Linear 舟の民族、安曇族が辿った遙かなる安曇桃源郷への旅路

安曇古代史仮説/安曇野の点と線
Turn

(四)八面大王
 穏やかな南方系、舟の民族が気の荒い北方系、馬の民族に滅ぼされた経緯が大国主尊の「国譲りの話」であることは述べた。私は安曇人こそこの大国主尊につき従っていた舟の民族ではなかったかと考えている。

 馬の民族に追われた彼らは北陸路を辿り、糸魚川から姫川を遡り、仁科三湖周辺に住み着く。しかし追っての執念はすさまじくやがてはそこも危うくなる。彼らはさらに南下し、ついには安曇野に至ったのではなかったか。

 稲作は舟の民族が日本にもたらした最も偉大な文明であり、安曇野に至った彼らは葦原の荒野を見事な稲作田園にしあげたことであろう。そして今もなお我々が見る安曇野は日本でも有数な米作地帯である。

 しかし、そこにもやがて気の荒い馬の民族が襲ってくる。おそらく激しい戦いが幾度か繰り返されたことであろう。日本の古代神話「八岐大蛇(やまたのおろち)」伝説は有名であるが、この伝説はおそらく舟の民族と馬の民族が出雲で戦った状況を伝えているのではないかと思う。同様に安曇野には「八面大王(はちめんだいおう)」伝説がある。この類似性はいったい何を意味するのか。

 安曇野でも同様な戦いがあった証拠ではないのか。「八岐大蛇」伝説ではヒノ川の上流にいたという頭部が八つに分かれた大蛇をスサノウ尊が退治したとなっており、「八面大王」伝説では有明山の麓、宮城にいた八面大王を坂上田村麻呂が退治したとなっている。この鬼のような名前を付された大蛇や大王こそ舟の民族の族長の象徴であろう。温厚な舟の民族の中にも徹底抗戦する気概に溢れた大将もいたのであろう。

 歴史は後の権力者に有利に記述されるのであり、自分たちに正当性をもたせるように表現されるのは歴史の必然である。ゆえに征服者である馬の民族であるスサノウ尊や坂上田村麻呂が英雄となり、被征服者である舟の民族が八岐大蛇や八面大王になるのは当然である。歴史の真相は時の権力者によって常に隠蔽される宿命をおびているのである。

 おそらく出雲であった戦いと安曇であった戦いの構図は同じものであり、これらの戦いの物語が混合し、このように類似した伝説が後の世に遺されたのではなかったか。

 ともあれ、安曇野は渥美や熱海に住み着いた舟の民族が移り住んだのではなく、出雲から追われた舟の民族がようようにして辿り着いた場所とした方が話の筋がよく通る。

 また「出雲」と「安曇」の文字に象出した「雲」の表象相似は私に強い直観を促す。仁科三湖の「仁科」とはアイヌ語であり、「雲のごとし」という意味をもつ。

 また、「いずも、あづみ」という音もかなり近いものが感じられる。「あまみ、あつみ、あたみ」は清音で構成され、「いずも、あづみ」は濁音で構成されている。この音の異なりこそが両南方系、舟の民族が辿った歴史の異なりを表象しているように見えるのである。

 私はこれらの直観から「出雲は安曇」であるとの大胆な仮説を立ててみたい。それはまさにかすかに遺された安曇野の「点と線」の痕跡である。

柳沢 健 2002.02.14


copyright © Squarenet