Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知のワンダーランドをゆく〜知的冒険エッセイから
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装備はハイテク 行動はローテク
 情報化社会が発展すればするほど人と人が直接会って話すことは少なくなっていくであろう。用事はインターネットやスマートフォンを使って済まされるようになる。今では数メートル先にいる友人とメールで会話する者までいる。
 確かに用事はこれで済んだとしても、肝心要な人間としての存在感のあかしである「思い」や「願い」等々の心持ちが正確には伝わるとはかぎらない。怒っている人の気持ちは、直に怒っている顔を見て話さなければわからないのである。だが今では会話している相手が人間であるかの手応さえ希薄となり、あたかも無機質なロボットと話しているかのようである。そのうち生身の人間は得体が知れない者となり、とても恐くて面と向かって話すことなどできないなどと言い出すかもしれない。社会は人間で構成されているのであって、ロボットで構成されているわけではない。この前提がなくならないかぎり、人と人が直接会って話すこと以外に社会の実存性を確保する手だては他にない。
 かっての社会ではそれを「面受」という言葉で表現した。いくら本を読んでみても「本当のところ」はその本を書いた「その人に会って」話さなければわからないのである。がゆえに真言密教を日本にもたらした空海は命がけで波濤逆巻く大海原を越え密教の法灯を継ぐ恵果大阿闍梨に会うためだけに唐の長安に渡ったのであり、「東洋のロダン」と称された彫刻家、荻原守衛(碌山)はロダンに会うためだけにフランスのパリに渡ったのである。ともに知識を求めたわけではない、恵果のそしてロダンの「思い」を求めたのである。
 とすれば、「課長、私が行ってあの気むずかし社長の気持ちを変えて何としても了解をとってきます」と言って飛び出していく者こそ、これからの情報化社会で最も期待される人間像となるにちがいない。情報化時代の主題は装備はハイテク、行動はおそろしくローテクということである。
 以下蛇足ながら付け加えると、今は亡き私の母は明治45年の生まれであったが、在りし日、中国最後の皇帝、愛新覚羅 溥儀を描いた映画「ラストエンペラー」をテレビで観ていた時のことである。「この人を満州(現在の中国東北部)で見たことがある」との母のつぶやきに、いっしょに見ていた孫たちから畏敬の賞賛を受けた。登場人物その人を歴史の現場で直に見たとする事実は彼らにとって消しがたく偉大に思えたのであろう。
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