Linear アフォリズムで描いた知的冒険ワンダーランド
ショートエッセイセレクション / 第 10 集
Turn
知のワンダーランドをゆく
文 / 柳沢 健 / 2018.01.01 〜 2018.11.12
涙のスキップ〜未知領域への勇気と覚悟
 新たな社会は未知なる領域を繋ぐ 「意識のワームホール(時空のトンネル)」 としての思惟によって拓かれる。 だがかくなるワームホールが見つかったとしてもその未知領域に飛び込むにはそれなりの勇気と覚悟がいる。 その勇気と覚悟の中核は 「日常性からの脱皮」 である。 日常性はまた習慣性へと換言されるが、習慣からの脱皮には多大な精神的エネルギを必要とすることは誰しも経験してきたことである。 習慣の本質は惰性であって、惰性とは努力しないことから発現する行動の様式である。 ゆえに日常性からの脱皮には多大な努力と苦難の道を行く勇気が必要なのである。 その勇気を例えて話せば以下のようなものである。
 誰しも失恋すれば深い喪失感で感傷にひたってしまう。 なぜならその感傷にひたっている状態がことさら心地よく精神的に楽だからである。 逆にその感傷を拒絶して顔を上げ胸を張って立ち上がり歩き出すことはその何倍もの苦痛をともなうものであってことさらの勇気を必要とする。 その勇気を形容すれば悲しみに涙する者がスキップするようなものである。 新たな世界を拓こうとするならばかくなる 「悲しみに涙しながら笑顔でスキップする」 ような勇気と覚悟を受容しなければならない。 未知領域への道はかく思うほどには楽ではないが、かといって怖れるほどには難くない。
この先いったい何を?
 地球のあちこちを隈無く知り尽くし、その地球のあれこれを隈無く情報化した人類は、この先いったい何をしようとするのか? 人類が為しうる自然科学における大半の 「法則」 を発見し尽くし、人類が考えうる芸術文化における大半の 「物語」 を書き尽くした人類は、この先いったい何をしようとするのか? 重箱の隅を突くような法則の応用と物語の焼き直し以外の他に何も残されていないように観える。 考える葦として未曾有の大成功を収めてきた人類にも限りがあるということか? それとも盛者必衰の理はやはり突破できない理なのか?
社会の変質〜被る代償は甚大
 社会は公共性から経済性へとその本質を変え、公共性に支えられていた社会構造は経済性に支えられる社会構造へと移行を試みているかのようである。 巷間、社会の公共性を標榜するかのように 「都民ファースト」、「アメリカファースト」、「○○ファースト」 というキャッチコピーが多用されてはいるが、このコピーの意味するものは 「公益性」 であって、その語るところは姿を変えた 「経済性」 である。 経済性の求めるところは 「経済的合理性」 であって、その本質は 「個別利益の優先」 である。 他方、公共性が求めるところは 「社会的合理性」 であって、その本質は 「全体利益の優先」 である。 ちなみに 「都民ファースト」 とは個別的な都民利益の最大化を目的とした政策であり、「アメリカファースト」 とは個別的なアメリカ利益の最大化を目的とした政策である。 では社会政策が全体利益優先から個別利益優先へとシフトしたら世相はいかなることになるのか? それは、個別格差の拡大、利己主義の横溢、奉仕精神の喪失 ・・ やがて来る 混乱と闘争。 予測される事態は明るいものではない。 現代社会に潜在するこれらの病巣をいかに治療するかによって人類の未来像は大きく異なる。 もし仮にその治療に失敗したときに被る代償は想像を超えて甚大なものになるであろう。
山奥で咲く花〜心即理
