現代システム文明社会は人間に日常性を強いる。
システムが機能するためにはシステムの目的に従って、システムを構成する各要素に、定められた運動が与えられる。社会システムにおいては各要素とは各人間であり、運動とは活動である。
したがって社会システムが有効に機能するためには、社会を構成する各人間が社会目的の達成に向けて定められた活動を強いられるという宿命をもつ。
この定められた活動こそが生活の「日常性」である。
人間が機能に目覚め、社会というシステムを構築した古代国家の成立以来、人間が「日常性に埋没する」ことは必然の成り行きであった。
人間の日常性こそ機能的社会システムを安定的に維持する基本姿勢であり、これ無しには社会システムは存続し得ないのである。
人類が社会システムを人間活動の基本システムとする限り、この「日常性の制約」からは免れることはない。社会システムの安定性は人々の「日常性の履行」の下で保証されるのである。
ゆえにこの社会システムの倫理観、価値観は、この日常性を補強し、擁護し、推奨するものとなり、その倫理観、価値観をもって人間相互が、この「日常性から逸脱」することを監視し、防止することになる。
機能的な社会システムを構築した古代国家の成立以来、いかなる国家もこの制約からまぬがれることはなかった。それは近代の社会主義国家しかり、民主主義国家しかりである。 また今後においても、人類が機能を基本にした社会システムを構成する限り、人類は日常性から逸脱することは許されないであろう。
現代人が自分の頭を使わなくなり、没個性化し、部品化していくのは、この日常性の制約からすれば必然の成り行きである。それがまた機能的社会システムでの理想的人間像なのである。
この機能的社会システムの目的は人類の身の安全と生活の安定の達成であり、各人の自己保存の欲求の満足であるが、この目的が達成されればすべては事足りるのかと言えば釈然としない「何か」が我々人間には残る。
人間は生きているのであり、機械システムのように無味乾燥、無機質な機械部品ではないのである。人間は機関車の構成部品の役割と等価ではない。
釈然としない「何か」こそ、人間が「生きている」ことのあかしなのであり、生命の欲求なのである。
この「生命の欲求」は日常性を逸脱させ、「非日常性」の発生を促す。だが機能的社会システムの倫理観、価値観は人間の「考え」を日常性へと拘束するようにできているため、理性的認識を使った考えでは非日常性の道筋に入って行くことはできない。
理性的認識を使った考えは、逆にこの非日常性を阻止する方向に働く。
非日常性へのスピンアウトは生命本来がもつ情感、熱情、激情というような感情的な「思い」が可能にする。
我々、現代人がこの日常性から脱皮しようとする希求はあるものの脱皮できない多くの原因はこの「考える」と「思う」の違いに起因する。
頭では「解っている」のであるが、「できない」のである。機能的社会システムの「日常性の呪縛」は鋼鉄の鎖のように強靱なのである。
この呪縛を解く鍵は中国の思想家、王陽明の唱えた陽明学の「心即理」であり、「知行合一」であり、西洋の哲学者、ニーチェの唱えた「ディオニュソス」であり、日本の宗教家、真言密教を創始した空海の唱えた「即身成仏」である。
いずれも現代認識学の対極にある思想であり、いずれの思想も認識の基本である「言葉」を使用した説明を拒絶するものであり、「考える」ことより、「思う」ことを基準とするものである。
陽明学と位置を同じくする、日本武士道の精神的よりどころであった「葉隠」は、日常性の呪縛から脱出する方法として、理性的認識を「瞬間停止」させることを述べている。「武士道とは死ぬことと見つけたり」という思想である。
また日本伝統文芸である「浄瑠璃の世界」もまた、この日常性からの離脱を表現している。物語の山場で、黒子がいきなり表舞台の中央に飛躍し、「大見得をきる」浄瑠璃の世界は脱日常性の「場面」である。
日常性から非日常性への脱出口はかくも生死一体の「諸刃の剣」の道であり、「刹那の間隙」にしか開かれていない。
そしてまた我々人類が産み落としてしまった機能的社会システムの呪縛と強靱さは、もって瞠目する強大さを秘めている。
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