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未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事

信州つれづれ紀行 / 時空の旅
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早春の里山をゆく / 長野県松本市岡田
岡田の里から鉢伏山を望む
 松本市街地の北に位置する岡田の里から望む鉢伏山である。 鉢伏山は標高1,929mの筑摩山地の山。 美ヶ原高原の南東に扉峠をはさんで、南側の高ボッチ山とともになだらかな山容を見せている。 前景の耕作地は宅地造成が進む岡田の里に残された最後の空白地である。 だがしばらくすれば、ここもまた 「新たな造成地」 として開発されていくことであろう。
岡田冠者親義の居館跡
 岡田の山麓に位置する岡田神社の参道に隣接するこの地は、木曽義仲の挙兵に際して活躍した源氏の武将、岡田親義の居館跡として知られている。 だがこの跡地も時代の波には抗しきれず、住宅地として生まれ変わろうとしている。 岡田神社は親義一族が尊崇した式内社である。 以下の記載は、現地に立つ岡田冠者親義の来歴を示す説明看板の写しである。
 岡田冠者親義は清和源氏といわれる清和天皇の六男、貞純親王を祖とし、祖父は源頼義、父は新羅三郎義光といわれる。 親義には、太郎重義、小次郎久義、井深三郎某という男子がいた。 源氏の一族であったため、木曽義仲と同様、平家追討の 「以仁王の令旨」 を受けた。 木曽義仲の挙兵に際しては大将格で迎えられ、義仲軍の初戦 「麻績・会田の戦い」 では、信濃国府を出発した義仲軍の道案内として先頭に立ち、奮戦したと伝えられる。 その後、横田河原の戦い等各所の戦いに従軍したが、寿永2年(1183年)5月11日、越中国と加賀国境の倶梨伽羅合戦で平家の武将平知度と組討ちして戦死した。 この戦いには、子、重義、久義の名も見え、親義の郎党30余騎ともあり、岡田の地から大勢の者が京に向け従軍したことが分かる。 居館は屋敷の周囲に堀を廻らし、その揚げ土を内側に上げ、土塀を建てた防衛施設であり、居館の前面など近くに町割り(館町という)をして、家臣を住まわせた。
芥子坊主山への林道
 岡田神社の裏手から芥子坊主山(891.5m)に向けて急峻な林間道が始まる。 高度は見る間に上がるが、同時に息もあがる。 それに耐えて30分ほども登ると田溝池に到達する。
田溝池
 かって、この辺りは旱魃に苦しみ、慶長年間(江戸時代中期)に池が造られたという。 現在は 「田溝池農村公園」 として整備されている。 池の周囲は800m。 ブラックバス釣りのスポットとしても知られている。 湖面に閑寂の気を漂わせ静かに横たわっている。

2023.03


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