「扶桑略記」の仏教渡来の記述によれば、信濃善光寺の草創の年次は明らかにしえないが、欽明天皇の代に百済国の聖明王が献じた一尺五寸の阿弥陀仏像と一尺の観音・勢至像が善光寺如来であるといい、この像を推古天皇の代に秦巨勢大夫(はたのこせのたいふ)に命じ、信濃国に送ったと記している。
さらに同書は「善光寺本縁起」を引用して、欽明天皇の代に、百済国より摂津難波に漂着した阿弥陀三尊仏が、推古天皇の代に信濃国、水内郡に移ったとしている。
また「伊呂波字類抄」には、推古天皇の代に信濃国、麻績村へ如来が移され、さらに皇極天皇の代に、水内に移り善光寺が創建されたと述べている。
これらの記述は、いずれも伝説的であって、その是非をにわかに定めることはできないが、境内から出土した瓦は白鳳期のものであり、その創立は七世紀後半と推定されている。
また善光寺信仰の勧進教化の説話には善光寺如来と聖徳太子との間で消息の往返がなされ、冥界からの救済を説く善光寺信仰と、四天王寺の西門で極楽往生を願う念仏信仰とを結びつけ、善光寺如来と聖徳太子が共同で念仏者を往生させるという話が遺されている。
これらの経緯からは仏教伝来草創期における摂津四天王寺と信濃善光寺に引かれた点と線がかいま見える。
さらに八面大王の石窟がある宮城の地を地元の人は「みやしろ」と訓読みするが、音読みすると「きゅうじょう」となる。古来、きゅうじょう(宮城)とは唯一、天子が起居する館の呼称である。であれば、何故にこの地を宮城と呼び、大王、蘇我馬子と八面大王の石室古墳が同じ構造であったのか。
推古帝、聖徳太子、蘇我馬子が創立した古代飛鳥王朝と古代安曇の地に引かれた点と線の痕跡をここに見る。
安曇古代史仮説では出雲と安曇に引かれた点と線をたどり、安曇の地にあった馬の民族と舟の民族の戦いを描いた。しかし、どうやらその裏には飛鳥の地でくり広げられた馬の民族と舟の民族の戦いであった蘇我物部の神仏戦争や、摂津四天王寺と信濃善光寺にまつわる仏教伝来の点と線が複雑に入り組んでいるようである。
いずれにしても、みすずかるまほろば信濃安曇の地とは大和国家成立にとって、特別の意味をもった地であったことに疑いはないようである。
しかしながら歴史の闇は未だ多くの謎を秘めてこの地を深く覆っている。今後の研究が待たれるところである。
最後に松本市の74歳、K子さんからのお便りをご紹介し、この稿を結ぶこととします。
・・・・母が南安曇の生まれでしたので嫁にきてからも「安曇はいいよ」と言葉のはしはしに云っておりました「松本の土とはちがうよ、石ころもないしネ」と畑の石をひろい「土地の人情があったかいよ」とも。今、(十年くらい)私はよく有明の温泉へ行くのですが、その間の景観がずい分変ってきました、こんなふうにもう数年変っていったらどうなるでしょう、私は眉間にしわがよってしまいます・・・・
安曇野に生きた母と娘との「とある日の情景」、その母の思いを背負って今を生きるK子さんの心情はかってあったであろう「安曇湖桃源郷の風景」を筆者にかいま見せてくれてあまりあります。ありがとうございました。 |
|