100人いれば100人の意識がある。であればその100人の意識はいかように制御されるのか・・?
1個の「偉大な意識」と、この「100の意識」の関係はいかなることになるのか・・?
空海の言うごとく、この100人の意識が三界の狂人のごとくであり、四生の盲者のごとくであるとすれば、偉大な意識の所有者である空海にとっては、いとたやすくこれらの100人の意識を制御できたのではなかろうか・・?
空海は雨乞いの祈祷で、雨を降らせることもできたという。この逸話が本当であるならば、彼は人間意識のみか、宇宙自然界の万物事象まで制御できたことになる。
遣唐使として中国に渡航し、密教の正統、恵果に絶妙のタイミングで出会い、その法灯をいとやすく受け継ぎ、日本に持ち帰ったことも、彼にとっては「必然の成り行き」であったことであろう。空海は900年に一人の「天才」であると言う人もいるが、まさに1000年に一人の「偉大な意識」と言うべきであろう。
だが回りの全ての人々が「狂人」であり、「盲人」である時、覚醒せる偉大な意識の所有者である空海の孤高、孤独な魂はいかにして存在可能であったのであろうか・・?
社会は多くこの狂人と盲人で構成された世界である。「数は力なり」という言葉があるが、この社会システムの力は「数」である。いかに狂人と盲人の迷妄せる意識であっても「数の力」は歴然と存在する。
多くの迷妄せる意識(数の力)と、空海の偉大な意識(個の力)の相剋はいかにして解決されたのか・・?
歴史は、この相剋の狭間で多くの覚醒せる偉大な意識を挫折させていったことを記述している。
この相剋を解決する方法を思考すれば、以下のものが列挙される。
1)迷妄せる意識との衝突を避け、それに「迎合」する。
2)迷妄せる意識に立ち向かい、それを「変革」する。
3)迷妄せる意識を分別せずに、偉大な意識として「ただ存在」する。
空海の採用した方法は3)項の方法であったかと思われる。偉大な意識は「それのみにて偉大」なのであり、迷妄せる意識に迎合することも、変革することも必要としないのである。「ただ、ただ、存在しさえすれば」良かったのではないか。
偉大な意識とは「特別な意識」であり、「選ばれた意識」であり、天がその所有者に与えた「使命」として構築されるのである。換言すれば「天命」で構築されたものである。
天命とは人力を越えたものであり、いかに社会システムの数の力をもってしても、変更することはできない。天命により偉大な意識を所有した人には数の力をもってしても、いかようにもならない「莫大な力」が備わっているのである。
偉大な意識の所有者は、ただ存在するだけで「ことが足りる」のである。
空海の偉大な意識はこのようにして宇宙の中央に、確固として存在しえ、その偉大な意識から、あらゆることを創造しえたのである。
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