技術の研究は常に大胆な仮説を立てるところから出発する。まず直観力により認識の飛躍を起こさなければ無から有を生むことはできない。この飛躍は奇想天外なものであってはならず常に発生した現象を過不足無く、かつ妥当性をもって説明できるものでなくてはならない。
この稿は私の技術研究手法「直観的場面構築」をもって、今や安曇野の時空に隠蔽されてしまった過去の時空、言うなれば安曇野の「点と線」を推理してみたものである。
直観的場面構築とは意識の大海の中に埋没していたさまざまな認識の断片がある時、集合組成し、ある場面(シーン)が構築される「意識メカニズム」のことである。私はこの手法を技術開発に応用し現在国内外200件以上の特許権の成立をみた。
このメカニズムが作動するためには多くの認識断片を意識の大海に「蓄える」こと、その断片認識を一体的に合成させる「きっかけ」のふたつが要点である。
前者に必要なことは多くのことを「見聞き、読み、感じる」努力であり、後者に必要なことは熟成の時を気長に「待つ」持続力である。
ここで構築された「直観的歴史場面」は信州真田の里で育った私が青春期を大阪、奈良で過ごし、今ここ安曇野の地に至ったことによる。
吉野、飛鳥、斑鳩、西の京、平城京奈良、奈良坂を越え平安京京都と彷徨した時期に蓄えられた認識断片と安曇野に至ったきっかけの僥倖が作用したものに他ならない。
その結果として顕れた「安曇古代史場面」はまさに日本民族のふるさと「みずずかるまほろば」の桃源郷の風景であった。
しかしながら前述したごとく、これらは「仮説」であり仮説は長い地道な努力で実証されなければならないのである。
前出の倉田氏の「有明山史」によれば出雲は安曇から出発し、出雲神話は安曇神話を基とし、有明山は昔、「戸放山」と呼ばれ、天の岩戸の伝説は有明山が舞台であるとし、現在の戸隠山や姨捨の有明山は戦国期にかの地に移しかえられたものであり、創作された過去であるとする。
その多くの証拠書類、遺物、遺品は悲しいかな明治維新によって為された「廃仏毀釈運動」により方々に散逸してしまっている。
そして今、西暦二千年の安曇野はかってこの地にあったであろう縄文人の「まほろばの世界」や舟の民族と馬の民族の「激しい戦いの世界」の痕跡をすっかり時空の闇に没し去り「なにくわぬ顔」で横たわっている。
また生活する我々といえば日々なる「頭のハエ」を追うのに忙しく、その地を北に南にと走り回っている。
安曇古代史仮説は「歴史ロマン」でありロマンは我々の時空を限りなく広げ大いなる夢を抱かせてくれる。
多忙な我々ではあるがたまには悠久な歴史ロマンに思いを馳せるのも一興であろう。この拙稿がその一興に幾ばくかの手助けになれば筆者として望外の幸甚である。
そして、いつかどこかでこの安曇人が辿ったであろう悠久な物語をしっかりと書いてみたいという気が今している。 (了) |
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