Linear 遙かな雪煙をめざして

加藤保男 / 最後の講演
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( 北アルプス常念岳 ) 
“ 天才クライマーが子供たちに遺した言葉とは ”
 超人と呼ばれた登山家、加藤保男は世界最高峰エベレスト山頂に3度(春・秋・冬)立った。だが1982年12月27日、3度目の厳冬期エベレスト単独初登頂の偉業を成し遂げたあと33歳の若さで雪煙の彼方に消えた。その3ヶ月前、1982年9月16日に、北アルプスの麓、安曇野の中学校で行われた「最後の講演」を再生し、青春のすべてを山に捧げ、疾風のごとく時代を駆け抜けていった、不世出の天才クライマーが子供たちに伝えたかった思いが何であったのかを考える。

はじめに
 この稿を起こすきっかけは「ささやかな僥倖」による。

 ことは10数年もさかのぼろうか・・・私の研究所に勤務していたO君と話していた時、話が登山家、加藤保男のことに至った。何ゆえに加藤保男に至ったのか今では思い出せないが、O君が突如「僕はその人の講演を中学生の頃に聴いたことがあります」と言い出したのである。

 聞いてみると、どうやらその講演は加藤が「最後のエベレスト」に赴く直前(1982年9月16日)のようである。その後同年、12月27日に厳冬期初のエベレスト単独登頂を果たし、下山途中に合流した小林利明隊員と共に酷寒の稜線でビバーク、行方不明となるまで3ヶ月余りしかない。彼のエベレスト登頂と遭難がいかなるものであったのかを知るにはあまりに貴重な講演である。私の驚きにO君はさらに「確かその講演録があったと思います」と付け加えた。ぜひとも探してみてくれと頼んだのは言うまでもない。

 翌日O君は色あせたガリ版刷りの講演録を探して届けてくれた。講演からはすでに15年以上の歳月が経過しており、O君の整理整頓の良さには感謝して余りあった。読むにつれて、これは大変な資料であることがわかった。加藤は、生前たった1冊の本しかのこしていない。「雪煙をめざして(中央公論社)」がそれで、当時、私も読んだ。加藤と私は同年(1949年)の生まれで、私も20代には少々山をやっていたので、彼の活躍はいつも目にし耳にしていた。だが私にとって加藤は会ったこともない別世界の人であり、輝ける登山家であった。その彼の遺言のような資料が私の手元に届けられたことに不思議な縁を感じないわけにはいかなかった。

 その縁に引き込まれた私は、かくなる講演録を整理し世に出してやることが使命のように思え、また彼が私にそれを託したようにも思えた。その縁の不思議さは、後に(2003年12月2日)同じ中学校の同じ演台で同じ中学生に向かって、今度は私自身が講演(宇宙の構造とメカニズム)するに至ったことである。加藤が21年前に見た風景と同じ風景を見て講演することになろうとは想像だにしなかった。もっとも加藤の講演は彼が33歳の新進気鋭の頃であり、私のそれは54歳の少々老いぼれた頃であったことは大いに異なるところではあるのだが・・・。

 ともあれ、その使命を達するのに10年以上の歳月を費やしてしまったのは、私の怠慢以外の何ものでもなく、彼にはもうしわけなく思う。だがようよう背負っていた肩の荷も下りて、ほっとした気分が今私を包んでいる。



加藤保男「最後の講演」/講演録

講演日 / 1982年9月16日
講演地 / 長野県南安曇郡穂高町大字穂高5119 町立穂高中学校(現穂高東中学校)

※本稿の編集にあたっては、できる限り講演録に忠実に従いましたが、読みやすいよう章立し若干の改変を施させていただきました。


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 こんにちは。どうも、初めまして、加藤です。

 えーと今のフィルムは去年の10月、えーとたしか15日、今日ですね、あ、きのうか。9月の15日にカトマンズというネパールの首都を出まして、そしてキャラバンを進めて、10月の1日から14日までの2週間で登った、マナスル。世界で第7番目に高い山です。えーと、みなさんの手元にある資料を見ますと、エベレスト、これが、1番最初に登ったのが今からもう29年前です。

 エベレストってのはもちろんみなさん知ってますように世界で1番高い山です。そしてこのエベレストに登った人が今世界でだいたい120人ぐらいいます。もう1番最初にエベレストを登られてから29年たってまだまだ120人ぐらいしか登ってないっていう・・・しかも、そのエベレストに2度登ったことのある人間が世界で3人。1人はイタリアのメスナーという登山家です。それからもう1人がシェルパのテンジン。あっごめんなさい、シェルパの、えーと、ゴンブルーっていうシェルパです。それと私が登ってます。

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 で、実は、エベレストに3回登った人間ってのが、世界ではまだ誰もいない。しかも、1番厳しい冬のエベレスト、日本の山でもそうですけれども、冬の山ってのはものすごい厳しいです。その冬に今度また、今年の11月20日に日本を出まして12月1日から冬期エベレストに向かいます。

 一応、今の予定では単独で頂上登ろうと考えてます。もしエベレストに3度目、しかも厳冬期登ることができたらば、世界でたった1人の人間に、またなれるんじゃないかと・・・今そのために、一所懸命準備活動してますけれども・・・ま、たまたま2年前に、2度目のエベレストを登ったとき、ちょうど中国は華国峰という主席でした。で北京にもどってきた時に、「君が世界でたった1人の男か」っていうことで、ずいぶんほめられたことがあります。その後、イタリアのメスナーって人が登って・・・エベレスト、南と、それから北のチベットから登ったメンバーってのが2人。どうせだったらもう1回エベレストでたった1人の男、ま、世界でたった1人の男になりたいなという・・・そういう気持ちがあって、せっかくのチャンスだし、今、体力的にもいろんな面でも1番充実しているんじゃないかと自分で思います。だから今度の冬、ちょうどクリスマスぐらいにかけてなんとか頂上に達したいなって思います。

