Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知のワンダーランドをゆく〜知的冒険エッセイから
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山中鹿之助の風景
 我々が眺める「この世の風景」が、自らの意識と感情によって「創作された風景」であってみれば、この世に「困ったこと」など何ひとつとしてない。
 困ったこととは、結局、「自らの意識と感情が困っている」のであって、取巻く「この世が困っている」わけではない。この世は是非なく、只々、生々流転するだけである。
 戦国期の武将、山中鹿之助は、若くして家督を継ぐ時、主家尼子家を再興することを誓い、山の端にかかる三日月を仰いで、「願はくは、我に七難八苦を与え給へ」と祈ったという。
 しかしながら、人が自ら七難八苦を望むことなどあろうはずはなく、もしいるとすれば、余程の変人ということになろう。あるいは、鹿之助は、是非なく、只々、生々流転するこの世に「もともと意味などはない」ことを、若くしてすでに見抜いていたのではなかったか ・・?
 この世の風景に「七難八苦という意味づけをする」のは自分自身なのであるから、同様に、同じこの世の風景に、逆に「七易八楽という意味づけする」のもまた可能である。
 つまり、鹿之助の願った「我に七難八苦を ・・」の七難八苦とは、「他者が意味づけた七難八苦」であって、鹿之助自身は「そのように意味づけないと宣言した」ことに他ならない。
 だが、だからと言って、鹿之助の願った「我に七難八苦を ・・」の精神的価値が低減するものではない。この世の大多数の他者が意味づけることと反対の意味づけを、孤立無援の個として自らすることは、「言うは易し、行なうは難し」であり、並みの胆力ではとうていできるものではない。
 鹿之助はその意味づけの困難さを充分に知っていたからこそ、戦略として「我に七難八苦を ・・」と祈ったのではあるまいか ・・? また、鹿之助が目指したものは、釈迦が至った「天上天下唯我独尊」という高みであり、自らが抱く「能動的な意識と感情」によって、この世の風景を「自在に創作」しようとしたのではなかったか ・・?
 事実、鹿之助の意識と感情が創作した風景は、現代において尚、失われることなく燦然と歴史空間に輝いている。 もはや「あっぱれ」と言うしかない。
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