我々が生きる現代社会は物質文明が極度に発達した宇宙である。物質的豊かさが限りなく追求され、その豊かさを制御する貨幣経済は数学化され、人類の価値観は機能と能力の評価分析に終始している。現代社会は物質中心の「因果律的機能社会」である。
しかし、人間は単なる物体ではない。人間を単に物質としてとらえ、実在性を論じる現代の科学、経済学、社会学等々は矛盾を露呈し始めた。人間は目に見え、触れることができるという、単なる「感覚的実在」の虜になり、その感覚以外の実在を認めようとしない。
文豪ゲーテは「見るために目があるのだ」と言った。つまり、ものを見たいという人間意識が、人間という物体に目を創ったのである。同様にものに触りたいという人間意識が、人間という物体に触覚を創ったのである。姿や形のない人間意識によって創られた目や触覚を使用して実在性を論ずること自体が、本来は論理的に矛盾しているのである。
現代社会は人類の因果律的機能認識という意識が「集団的無意識の大海(暗在系の内蔵秩序)」から抽出し、実在場に投影した、「ひとつの現実」でしかないのである。だが現代人は今、自ら創出したこの因果律的機能社会という実在場に疲弊し、行き詰まり、困惑している。
だがしかし、宇宙はそんな一義的、一面的なものではない。集団的無意識の大海や、宇宙の内蔵秩序は「豊饒の海」であり、不死鳥のごとく再生する無限のエネルギで満ちている。人間意識を変えれば、必ず次なる宇宙を象出させることができるのである。
次なる宇宙がいかなるものか、今はまだしかと形象が現れてはいないが、いずれにしても人類が次なる宇宙に「巡り逢う」ことだけは「疑いのない事実」である。
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