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 ただヒマラヤの登山ってのはものすごい厳しいです。冬のエベレストだとだいたい頂上付近でどのくらい気温が下がると思いますか? 常時、もう天気のいい時も、悪い時も、風が強い時も、ぜんぜん風が無い時でも、だいたいマイナス50度C近いです。ま、もちろんみなさんの中にはマイナス50度C、もマイナス30度C以下ってのは経験したことがないんじゃないかと思います。
 どんなにこの辺で寒くてもマイナス10度Cからマイナス20度Cいかないと思います。ところが、ヒマラヤの山ですと、もう7500mより上だとマイナス30度Cってのがザラです。しかも風が強い。その風が、例えば1m吹けば、自分の体感温度、自分が感じる温度ってのはさらに1度C低くなる。
 その上・・・みなさん燕は登ってますよね。燕あたりですと、この平地の空気の、多分80%ぐらいの薄さじゃないかと思います、空気が。それが5000mだと50%、半分になってきます。8000mでは1/3。もうエベレストの頂上ぐらいですと1/4になってきます。1/4の空気ってのは、もちろんみなさん経験したことないんでしょうけども、今、みんな無意識のうちに呼吸してますよね。この呼吸が、無意識で4倍のスピードでしているんです。じゃないと4回早くやらないと呼吸が入ってこない、空気が入ってこないんです。4回で1回分だと。そうすると、走ったりなんかするともちろん呼吸がおいつかなくなってくる。走れないんです。苦しくて。

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 1番最初にエベレストを登った時にテンジンっていう人、これシェルパですけれども、テンジンとそれから・・・えーと・・・テンジンともう1人誰でしたっけ?・・・ど忘れしたなぁ・・・そこに誰って書いてあります?・・・ヒラリー。この2人はまだ生きてます。で、この2人が最初に自分たちがエベレストの頂上を立ったということで、実はエベレストの頂上っていったいどんなところうっていうんで酸素マスク、こうやって酸素マスクつけてますけれども、これはずしたんです。したらどうなったか。どうなったと思います?
 10分くらいたって自分たちが酸素マスクをはずしてるのに気がついてあわててマスクをした。普通聞くとおかしいと思うんですよね。ためしにこうやってはずしてみたものが、もうそこで忘れてるんです、マスクはずしたということが。どういうことかっていうと空気がとても薄い。すぐ脳をやられます。ほいで思考力、ものを考える力というのがすごい低下する。

 で、いろんな経験があるんですけども、例えば遠征隊で山の上から荷物をしょって下るのが面倒くさいから、ここからみんな落としちゃうと。で、後で下で荷物を回収すればいいっていうことで、みんなに荷物を何個落としたか覚えておけってって落として、でそこの隊長って学校の先生なんですけども、自分でメモをして下りたんです。下へ来てみたら誰1人いくつの荷物を落としたか覚えてなかった。その先生ですら覚てなかった。で、後でメモを見て、いくつの荷物を落としてるってのがはじめてわかった。っていうのは、ものを考える、それからものを覚えてるという記憶がものすごく薄くなります。

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 で、実はあの僕は24歳・・・登山家の中では1番若くしてエベレストの頂上に立ちました。

 でその時に、今から9年前なんですけれども、実は頂上アタックのちょっと前に、その酸素ボンベって1本このくらい・・・7Kgぐらいあるボンベがあるんですね。それが、買って輸送費をいれると約10万円かかります、1本で。そいで、その1本で使える時間が約5時間半。そのボンベを1本を予備に、1本を自分が吸いながら登ります。ところが、その予備に持ってったボンベが頂上の近くまで行ってみたら酸素が入ってなかったんです。
 中が空気だっていえばたしかに空気なんですけれども、ぜんぜんその・・・入ってなかった。で、頂上の手前1時間ぐらいの時に、もう今までしょって来た酸素ボンベがからっぽんなりかけてる。で、新しいボンベに取りかえようとして取りかえたらばもうほとんど入ってないんです。

 で、その時に「おまえ、どうする?」って言われたんですね。登るか、下りるか。で、僕らの遠征隊が、全部で、隊員48名、それから現地のシェルパを入れて80名、総勢128名の遠征隊の中で「おまえたちが頂上に行け」っというふうに隊長から言われて、もう隊が成功するか失敗するかっていうのは、すべて僕らの肩にかかっていると・・僕らが成功すれば隊全体が成功できる。だけれども、もし登れなかったらばすべてが失敗だと。で、エベレストの頂上に行っちゃったら、もちろん帰ってこられるかどうかわからない。もう空気っていうか、酸素がないんですから。で、1時間あればなんとか頂上行けるだろうと、よし行こうっということで、頂上行ったんです。

