ですから我々は影しか見せてもらえない。
常にそうなんですね。
開発もそうです。常に影しか見せてもらえないんで、その実体が見れないわけですね。それが開発だとか、ある種のものを発見していく過程なんですね。
それと似たようなやつで「群盲象をなでる」ということわざがありますが、目の見えない人の集団が象にこう触っているわけですね。
鼻に触っている人は、「象とは蛇だ」とこう言うわけですね。
足に触っている人は、「象とは丸太だ」とこう言うわけですね。
お腹に触っている人は、その「象とは岩だ」と。
耳に触っている人は、「象とはヒラメだ」と言うんですね。
彼らの話を総合すると「象とは蛇で、丸太で、岩で、ヒラメだ」というんですね。
我々は象というのは目に見えますからね。目に見える象を見ている我々からすると、その目の見えない人が言っていることは非常に馬鹿げているわけですね。
その象とは蛇で丸太で、岩でヒラメだなんていうのはね。しかし目の見えない人からみると、象とはそのようなもんなんですね。
いま、鼻に触っていると言いましたけど、鼻に触っているのが「科学者」だと。足に触っている人が「経済学者」だと。あるいはお腹に触っている人が「文学者」だと。耳に触っている人が「芸術家」だというふうに考えてみたらどうかと。
科学者は象とは蛇だ。文学者は象とは岩だと。あるいは経済学者は象とは丸太だと。芸術家は象とはヒラメだとこう言っているわけですね。
問題なのは、こういうのを全部統合せないかんですね。統合して自分の頭で想像する。
皆さんがそういう話を聞いたときに、象を想像せにゃいかんですね。頭の中で。そうすると蛇でヒラメで、丸太で岩とはどんなもんかなというように研究していって、象の姿っていうのを統合して、「ああこれが象なんだ」とこういうふうに思うわけですね。
この過程がそのさっき言った絶対的真理、科学的真理を追究するときのその過程なわけです。ですから我々は常にその実体を見せてもらえない。常に影を見るわけですね。その影を見て自分でイマジネーション、想像してそれを統合していかなくちゃいけないんですね。
私も皆さんと同じように学校に行っている頃ですね、学校へ行くと音楽の先生がいて、あるいは数学の先生がいて、社会の先生がいて国語の先生がといっぱいいるんですね。
そのときに国語の意味は「何だ」と、あるいは算数の意味は「何だ」と、社会の意味は「何だ」なんてあんまり考えないわけですね。
せいぜい考えるのは試験の科目と。今日は音楽と算数と社会の試験があると。つまりその、ひとつの試験の科目みたいにしか考えてないわけですね。
しかしよくよく考えてみると、いまの象の例でいくと、つまり音楽とは鼻を触っている人なんですね。数学とは足を触っている人だと。あるいは国語とはお腹を触っているということであって、つまりその国語と算数と理科と社会、全部統合しないと自分がいま勉強しているものは「いったい何か」っていうことがわかんないわけですね。
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