東洋仏教哲学で最も難解とされる「唯識論」では識を八種類に分ける。
眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識、末那識(マナ識:自我意識)、阿頼耶識(アーラヤ識:すべての意識の根本)の八識である。
通常、我々が理解できるのは眼識から末那識までの七識である。阿頼耶識はすべての認識の根源であり、刹那刹那の存在を保証し続ける究極の識である。すべての認識対象はこの阿頼耶識に包含され、かつこの識から顕現される。
また眼識から末那識までの七識は人間の内側の識であるが、阿頼耶識はその外側の識である。
阿頼耶識は一瞬もとどまることなく生滅し、過去も未来も何らの確証はなく、現在の一刹那だけが実在であるとする。この世は無常でありながら永遠である。
この唯識論が説明するところは現代の理論物理学者、デビット・ボームが述べる「暗在系と明在系」の宇宙構造に酷似する。
我々が認識も理解もできないこの宇宙の外側に在る、可能性の海である暗在系から我々が認識し理解可能な現実空間である明在系に事物が投影され、刹那、再びその投影された事物が暗在系に反投影される。
海岸に打ち寄せる波のごとく、宇宙は片時も休むことなくこれを繰り返す。そして、ひとつ前の波とひとつ後の波にはある連関が生じ、その連関が我々に時間の概念を構成させる。
また人間が意識できない阿頼耶識や暗在系の構造は心理学者ユングのいう宇宙自然界のあらゆる意識の集合体である「集団的無意識」に等価である。
唯識論でいう「阿頼耶識」、デビット・ボームのいう「暗在系」、ユングのいう「集団的無意識」から人間が巷間口にする「あれ」と「これ」が現実空間に象出し、象出した「あれ」と「これ」から人間は社会の中に価値観を構築しているのである。
ゆえに、人間が常日頃、口角泡を飛ばして激論する「あれ」と「これ」の価値観のバトルロイヤルの判定は「阿頼耶識」、「暗在系」、「集団的無意識」に遡らなければ下せない。
しかしながら自我認識や自我意識の外部に存在するこれらの根源意識に、いかにして人間意識が到達可能であるかが問題である。
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