 で、頂上へついて、だいたい4時半。もう辺りが薄暗くなってたんですね。で、僕はてっきりもう夕方だから、5時半だと真暗んなるし、4時半だから周りが暗いんだとばっかり思ってたら、実はもう酸素がなくて、僕の目が見えなくなってたんです。頂上について15分ぐらいの時に・・・そのいろんなことを頭ん中に思い浮かべて、例えば、そのテンジンとヒラリーのことも思い浮かべて、エベレストの頂上ってのはなんしろ頭がおかしくなるんだと。しっかりしなければもう、それこそ死んじゃうかもしれないってことで、何回も何回も、こう自分に言い聞かせて、それで1枚の写真を撮るのにも、真剣に撮っていました。

 ところが15分くらいたって、私の相棒っていうか、パートナーですね、パートナーの酸素を吸わしてもらったら目の前が、パァーっと明るくなってきたんです。僕はてっきり夕方だから、それで周りが見えないんだと思ってたんです。ところが、あの・・酸素が少ないとすぐ脳をやられる。で、脳をやられると、まず最初に目が見えなくなります。それで周りが、どんどんどんどん暗くなってきたと。これは大変だっていうことで、すぐ下りようっていうことで下りだしました。

 ところが、酸素なしであの高さで行動するってのが、ものすっごい苦しいんです。みんながマラソンをやって、ほいで、すごい心臓が痛かったっていうことがあると思います。その、もっともっと苦しい感じ。10m歩くと、その心臓が苦しいんじゃないんですね。キューっとしめつけられるように痛くなってきます。で、もう本当に苦しいから、雪の上に頭をつけてハァハァハァハァやってて、はっと気がつくと、もう僕の相棒がいないんです、となりに。で、ぱっと見ると下の方にライトがずうっと見上げてるんです。もう高さが8800m近くで、待たしちゃいけないと、待たせれば相手も酸素がなくなってきて状態が悪くなるから、なんしろ1mでもいいから早く下りようと、で、そのときにそのー、もう僕らは生きるか死ぬかのギリギリのところにいたんです。
 なんしろ、あんな高いところで、しかもそのとき秋ですから、マイナス45度Cからマイナス50度Cです。その中で、1mでも高度を下げればそれだけ助かるんだっていう気持ちがあったので、僕らは頑張って下りてたんです。  ところが、助かりたいっていう気持ちばっかりでそれがどんなに自分たちが危険なことをしているかっていうの、忘れているんですね。

 右がエベレストの南壁です。左がチベットっていう中国側のやはり谷底です。その山の尾根の上を真暗ん中、懐中電灯もなしに黙々と歩いていると、1歩前が谷底かもしれない、それがわからないんです。何しろ自分たちは下りなければいけないっていうことで歩いてました。そいでスリップしてみて初めて気がついたんです。なんて自分たちは馬鹿なことやってんだろうと、本当にこういうところを歩いているかもしれない。本当に1歩出たら、そこが崖の上だったかもしれない。なんにも見えないところをただ「下りなければいけない」っていう、その自己暗示ですね。それだけで行動してた。スリップしてみて初めて、あまりにも、その・・無茶なことをやってるってのに気がついて「よし、ここで夜を明かそう」と・・・で雪の斜面のところにほんのちょっとお尻がひっかかる程度に雪を削って座ってました。

 でひじょうに強い風でもって、もう寒いっていうのは何ていうか、歯が全然合わさらない、ガタガタガタガタ一晩中震えるんです。で「ねちゃいけない」もう、その時の恐怖感ってのは全然ないんですね。普通・・もし僕がそこで恐怖感を味わったら、多分1晩のうちに20か30、老け込んでしまったんじゃないかと思います。それはどういう症状んなるかというと、髪の毛が真っ白んなって、そいで顔はしわくちゃ、声は年寄りの声んなっちゃう。実際、フェルマンブールという人が、山で1晩でそういうふうになってます。ものすごい恐怖感と、それから幻覚の中に悩まされて歩き続けて、やっと帰って来たときには、想像もできないぐらい年取ってたと。

 人間ってのは、あのすごい恐怖感を味わうと一瞬にして年取ってしまいます。それと同じで、もし僕らがそのときに恐怖感を味わってたらば、ひょっとしたらそうなったんじゃないか。ところが、恐怖感を味わなかったんです。味わなかったっていうよりも、味わうだけのゆとりがなかった、というか余裕がなかった。何しろ全然もう夜中に目が見えない。目が見えないってのはなぜ気がついたか・・・時計を見ようと思って、こうやって懐中電灯をあてたら、腕が見えないんです。何が見えたかっていうと、目の前にオレンジ色の光がボーッとでただけで、腕も見えなかった。それほどまでに、自分の目が見えないんです。

 で、すごい寒い中で、何しろ、ねちゃいけないんだと、起きてさえ・・・していれば、明るくなれば再び下りられるんだと。だから「ねちゃいけない、ねちゃいけない」って、もう1晩中そればっかり考えてすごしてたんですけれども、その中で、睡魔ってのが襲ってきます。ものすっごい眠いと、ほいでその睡魔に襲われる時ってのは気持ちいいんですね。すうーっと何かの世界に、こう、吸い込まれていくように、眠ってしまいます。で、ハッと気がつくと、もう再びその寒さが襲ってくると。それの繰り返しでお互いにたたきっこしたり、もう頭、ボカボカたたいて、ねちゃいけないってって、もうお互いに頑張り、それから励まし合って、1晩なんとか頑張り通した。

