「男が狩りをしないような村には住めない」・・これはアマゾンの密林で生まれ育った未開の裸族の女が、不思議なめぐり逢いの末にアメリカの男と結婚し、ニューヨークに移り住み子供までもうけたが、ついにはその子供までおいてアマゾンの密林に戻って行ってしまう、その去り際に彼女が言った言葉である。今、彼女は男が狩りをする密林の村で女らしく、幸せに暮らしているという。
原始、人類が出発して以来、女は尽くして、尽くして、尽くして死に、男は貢いで、貢いで、貢いで死んできた。これは宇宙の理であり、生物学的真理である。
現代社会はこの理から遊離し、迷路に踏み入ってしまったようである。男のような女、女のような男が徘徊し、離婚調停で忙しい家庭裁判所の状況はこれを如実に物語っている。
今時の娘は離婚届けの用紙を役所へもらいに行き、同時に結婚届けの用紙ももらって来るという。
戦後強くなったものは「靴下と女性」とはまだ女性が弱かった頃の言葉であり、現在のように女性が本当に強い時代ではもはや死語である。
日本は第2次大戦で敗北し憲法で戦争を放棄した。世で言う「平和憲法」である。この賛否はおくとして、問題はこれにより日本の男が闘うという精神的支柱を失ったことにある。それまでの時代すべてにおいて男は戦場に赴くがゆえに、狩りに赴くがゆえに、自立した男であり、父親であった。
しかし「闘いを放棄した男」に残されたものは男女同権という社会通念と倫理であり、ここから導かれる思想は男と女が共同で家事や育児をするべきという男女平等である。やがては男に成り代わって女が家長となる日も近いであろう。
タクシーで深夜帰宅した亭主に対する妻の言葉・・「あんた、誰の許可をもらってタクシーに乗ったのよ、そんなタクシー代は払わないからね!」・・これは、なにも作り話ではなく現代では日本の津々浦々で見られる光景となりつつある。
この現象はまた現代の日本の社会文化やモラルに多大に影響を与えている。世の倫理観は母性本能化し、子供をあやすごとくの後生大事となり、物事の判断基準は男性的理性から女性的感情に移行していく。
しかして感情で世の中がコントロールできるものであろうか・・?
闘いを忘れた国、日本は今、少々お金はあるのであろうが腰の抜けた脆弱な国となってしまった。世の男に志があるのであれば今一度、戦うための闘志を思い起こして欲しい。
でなければ、もはや日本の「益荒男(ますらお)」の誇りは死滅し、奴隷のごとく追従する国に堕ちる運命しか待っていない。
そんな男を日本の女は期待しているはずはない。 |
|