考えるならば、日常とは我々が構築してきた意識的道理が整合性をもって適合し何ら不都合が生じない状態であり、非日常とはこれらの意識的道理が破綻し適合しなくなり不都合が生じる状態であると還元される。
我々が現在、宇宙の起点として考えている「ビックバン」もまた物理学的特異点である。このビックバン特異点の近傍宇宙では光さえ自由に飛ぶことができない。この近傍宇宙を経過し、宇宙が爆発的なインフレーションをおこした後に、やっと光が自由に宇宙空間を飛ぶことができる。物理学者はこれを「宇宙の晴れ上がり」と呼ぶ。
我々が今、目にするこの宇宙は、この晴れ上がりを経過し、光が自由に空間を飛ぶことができるゆえに、このように「見る」ことができるのである。
これを非日常の意識的特異点で述べると、物理学的な「光を基準」とした「物質宇宙の晴れ上がり」を、「意識を基準」とした「意識宇宙の晴れ上がり」と対比できる。
物質世界の基準をなす「光」は、意識世界の「意識」と等価である。
光が自由に空間を飛ぶことにより、我々がこの世をこのように「見る」ことができるように、意識が自由に空間を飛ぶことにより、我々はこの世をこのように「思う」ことができるのである。
かって、人々は行きづまった世界で、「もっと光を・・」と願った。しかし、これからは「もっと思いを・・」と願わなければならないであろう。
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