 朝、太陽が出てきたときに、8500mにキャンプの残がいがあります。それは同じ年の春にイタリア隊が登ったときに残してったテントの跡なんです。で、そこまで行けば酸素も食料も寝袋、みんな落ちてると、そこまで行けば助かる。で朝、明るくなって、それが見えるんですね、下の方に。で僕はその・・こっちだと思って、昨日の、あの暗い中を、どんどんどんどん左手の方へ向かってったら、こっちはもうチベットの谷底なんです。そのまんま行ったらストーンと落ちてます。で本当にルートはこっちなんですよね。そいで右の方に見えるから、すぐ行こうって僕の相棒、石黒さんっていう人が言ったんですけども、ま、正直な話、僕は歩けなかったんです。歩けなかったんじゃなくて、その時点では無理だったんです。「悪いけども、太陽が出てくるまで待ってくれ」、で、太陽が出てきたら本当に、ここに・・・みんなが今こうやって座ってるように、となりの人の姿が太陽が出てきて初めて見えたんです。しかもどうやって見えたかっていうと、ボーッとした、うっすらとした影が雪の中に見えたんです。もちろん顔や形なんていうのは良くわかりません。何となく黒い影が見えたと。

 で、もうほとんど見えない。だから「悪いけれども前歩いてくれ」ってって、前歩いてもらって、その後ろをピッタリ歩いて、そのキャンプまで戻って来ました。で、そこでもって酸素・・・落ちている酸素を吸ったら、だんだんだんだん目が見えるようになってきて、やっと帰ってこられた。その当時の新聞に奇跡の生還とかっていろいろと文章が出てました。

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 で実はその・・パンフレットの中にも書いてあるけれども、僕はその時に凍傷にかかってます。

 で、まー、この辺にいると冬の厳しさ・・凍傷にかかった人、見たことがある人も随分いるんじゃないかと思います。・・で僕がかかった凍傷っていうのは日本の凍傷とはちょっと違ったんですね。
 山を登り終わって帰ってきて、最初に自分のこの・・右手、今、こう、もう爪んところ無いんですけれども、ぱっと手を見たら、自分の手がミイラみたいになってたんです。真っ黒くなってぺこんとへっこんで小さくなってました。もう完全に干からびちゃってる。で全然感覚が無いんですね。そしてすぐ日本へ帰って来て日本の病院に入ったんですけども、実は関東逓信病院(かんとうていしんびょういん)っていう東京の五反田にある病院に入りました。で羽田空港に着いて、そのまんますぐ病院に行ったんですけども、記者会見があったんですね、羽田で。で、うちの兄弟とか親が日本に帰って来たら病院に入院します。で病院は関東逓信病院ですって言われた時に、うちの親が聞き間違いまして、関東精神病院(かんとうせいしんびょういん)に入院すると思ってたんです。で、やっぱりヒマラヤのあんな高いとこ登ってたから、とうとう頭をやられて精神病院に入院しなければいけないんだとあきらめてたんですけども、どうも記者会見やってる内容を見てると、まともにしゃべっていると。あんだけまともにしゃべっても精神病院行かなくちゃいけないのかなって思ったら逓信病院を聞き間違えたって、そういうこともあったんです。

 で、病院に入っているうちに足が今度、ミイラみたいになっちゃったんですね。ほいで、全部で8ヶ月半、入院してたんですけれども、だんだんだんだんその・・手の感覚が無いし、その・・痛くも何にもないんです。で、ひまにまかして、こう・・ナイフでもって、そーですねー、かつをぶしあるでしょ、かつおぶしみたい・・んなもんで、こう削ってたんです。自分の手を、ミイラんなったところを。そのうち何か下の方に白いのが見えてきて、こりゃいったい何だろうと。筋かなーと思って針でもって、こうつっついてたら、それが自分の骨なんですね。で骨がもう、じかにここへ出てきちゃってるんです。ほいで、こりゃあもうだめだと。ほいで、その時点でしょうがないから切ってくださいってことで、あきらめて手足を切断してもらいました。

 で、ものすごいショックだったです。今まで中学、それに高校と陸上やってて、大学も体育の先生んなろうと思って、体育を一生懸命専攻してたから、まず僕は体を動かすことが大好きだった。ところが急に足の指がなくなった。もう走ることもできないんじゃないか、このまんま自分は生涯どうするんだろうなって、一瞬思ったことがあります。ただ自分が、体が不自由になったら、なったなりにどこまでできるか0(ゼロ)からもう1度・・ためしてみようという、そういう気持ちが起きて、で少しずつトレーニングをまたはじめました。

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 最初に病院を出て、2年たたないうちにナンダデビという7816m、インドで1番高い山に遠征の誘いがあって、で僕はこの山は6000m以上行かないと、6000mまでだったら手伝いに行くけれども、それ以上は行かないっていう条件で山に行ったんです。

 ところがあのー、初めて気がついたんですけれども、足の指がないっていうのは、ゆるい下り坂を下れない。あのー、階段でもそうなんですけれども、階段を下りようとする時に・・・みんなはもう全然気がついてないと思います。左にグッと体重をかけて・・・前の指の方に体重をかけないと足が1歩でてかない。それが足の先が無いから体重のかけようがないんです。それでも我慢して歩いてました。もうあぶら汗が流れてくるし、痛くて。そして足から血が吹き出てくるんです。もうせっかく足先がこう、きれいにかたまってるんだけれども、体重をグイッとかけるともう血管がもろに破れて血が吹き出てくると。

 それでも、ナンダデビという山に行って、登山期間中、1番強かった。キャラバンでずーっとあの、ふもとを歩いている時はみんなの半分ぐらいのスピードしか出せないけれども、山の上行ったら今度、みんなが僕の半分ぐらいのスピードしか出せない。それでもって、1番頑張れた。初めてそこで自信が出たんです。

