宇宙論からすると、相対的真理からひとつの宇宙論というものをつくることもできるわけですね。相対論ですから。
昔、天動説と地動説というのがあったわけですけども、これは皆さん勉強したかもしれませんけども、昔の人は地面が固定していて天が動いているというふうに思っていたわけですね。単純に考えるとそれは非常に素直な考えで、天が動くという方が考えやすいわけですね。
ところが有名なガリレオですかね、出てきて今度「そうじゃない。天じゃなくて地面が動いているんだ」と、つまり、地動説ですね。という形で地球が動くということに変ったんですが、今の科学でいうと、天が動いても地球が動いても全く変わりなく科学的理論は成り立つわけです。
ですからその天動説であっても地動説であっても今の科学理論ということにおいては何ら変わりなく法則が成り立っているということなわけですね。
ですから逆にいうと、宇宙は人間のためにあるという論理も、あってもまあ、いけないということはないわけですね。
昔「世界はふたりのために」という歌がありましたけども、その恋人同士からすると世界はふたりのためにあるというふうに思えるわけですけども。
要はその宇宙が人間のためにあるという考え方ですね。
これは宇宙論でいくと「人間原理」という理論なわけですけども、そういうことを唱える人もいるわけですね。しかし、証明過程で、要は人間が存在する確率よりも宇宙が存在する確率の方が小さいわけですね。数学的計算をすると、宇宙が存在する確率の方が人間が存在する確率よりも非常に小さくなってくる。
ということになると、人間のために宇宙があるという考え方はおかしなことになっちゃうって、この「人間原理」というのは否定されたんですね。
つまり、「ふたりのためだけに」世界があるんじゃないんだというのが今の状況なわけですね。
ですから相対的真理といっても、その上には絶対的真理、つまり、科学的真理というのがあるわけで、これをおろそかにして、つまり、人間の勝手な多数決だとか価値判断だとかそういうことによって真理がこうだ、ああだっていうことは、まあ非常に人間として、何て言ったらいいんですかね。増長した考えっていうんですかね、ということになってきているわけですね。
きょうは社会的真理、つまり、相対的真理ということではなくて、今言った科学的真理ということ、つまり、100年経っても200年経っても多分変らないだろうという真理についてお話したい。
実際、絶対的真理を追究するっていうのは、数学者だとか工学者だとか、あるいは科学者っていうのはこっちを追求しますね。
相対的真理っていうのは、また相対的真理で社会学だとか、あるいは経済学だとか、いろんな文学だとかっていうのは、この相対的真理を追究するわけですね。
ですからこれから皆さんが卒業してどっちの真理を追究するのかということになるんですが、絶対的真理を追究したいという人もいれば、社会的真理、つまり、相対的真理を追究したいっていう人も出てくるわけですね。
結果では同じことなんですけども、見方が違ってくる。この真理の2つをよくよく頭に入れてこれから社会に出て行かないと、非常におかしなことになってくるということになるわけです。
私も技術者で、いろいろおかしな経験をするわけですけども、例えば技術者が10人いて、私の考えた技術を説明するわけですね。
しかし、その私の考えた技術によってこの10人の技術者のうちの7人の立場が失われちゃうと私の技術は正しくないんですね。つまり、「お前の技術は間違っている」と、こういうふうに言われちゃうわけです。
ですからうまく説明しないと、つまり、並んでいる10人の中の7人が賛同できるような説明の仕方をしないと、あなたの技術は間違いだとこうなっちゃうんですね。
でも科学的真理を追究している人からすれば、いやこれは絶対正しいんだとこう言いたいところなんですが、実は社会というのはそう単純なものではなくて、それぞれの立場がありますから、つまり、ある素晴らしい技術でもその10人の技術者の7人の立場が失われるようだと、彼らは私の技術を正しいとは言ってくれないというのもまた真理なわけですね。ですからそういうことを両方考えて、最初に科学的真理ということと社会的真理という、2つの真理のお話をしたわけです。
この辺のところをしっかりしてから考えていってもらいたいなというふうに思います。