Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知のワンダーランドをゆく〜知的冒険エッセイから
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神の目と人の目
 自分の頭脳の意味を自分の頭脳をもって考えることができるのか ・・? より言えば、自分の頭脳が正常か、異常かを自分の頭脳をもって判定できるのか ・・?
 この構図は「大いなる矛盾」である。それは自分の姿を自分の眼で見ることができない構図に似る。我々は通常、鏡という「対象」を通して、詳細に言えば、鏡という対象に映った鏡像を通してしか自分の姿を見ることができない。その鏡像を自分の実像であると考えているのである。
 しかし、その鏡像が正確な自分の実像であるかは疑わしい。もし自分の実像を映す対象である鏡が、いびつに歪んでいたならば、いびつに歪んだ自分の仮像を見ることになる。
 話をもとに戻して、自分の頭脳を知る構図をこの鏡の構図に置き換えてみると、自分の頭脳の中身を知ることとは、対象である話し相手(他者)の頭脳の中身を知ることと換言される。だが鏡の歪みと同様に、対象である話し相手の頭脳の中身が歪んでいた場合には、歪んだ自分の頭脳の中身を知ることとなる。
 つまり、この手法は精度が完璧な鏡や、話し相手の頭脳がなければ、我々は自分の実像(自分の頭脳の中身)を知ることはできないのである。しからば、精度が完璧な鏡や、話し相手が存在するのかと言えば、これまた難しい話である。
 結局、我々は永遠に、自分の姿や、自分の頭脳の中身の実像に迫ることができないことになる。
 前出の現象学を創始した哲学者フッサールが「対象を通しては実在に迫れないと直観した」理由もここにあった。もっとも、フッサールは対象という概念を使わずに「主観と客観」という概念を使っている。彼は現象学の出発に際し、従来の科学的視点であった客観的アプローチをやめて、「独我的アプローチ」で臨むことを選択したのである。
 この構図は、前述した我々自身の意識の視点を、我々が存在する「宇宙の内」に置くのか、それとも「宇宙の外」に置くのかという構図と同じであり、それはまた予定調和で述べた「相対宇宙と絶対宇宙」の構図とも同じである。
 意識の視点を「宇宙の外」に置くことは「神の目」を想定することであり、科学的アプローチはこの視点である。この視点で我々人間を記述するならば、「我々は60兆個の細胞の集合体」である。意識の視点を「宇宙の内」に置くことは「人の目」を想定することであり、哲学者フッサールの「独我的アプローチ」はこの視点である。この視点で我々人間を記述するならば、「我々は言葉の意味の集合体」である。
 意識の視点を宇宙の外において実在に迫る方法は、前述したごとく完全無欠な精度をもつ鏡を必要とすることであり、言うなれば「我々が神となる」ことに他ならない。 また意識の視点を宇宙の内において実在に迫る方法は、前述したごとく自分の姿を自分の眼でとらえようとすることであり、言うなれば「大いなる矛盾を克服する」ことに他ならない。
 いずれのアプローチも前途多難である。
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