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 そして再び、もう1回エベレストへ登ってみようかなっていうことで、計画をたてました。

 ちょうど、ネパールの登山局ってのがあるんです。その登山局の局長が「加藤、お前もう1回エベレストに登らないか」ってんですね。で「もちろん登りたい」。したら「いずれ世界でエベレストを2回登る人間が出てくるかもしれない。当然ヨーロッパの人が登るだろう」と。「でも、どうせ登ってもらうんだったらば、同じ東洋人であり俺の友達の加藤、お前が登ってくれないか」っていうふうに、で、「お前が登るんだったらば、全面的に協力してやろう」ってこと言われたんです。で僕もこんなうれしい話はないし、よし登らせてもらおうということで、申請を出しました。

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 で、いきなりエベレスト単独をやろうというのは、当然無理だと。だから、その前に2人でもって、マナスルを登ってみようということで、計画を出したんです。今から、5年前ですか。マナスルの遠征に、たった2人で行ってみて、実はこれ、登れなかったんです。マナスルは、今、映画で映した山です。あの頂上の手前150mまで行って、登れなかったんです。僕は、こんなにくやしいことはなかったです。目の前に頂上があっていながら登れない。なぜ登れないか、天気が悪い、それに雪がものすごく深い。8000mを過ぎて、9時間頑張っても、満足に行きつけなかった。

 その時に、ものすごいくやしい、けれども今は行くべきでない。それから世界のどんな人間が来ても、この条件では登れない。そういうふうに思ってあきらめました。

 僕は20歳の時にエベレスト・・・じゃない、アイガーというヨーロッパの一番大きな山を登って、それからとんとん拍子にずーっと山の世界ではいつも成功できたと。ところが、そのマナスルだけは、登れなかったんです。ただ、とってもいい勉強したなっていうふうに思いました、登れなくて。それは、どういうことか。これは多分みなさんがこれからの中でも、ものすごく感じるんじゃないかと、思うんですえれども、僕は、そのマナスルは、登れなかったけれども、とてもさわやかだった。気持ちが良かった。なぜかったら自分の持ってる力を全部出しきったんです。もう、これ以上、僕の力はない。もう考えられることは、すべて出しきりました。

 あれもできるんじゃないか、これもできるんじゃないかってことで、やって、最終的には、もうこれ以上自分の力はないんだとあきらめて帰ってきたんです。もちろん後悔なんて、全然ありません。すごいさわやかだった。
 そして、なぜ登れなかったのか、何が足りなかったのかっていうことを考えて、それを補って再びマナスルに去年行って、あっという間に登ってきた。そのひとつは、スキーを使わなければいけない。スキーさえあれば、どんなに雪が深くても、どんどん登れることはできる。そういうふうに思いました。

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 それから、ちょうど2年前ですか、中国から初めてエベレストに行くことができたんです。

 ちょうど2年前の春に、中国、特にチベットの方の山を外国の登山家に許可をすると。その中でエベレストは日本隊に最初に登ってもらうということで、むこうから許可が出たんです。で「お前、行かないか?」って言うから「もちろん行きたい」と。それでエベレストに行ってきたんです。

 この時、僕は前のエベレスト、最初のエベレストん時にも、その7650m(※8650mの間違いか)ぐらいで、なんとか1晩頑張って奇跡の生還ができた。2回目のエベレストの時には、そのー、みんなの(パンフレット)表紙にすごく大きくきたない顔で写っている顔があります。これは頂上で撮った写真です。しかも、どうやって撮ったかっていうと、自分の両手をこう・・・のばしてカメラを自分の方に向けて、シャッターをポンと押しただけです。たった1人でエベレストの頂上に立ったので、・・・もう時間がない、周りが暗くなってる。1秒でも早く下りなければ、いけないっていうことで、あせって撮ってすぐもどって来たんです。

 これは、あの、テレビを見た人もいるかもしれません。いっしょに行ったカメラマンが、途中でバテてしまって、その人を残して、たった1人頂上に行って帰ってきたと。しかもカメラマンと別れたところまで下りてきたら、カメラマンがいない。で、カメラが置いてある。そのカメラも、1台、800万か900万するものすごい高いカメラです。・・・ロープが置いてある。で、これはおかしいと。そんなに高価なカメラが置いてあって、しかもロープが置いてある。ということは、ひょっとしたらカメラマンが下で酸素を吸って、再び上がって来るかもしれない。じゃ、ここで待とうということで、8750mぐらい、もう、ほとんど頂上に近い所で1晩明かしました。
 そしたら、朝んなってみたらカメラマンの姿が見えないんですね。下の方に夜のうちはライトがかすかに見えたんですけれども、その場所に全然人影が見えない。しばらく待ってたんですけど・・・全然見えない。で、ひょっとしたらこれ、カメラマンが凍死しているかもしれないっていうんで、あわててそのカメラを拾って、ロープをザックに入れて、すぐ下りだして、8700mぐらい来たら、全然もう動けないカメラマンが、そこにいたんです。

