Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知のワンダーランドをゆく〜知的冒険エッセイから
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世間体からの解放
 人間は自己の評価を基準として生きるのが妥当か、それとも他者の評価を基準として生きることが妥当なのか ・・?
 我々日本人は長い歴史を通じて「世間体(せけんてい)」という社会内の他者の評価をもって自己人生の評価の基準としてきた。何事を為すにおいても世間がそれをどう見るのか、そしてどう考えるのかを常に気づかってきたのである。もしその行為が世間体を逸脱したものであれば、その逸脱に応じた社会制裁が科せられてきた。その最も過酷な制裁は村という社会の全員がその逸脱者をまったくの仲間外れにする「村八分(むらはちぶ)」という量刑であった。
 しかしながら近年この傾向にも変化の兆しがあらわれてきた。現代人はこの世間体というものをあまり気にしない。現代人が重要視するものは個性であり、自己の主張である。
 つまり自己人生の評価の基準を他者評価から自己評価に軸足を移し始めているのである。その背景にあるものは、仮に他者評価から逸脱した行為をとっても社会から制裁をうけることが少なくなってきたという社会構造の変化である。
 その構造変化とは、物質文明社会のいちじるしい発展である。たとえ村八分の制裁をうけても24時間営業のコンビニという「食料自給手段」があり、家にはテレビや電話という「情報伝達手段」がある以上、村八分という制裁そのものが成り立たないのである。
 人間が社会を構成する根底には「相互扶助」の精神が横たわっているが、この相互扶助を有効ならしめるのは集団の倫理と規律である。この倫理と規律こそが「世間体」という個人が個人を互いに拘束する他者評価のシステムに他ならない。従って世間体という拘束概念が消滅することは、とりもなおさず相互扶助精神の消滅であり、それはまた社会の消滅でもある。
 現代社会はもはやひとつの倫理観で集団全体をコントロールすることが不可能になってしまった。社会は一見するとひとつのように見えるが、その内部は自己評価を基とする幾多の個別社会が複合したものである。現代社会の混沌と混乱はこのような評価基準の変化を視点として眺めなければ、本当の姿をとらえることはできない。
 自己評価を基とする生き方はよく言えば「個人の集団からの自立」である。個人が社会に頼ることなく、自己責任としての人生を確立することにつながる。他者評価を基とする生き方はわるく言えば「個人の集団への隷属」である。個人が社会に頼ることにより、他者責任の人生を確立することにつながる。前者は自己人生を肯定し、集団的拘束から解放される。まことに自由な環境ではあるが自分の考えを明確に持たなければ生きていくことはできないという点では悩むことが多く努力を要する生き方となる。後者は自己人生を否定し、集団的拘束に閉塞される。まことに不自由な環境ではあるが自分の考えを曖昧にしても生きていくことができるという点では悩むことが少なく努力を要しない生き方となる。
 日本古来の世間体という集団的拘束概念を破壊しつつある現代人が、この自己評価基準の生き方の根幹をなす「自分の考えを明確に確立」し、「自己責任の生き方」をしているのかどうかははなはだ心もとない。なぜなら自分の考えとはフィーリングと呼ばれる「感性」であり、自己責任とは単なる「利己主義」に逸しているように見えるからである。
 社会が感性や利己主義を基として構築された場合、いったいいかなることになるのか ・・?
 感性とはまた多く本能のことであり、利己主義とはまた多く適者生存の進化論のことである。人類はまたもや「猿の集団」のような社会に戻りゆくとでもいうのであろうか ・・?
 今、物質文明社会は世間体という他者評価の拘束性の呪縛から人間を解放し、自己評価を基準とした、ふたつの道を我々現代人に用意した。ひとつは真の自由と自立を確立する「高次元な人間への道」であり、他のひとつは偽りの自由と自立に陥る「低次元な猿への道」である。
 その選択もまた自己評価である以上とやかくは言えないが、現代の社会世相を眺めるにつけ、後者の世界への道を辿っているように思えるのは私だけであろうか ・・?
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