 陽明学の祖、王陽明が南鎮の奥山に遊行したときのことである。 同行の弟子のひとりが岩間に咲いている花の木を指して質問した。 「先生は天下に心外のものはないとおしゃいますが、この花は深い山奥で自然に咲き自然に散っていくだけです。 ということは、私たちの心と何の関係があるのでしょうか。」 陽明が答えた。 「君がまだこの花を見なかったときは、この花は君の心とともに静寂の状態であった。 いま君がここへ来て、この花を見たとき、この花の色はいっぺんにはっきりとしてきたのだ。 これで、この花が君の心の外にあるものでないことがわかるだろう。」 「心即理」 とは陽明学の中核的思想である。 心はすなわち万物事象の理(道理、正しい筋道、条理)であり、心と万物事象は一体である。 心の中には宇宙の根源的な原理が含まれていて、心の内と外に対立はないとする考えである。 弟子が発した質問は、心と万物事象が別々のものであるという 「二元論」 に立ってのものであり、他方、陽明の答えは、心と万物事象は一体のものであるという 「一元論」 に立ってのものである。 我々現代人の多くは、訪れる人もいないような山奥で咲いている花などは 「自らとは関係ない」 ものとする弟子の考えに賛同するのではあるまいか。 賛同するまでもなくそれが真理だと考えているのではあるまいか。 一行がその奥山を訪れその花に出逢うまでは 「その花は存在していなかった」 かのような陽明の答えを素直に受け入れる人は希少ではあるまいか。
過去と未来は現在に含まれている
 「時は流れず〜夢幻のごとく」 で描いた 「過去・現在・未来と連続する線形時間は存在せず過去と未来は現在に含まれている」 とする時空概念はいったい何を語っているのであろうか? 記述の中の 「含まれている」 とは幾つかの過去世界とまた幾つかの未来世界が現実世界の中に重層的に重なっていることを意味している。 またそれらの重層的な世界は重なっているとともに意識のワームホール(時空のトンネル)で繋がっている。 過去のある所から他の過去のある所へ、未来のある所から他の未来のある所へ、過去のある所から現在のこの所へまた未来のある所へ ・・ 等々、瞬時に意識世界が移動できるのはそのためである。 このような 「ワームホール構造」 を備えている生物はあるいは人間のみなのかもしれない。 万物の霊長と尊称される所以である。 そんなことは 「たいしたことではない」 と言う人もいるかもしれないが、2次元平面空間しか知らないで生きている人と3次元立体空間を知って生きている人との差を考えれば、その大きさを理解いただけるのではあるまいか?
現在とは何か?
 現在は実在としての物的な万物事象とその運動で構成されていることをもって記憶や想像などの意識で構成された過去や未来とは本質的に異なる。 何よりその物的存在や運動を意識のみをもって無くしたり止めたりすることはできない。 現在は今の今の刹那の宇宙であって瞬く間に過去世界と未来世界を増殖させる。 まさに高速増殖炉 「もんじゅ」 顔負けの増殖能力を秘めている。 その意味では現在とは意識的重層世界の高速増殖炉といっても過言ではない。 その増殖能力は端的に言えば人間の記憶能力や想像能力等々の意識能力に依存している。 人類は長い歴史を通してその能力の向上を図って来た。 当然にして増殖能力もまた格段に進歩したのである。 そして今、情報化時代に至ってその意識的重層世界の増殖能力は無限大に迫る勢いである。 このままでは人間意識のほうがオーバーヒートしてしまいかねない。 何より心配なことは人間自身が無限数に重なった意識的重層世界に埋没して今の今の実在としての現在が喪失しまいかねないことである。 リアルとしての現在をそっちのけにして意識が無限のバーチャル世界に飛翔してしまってはもはや心神喪失まであと1歩である。
真理は朽ちることがない
 宇宙に隠された真実を探求する人の頭の中の世界は朽ちることがない。 理論物理学者や数学者等々 ・・ 真理を探し求めている人はこの地球上にあまたいるであろうが、肌の色や生活様式や身につける衣服は異なってはいても、その頭の中の世界はそれが 「真理である」 かぎり寸部も異なるところはない。 それは数百年の時間を経過してさえ微塵もゆるがない。 アインシュタインが探し出した相対性理論の世界は、たとえその理論を紋付袴を着た日本人が探し出したとしても少しも異なるところはないのである。 他方。 俗人が追い求める毀誉褒貶のごときは、人や場所や風習 ・・ 等々によって異なり、時間が経てばたちまちのうちに色褪せて朽ち果ててしまう。 真理はこの世のいかなる毀誉褒貶にも依存せず、いかなる時代であっても変わることはない。 昨今の世相をつらつら眺めると、その砂上の楼閣がごとき頼りなさに言う言葉も見あたらない。 人間が頼るべきは不動の基盤であって、ころころと変わるような土台では何をやってもその上にまともなものは造れない。 それどころか日々不安にさいなまれ 「生きているここち」 がしなくなる。