 で「大丈夫か」って聞いたら、「だめだ」っていうんですね。「動けない」で、今、トランシーバーで上から加藤さんが下りて来ると。「助けてもらえ」。
 で、僕もめいっぱい自分のことは何とか自分で、できるという気持ちがあったけど、ここでもう1人の人間を連れて下りられるかなーって、すごい不安になりました。でも、もう生きるか死ぬかっていうか、人間が生活できない中での行動ですから、何とか下ろさなければいけないっていうことで、かろうじて、その人、手取り足取り、誘導しながら下りて来たんです。もう、ちょっとのミスが多分、スリップして死ぬかもしれない、その時に他のメンバーがみんなで一生懸命応援してくれた。トランシーバーで、もうひっきりなしに僕等のことを応援してくれて、指示をしてくれました。もう、みんなの気持ちがひとつんなってやっとできたと。

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 で、僕等がこう山を登っててみんなも思うんですけれども、山を登ってて、何で自分はこんなことやってるんだろうって思います。

 エベレストとか、それからマナスルなんか登ってる時に、もう苦しくて苦しくてどうしようもないと。ボーッとしながら山を登ってる時ってのが、1番ひどいときで1時間かかって3歩ぐらいしか歩いてないんです。1時間で3歩ってのはいったい何だろうって、みんな思うかもしれないんですけど、自分でも本当にどうしたんだろうと思いました。歩こうと思って・・・よしっと思って・・・20歩歩くとあそこまで行くなってこう・・・20歩のめやすがあるんです。気がつくと、まだ20歩が残ってんです。おかしい。で、もう1回歩き出すんです。ところがハッと気がつくと、まだ全然歩いてない。っていうのは、もう意識がないんですね。登るかっこうしたまんま無意識で、ボーッと立ってるだけだと。足が全然出ていけない、いかないっていうことがあります。

 で、今、登山をしている時にそんなことやったら、全然、もう頂上なんか立てない。何を考えるかっていうと、すっごい苦しい時、これは山だけじゃなくて、これからのみんなの人生の中にも多分、あるんじゃないかと思うんですけれども、うんと苦しい時に僕等は何を考えるか・・・1歩足を出そうって考えます。たった1歩でいいんだと、2歩も3歩も出さなくていい。1歩足を出せば、1歩それだけ頂上に近づくんだ。

 この1歩ってのは、ものすごい僕は大切だと思いました。たった1歩の足が、1歩出すっていう気持ちで20歩ぐらい足が出ていきます。いつも歩きながら歩数だけ数えてるんです。何歩、歩こう、そうしたら休もう、また何歩歩こう・・・そうやってないと、いつまでたっても苦しいから足が出ていかない、そういうことがありました。ほんのちょっとの油断が・・・自分達が命を落としてしまうかもしれない。絶えずそういう自分との戦い。

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 で、僕等がこうやって登山をやっている中で、さきほども“自己への挑戦”っていう言葉が映画の中の最後に出てきました。この中で、クラブ活動、運動部にいる人もいるかもしれません・・・野球、バスケット・・・柔道、水泳、陸上、こういうスポーツをやってる人・・・サッカーだってそうだと思います。自分の力が、どこまでのばせるか・・・運動部に限らず文化部でもそうです。僕はお花の世界とか踊りの世界、お茶の世界ってのは、わかりません。でも、お茶、お花の世界で日本一をめざそうとしている人達が、これが最後だ、これが満足だっていうのはありえないんじゃないかと思います。

 やればやるほど難しくなってくる。すると、自分がその世界でどこまでできることが可能か、すごく興味があるんじゃないかと思います。で、実は僕はあの、中学時代に陸上でハードルをやってたんですけれども・・・高校もそうです。先輩が怖いから・・・さぼるともちろんものすごい、もう、しごきみたいのがありました。先輩が怖いからっていうだけでやってて、全然進歩がなかった。これは、やる気がなかったんです、自分で。

 みんなもそういうことがあるんじゃないかと思います。同じやるにしても、やる気があるのとないのとでは、ものすごい違います。勉強もそうだと思います。親がやれ、と・・・しょうがないから机に3時間座ってる、ほいで、勉強やりました。全然これは身に付かないんじゃないかと思います。やる気がないときには、いくらやったって無理です。ところが、たとえ30分でも“よし、やろう”と思って集中的にやった方が、身に付くんじゃないか。3時間机に座ってるんだったらば、僕は1時間やる気があって座ってる方がいいと。クラブ活動でも2時間やってるよりも、自分が考えて、どうやったら速く走れるか、どうやったらうまくなるか、そして自分の欠点はこれだから、これを直してみようと・・・そうやった。それによってうまくなった・・・非常に面白いと思うんです。こうやったらもっとうまくなるかもしれないってふうにひとつひとつ考えながらやってる時・・・面白みがあります。それと、おんなじだと思うんです。

 ただ、ただ、だらだらとやってしまったらば、何であの時間、結局疲れるのは同じだ、使う時間も同じだと、のび方が全然違う。で死ぬ気になってものをやってみろってのは、今でこそ自分で言えるんですけれども。その当時、やっぱり、どうせやるんだったらば、何であの時やらなかったのかなっ・・・後悔してます。できる要素があってやらないからこそ、後悔ってのがあると思うんですね。

 で僕は、山を始めたのが高校3年です。ほとんどの登山家がみんなそうです。・・・だから、みんなにはこれから、まだまだどこまで自分がのびるかわからない、その要素を持っていると思うんです。はっきり言って僕は小学校中学校、ものすごい頭が悪かったです。通信簿なんて、いかに親に見せないで済むように・・・どうしたら親をごまかせるか、そればっかり考えて、成績を良くして親にそのー、堂々と見せようというよりも、この成績をいかにして親に見せないかと・・・そればっかり考えてた時期がありました。まー高校んなって少し勉強するようになったら、なんとかいいとこまでいくようになったけれども、・・・でも僕は、ま、こんなこと学校で言っちゃうと先生に怒られるかもしれないんですけれども、今、こういう生活をしてて、1番大切なのは何かなって考えた時に、英語なんです。

