この稿を稲作文明をもたらした弥生初期の「舟の文化」の風景から書き始めた。それ以前にあった風景とは日本原住民が営んでいた一万二千年に渡る「縄文の文化」の風景である。
その風景に映る安曇は安曇野と呼ばれる平野ではなく、北は大町から南は塩尻にいたる広大な淡水湖、「安曇湖」が横たわる風景である。
高い山々に囲まれ、遠く鳥獣の鳴き声が響き、満々と紺青色の清水を貯えた静寂な湖の風景はまさに桃源郷と呼ぶにふさわしいものであったにちがいない。縄文人はこの安曇湖の湖畔に定住し、この湖と山の豊饒な自然の恵みの中で安定した狩猟採集社会を営んでいたことが想像される。
松本の「蟻ヶ崎」、明科の「押野崎」等は安曇湖に突き出た岬の意味であり現代まで遺された文字の表象である。また安曇松本平の山麓には縄文期の遺跡や古年代の古墳が多く散在する。
大正時代にはこれらの遺跡や古墳が鳥居龍蔵博士により調査され、前出の八面大王の岩屋と言われている宮城の石窟はドルメン式古墳と称すべきものであり、日本全国においても他に容易に見ることが出来ないものであるとされた。
また穂高の山麓は養蚕の元祖である「天蚕」が始められた地域でも知られている。
縄文の文化は「ディオニュソス的原始性」、その後に渡って来た舟の文化は「タオイズム的自然性」である。この両者の文化を考えれば両民族は違和感なく融和したことであろう。融和した穏やかな社会は人間の生活にとって理想に近いものではなかったか。
しかし、その社会はそれほど長くは続かない。好戦的で性格が激しい馬の文化の到来である。両民族の平和な営みは破壊され馬の民族の強力な軍事力に従属を余儀なくされる。また馬の民族はそれに留まらず「蝦夷退治」と称して日本武尊や坂上田村麻呂を将軍とし東北地方まで追討の軍を派遣したのである。
現在、日本列島の最北の地、北海道の片隅に居住するアイヌ民族はその追討を逃れた縄文と舟の民族の末裔であろう。アイヌ民族のもつディオニュソス的原始性とタオイズム的自然性はかっての両民族が遺した香しい遺伝子である。ちなみにアイヌという言葉は「人間」を意味する。
司馬遼太郎氏は縄文集落「三内丸山遺跡」をもち、今でも「マタギ」が生活する下北と津軽の両半島で陸奥湾を囲む青森の地を日本民族の「ふるさと」であるとし、「北のまほろば」と呼んだ。
だが私は日本列島中央に位置し峻厳な山々で外敵から守られ豊饒な自然に恵まれた安曇湖周辺に営まれた社会こそ日本民族の「ふるさと」であったと考える。その桃源郷を私は「みすずかるまほろば」と呼びたい。
安曇湖が蟻ヶ崎により囲まれた内灘は現在の松本市街地であろう。その内灘の奥、背後に美ヶ原をひかえた「美須々ヶ丘」の地は息をのむような景勝地ではなかったか。私は信濃のまくら言葉「みすずかる」とはこの美須々から採った「美須々かる」をあてたい。
もっともここまでくれば安曇古代史仮説と題するよりも安曇古代史「幻視」、あるいは安曇古代史「瞑想」と題したほうがよさそうではあるが。 |
|