天動説と地動説の対比概念は相対性理論の根幹を述べている。
天が動くのか・・? はたまた地が動くのか・・? それは相対性の「基準」をどこに置くのかにより決定する。地を基準とすれば天動説、天を基準とすれば地動説である。このように宇宙惑星規模の対比で考えれば相対性理論はよく理解されるが、この「相対性」とは単に宇宙惑星運動の態様を述べたものだけではなく、宇宙あまねく万物事象にわたる運動法則を述べたものであることを賢察しなければならない。
物理の基本法則である「作用と反作用」もまた相対性で述べられる。壁を手で押せば、壁もまた同じように手を押し返す。手を基準とすれば手が壁を押したことになるが、壁を基準とすれば壁が手を押したことになる。
ある人と道で出逢う。私はその人に挨拶をする。その時、その人もまた私に挨拶をする。私を基準にすればその人が私に挨拶をしたことになるが、その人を基準にすれば私がその人に挨拶をしたとなる。
作用と反作用の法則は宇宙自然界のあらゆる現象の根底に内在している。この作用と反作用の法則は我々がこの宇宙自然界に「存在している」という感覚の根拠を提示し、「実在の保証」を成している。
壁を手で押しても、壁が何ら手を押し返さなかった場合、我々の存在と実在は如何に感受され保証されるというのか・・?
この作用と反作用の法則も、つまるところ相対性概念に包含される。
このように相対性は宇宙根源に内在する「大法則」であるが、この大法則の相対性の基準とは前述のごとく、「あまりに頼りない」ものである。
基準は「地か天か」、「私の手か壁か」、「車が道路上を移動するのか、はたまた移動する道路上に車がいるのか」・・?
一般に人間の意識は地動説を基準にし、私の手を基準にし、車が道路上を移動することを基準に考える。しかし、よくよく考えると、これも「はなはだ怪しい基準」となる。天動説を基準にしても、壁を基準にしても、移動する道路を基準にしても、ともに、我々の構築した科学理論は何ら変わることなく破綻せず整合性をもつのである。
これら相対性の基準は、つまるところ「人間の意識」に依存し、準拠している。極論すれば、我々が生きているのか死んでいるのかさえ、この人間意識の相対性基準に依存しているのである。中国の「胡蝶の夢」の故事、太閤秀吉の「浪速の夢」等々、この人間意識の相対性基準を示唆し、述懐している。
東洋仏教哲学の英知、般若心経の「色即是空 空即是色」でいう、「在ると思うと無い、無いと思うと在る」もまた、この人間意識の相対性基準を述べたものである。西洋哲学の英知、マルチン・ハイデッカーの「存在よりも、むしろ無が在るのではないか・・?」というつぶやき、これもまた、人間意識の相対性基準に対する述懐である。
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