 もう、しょっちゅう・・・僕は、8月の29日にヨーロッパから帰って来て、そして本当ならば、きのう、ネパールに行く予定でした。ところが、ちょっと都合があって行けない。来月、またネパール行きます。そして、世界大会ってのがあって、世界のいろんな有名な登山家が集まって、そこで会議があります。もちろん、これ全部、英語でやります。で、その後11月、また遠征に行くと。しょっちゅう外国に行っている機会があって、ま、英語よりも、なんとかドイツ語の方がしゃべれるけれども、でも世界、どこへ行っても、やっぱり英語なんですね。高校入試の時に、英語の単語、いっこも覚えなかった、大学の試験の時にもいっこも覚えなかった、今頃んなって一生懸命、勉強しています。なんで、中学校の時にやらなかったのかなって後悔しました。

 それと国語の能力、それから書道。やっぱりこれが1番、自分でもっと勉強しておけば良かったかな。実は数学だけは一生懸命勉強やったんです。ところが、実際社会に出て、そこまでの数学が、全然、使うことが無かった。高校で、第3次方程式ってのがあります。第1、第2、第3次方程式。そこまで勉強したけれども結局、今、使う機会が無かった。それだったらば、もう少し英語を勉強しておきたかったな・・・。もう何がきらいだって僕は、英語ほどきらいな授業、なかったですから。それを非常に後悔しました。これからみんなは、どんどん外国に出る機会が多いと思います。でも、今のうちにやっといた方がいいんじゃないかな、そういうふうにも感じます。

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 ただ、これからみんなの中で、いろんな人生において問題が出てくるんじゃないか、多分、失恋もするんじゃないかと思います。でも、ひとつだけ、これだけはみんなに覚えておいてもらいたい、今日の僕の話の中で他のことはみんな忘れていいです。

 ひとつだけ、これだけは覚えておいてほしいというのは・・・人間・・・苦しいこと、つらいこと、これを経験しておいた人間、苦しければ苦しいほど、その時の思い出ってのは生涯忘れることはありません。ほんとに苦しい、死にそうになった時のことってのは、ものすごく良く覚えてます。それが、生きるか死ぬか・・・それをのりこえた時の人間ってのは余裕がでてきます。いつでも、たとえ1歩でも前に進むことができる。もう、これ以上自分は落ちることがないんだって時のひらきなおり、それから、ぐじゅぐじゅしない。何でも思ったことはあたってくだけろ、で、実は、あの植村直己さんとか、三浦雄一郎さんとか、プロの冒険家の人がずいぶんいます。その人達としゃべってて・・・人間、みんな夢を持ってますよね。その夢をひとつでも多くかなえたほうが、人間、あじがでてきます。

 生涯、あれもやりたかった、これもやりたかった・・・多分、みんながいくつで死ぬかわからないけれども、早い人は30で死んじゃうかもしれない、60、70まで生きるかもしれない。その死ぬ寸前に、自分のことを思い出すと思います。誰しも夢がある、その夢を1つでもおきかえられたら、現実におきかえられたら、それほど人間、幸せはないんじゃないかと思います。だから、まず自分が夢を持ったらば、何とかそれに向かってゆく、現実におきかえられるように、すると。

 それから、物事、すべて良く解釈する。お金落としても、2度とお金は落としちゃいけないんだと思ったら、それはとても良い勉強になります。そういうことを忘れずに・・・何しろ、どうせやる時には、めいっぱい力をぶつけて後悔しないように、中途半端でやると絶対後悔が残る。ですから、これから何にしても、物事をとても良く解釈した方が得だと。ぐじゅぐじゅぐじゅぐじゅしてる性格、これは性格だからしょうがないって言われたらそれまでなんですけれど・・・そういうものが・・・かえられます、性格というのは。何しろいつも前向きな姿勢を、何事も良く解釈すると。いくらでも良く解釈できます。

 例えば旅先でとても大切なものをなくしてしまったと。困った、困った、どうしようっていうよりも、なくした事は自分のミスだと。だけれども、それがなくなったために、自分の命が助かったと思えば、こんな安いものはない。2度とそれでなくすようなこと、しなければいいと、そういうふうにおきかえれば、良かったって思えるかもしれない。

 そういうこともそうですけれども、これからのみんなっていうのは、ものすごく夢があり、いくらでも、何でもできます。そのためにまず今のうちは・・・1つは健康な体をつくる。自分が何かやりたい時に、1番大切なのは、自分の体です。どんなに頭が良くても病気ですぐ寝込んでしまうようだったらば、全然使いものになりません。どっかの外国へ行きたい、と、何かやりたいという時でも、体が資本です。今のうちに、まず中学生、それから高校にかけて、一生懸命体づくりをして下さい。そうすればその後は、何でもやりたいことができるようになるんじゃないかと思います。

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 もっともっと・・・いっぱい、こう、しゃべりたいんですけれども、もう50分という時間がほとんどきちゃってます。

 僕はこの冬、もうすぐです、厳冬期のエベレストにもう1度行く。多分成功・・・したら、新聞にでかでかと載るんじゃないかと思います。みんなはこうやって今日、僕の話を聞いてくれて、もしその時に新聞に出たら、加藤がこんなことを言ってたと、そして自分の生き方っていうか・・・自分に対して、どこまで1人の人間が・・・登山ができるのか。加藤保男という人間が、どこまでの力がある。世界の1個人、1人の人間が、どこまでの記録をのばすことができるか。そういうものに対して、一生懸命、僕は燃えてると。

 みんなも、何か自分にあったものに対して・・・自分に対しての挑戦だと思います、生きるということは。例えば勉強するにしても、先生のためでもない、親のためでもない、これは自分のための勉強だと思います。そういうことを考えて、自分もどこまでのびるのか・・・自分に対して興味を持って頑張って下さい。

 僕も、こうやって言ったてまえ何とか冬のエベレストは成功させたい。そして、機会があったらば、またみんなと会えることを楽しみにしてます。その時までに、お互いにどの程度成長できるか・・・だらだらだらだら生活したら、今日1日は終わってしまう。今日という日は2度ともどってきません。

 実は僕はもう33です。すっごく年齢的にも、まだまだ現役のど真ん中だけれども、あと5歳若かったらとか、あと10歳若かったら、もっと、こういうことができるんじゃないかっていうふうに、すでに思ってます。1年たてば、1年たつほど、だんだんだんだん自分のやりたいことっていうのが狭まってきます。今、みんなは、1年たてばたつほど、やりたいことがどんどんどんどん広がってくる。今、みんなは13・・14・・15歳ぐらいですよね。あと5年後にどこまで自分がのびるか、それを考えて頑張ってもらいたいと思います。

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 えーと、時間がちょっとすぎちゃいましたけれども・・・もう1度あとで、今日、寝るときにでも、ま、僕の話、思い出してもらえたら、僕も今日、こうやってしゃべっただけの価値があると思います。お互いに・・・これからも、頑張りたいと思います。じゃ、これでいったん話は終わりにいたします。

 どうもありがとうございました。


おわりに
 加藤保男が講演の中で言ったとおり、厳冬期のエベレスト単独初登頂の報は新聞の1面に「でかでか」と掲載された。「ついにやったか」と私はその快挙に誇らしくも胸が高鳴った。だが翌日の新聞報道は「加藤帰らず」を伝え、快挙は1日にして暗転してしまった。

 だが超人、加藤をもってすれば必ずや「やあー、やあー」と明るい笑顔で帰還するにちがいないと私は思っていた。だが1日たち2日たち5日もたつと、さしも希望は絶望へと代わっていった。そして、彼と競い同様に超人と呼ばれたイタリアの登山家、ラインホルト・メスナーの「この環境下で生存できる生物はいないであろう」というコメントを聞くにおよび、ついに観念した。

 加藤は雪煙の彼方へ消えたのである。テレビニュースで放映されたベースキャンプとの間で交わされた「最後の交信」で流れた彼の肉声がその後を追った。

           「非常な寒さです・・・明日の朝・・また交信します・・・おやすみなさい」

 登頂を果たした彼の声は高揚し快活で明るく元気であった。優しい彼の性格を象徴するような「おやすみなさい」、いや「おやすみなさいー」と語尾をのばした最後の言葉は、支援してくれた人々に対する感謝の発露であろうが、私にはこれで思い残すことはないという「メッセージ」のようにも聞こえた。そしてさらには、帰還できないことを無意識下で想定した「別れの言葉」のようにさえ思えた。

 さしものエベレストの神も春、秋、冬の3度の幸運を、この不世出の山の寵児には許さなかったのか、あるいは、たぐいまれなる純心を抱いたこの青年に嫉妬したエベレストの女神が永遠に手元に置きたくなったのか・・・それは今も謎のままである。だが子供たちに語ったように、加藤の魂は今も「1歩・・1歩・・また1歩と・・」遙かな雪煙をめざして登りつづけていることはまぎれもない。


加藤保男/略歴
1949 3月6日 埼玉県に生まれる
    高校3年 岩登りをはじめ 穂高を中心に登攀活動を行う
    日大文理学部体育学科卒
1969 6月 チマ・グランデ峰登頂
    6月〜8月 初渡欧 アイガー北壁直登ルートを開く
1971 夏 ベッターホルン北壁直登ルートを開く
1972 3月 グランドジョラス北壁中央クーロアール初登攀
    夏 マッターホルン北壁を登る
    9月 ブレチェール針峰北西稜末端から初登
1973 10月 エベレスト東南稜から登頂
1976 6月 ナンダ・デビ 登頂
1978 8月 マナスル行き 悪天候 積雪のため約8000m地点から引き返す
1980 春 チョモランマ(エベレスト)北壁稜から単独登頂
1981 10月 マナスル無酸素登頂 日本人として初の8000m峰3度登頂者となる
1982 12月 エベレスト単独登頂(冬季初)を果たし(27日)下山途中 合流した小林利明隊員と共に
    行方不明となる 33歳


加藤保男が子供たちに宛てた最後の便り
    皆様の感想文(手紙)をここ
    3800mのタンボジェで読ませて
    もらいました。 ありがとう
    ベースキャンプまではあと3日の
    行程です もちろん皆の手紙も
    エベレストのベースキャンプに
    持って行きます
       苦しければ苦しい程
           喜びは大きいはずだ

       皆も 受験 頑張れ

         11月27日

                   Yasuo Kato
長野県南安曇郡穂高町大字穂高5119
町立 穂高中学校
      3年4組 の皆様へ

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(編集・文 / 柳沢 健 / 2010年12月12日)

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