教える教育から考えさせる教育へ
 現代の人材教育を簡潔にまとめれば 「コピー人間」 の増産である。 その目指すものは 「知識の複写」 である。 例えて言えば高性能の複写機をつくっているようなものである。 コピーの対極はオリジナルであるが現代ではその 「オリジナル人間」 が枯渇しかかっている。 オリジナルを生むためには自らの頭脳を使って無から考え出さなければならないが、コピー教育で育った者にはその思考回路が存在しない。 すべては参考資料頼みであり、他者からの助言や指示待ちである。 かって笑い話のような話を聞いたことがある。 某日夜半、とある営業支店から本社の統括部長のもとに電話がかかってきた。 「今、支店の給湯室が燃えています。 どうしたらいいでしょうか?」 その報告を聞いた統括部長は 「とにかくすぐに水をかけろ!」 と一喝したという。 自らの頭で考えないコピー人間の様相がよく顕れている出来事であるが、このような様相は今では日常茶飯事となりつつある。 異音を発し煙が出ている新幹線を走り続けさせたJRの顛末などは笑って済まされるものではない。 この先、コピー人間のみになってしまった社会がいかなることになるのか想像するだけで背筋が寒くなる。 今すぐ 「教える教育から 考えさせる教育」 に転換しなければ大変なことになる。
決め手は好きか嫌いか
 「貴方の言うことは論理的で正しいが 私は貴方が嫌いだ」 という対応は何を語っているのか? かってとある会社の販売本部長から聞いた話であるが 「買うか買わないかを最終的に決めるものはその販売員が好きか嫌いかだ」 という。 セールストークが上手いからといっても決め手にはならない。 逆に何をいっているのかわからないような販売員から買うこともある。 むしろその方が多いかもしれない ・・ というのである。 これは重要なことを示唆している。 世がコンピュータ全盛となり、すべてが人工知能に置き換わったとしても、最後の決定は 「好きか嫌いか」 という人間特有の情感に委ねられるということである。 ではその好きか嫌いかはどこからやって来るのか? いかなる人が好きか嫌いかは人生を賭けた究極の課題ともいえる。 私の好みが妥当かどうかはわからないが、しいてあげれば、それはその人が内蔵する 「正義感」 であり、「誠実さ」であり、「美意識」であり、「使命感」であり、「素朴さ」であり、「優しさ」であり、「明朗さ」であり ・・ 等々である。 翻って現代社会の様相を眺めれば、それらの情感をさておいて、事の善悪や正誤をのみ口角泡を飛ばして論争しているだけのように観える。 人が内蔵する情操を無視しては、いかなる立派な主張であっても事の成否はままならない。 「仏造って魂入れず」 とはこのことである。
溶けていく明日
 次々と新たな文明を拓いてきた人類も ここにきて 明日の予測が立たなくなってしまったようである。
宇宙のカオス化を探求する 「複雑系」 と呼ばれる科学は、エントロピー(ある種の曖昧量)が増大した社会の様相を解明すべくコンピュータを駆使して計算を試みてはきたものの、超高性能コンピュータをもってしても 「その混沌の増大」 に追いつくことができていない。 その主たる原因が情報化を推進したコンピュータサイエンスであってみれば、その解決策は 「大いなる自己矛盾」 である。 混沌の解明に使用するコンピュータの性能を向上させればさせるほど、その向上に比例して混沌もまたさらに増大してしまうのである。 解決はコンピュータの性能を低下させることであろうが 「見てしまったものを見なかった」 とは言えないのであって、原子炉の核分裂反応のごとく 「ひとたび始まってしまう」 と抑えることは至難の業なのである。 福島第1原発の炉心溶融事故の廃炉作業でさえ30年とも40年ともそれ以上とも言われているのが現状である。 カオス化した社会の明日の予測がかいもく立たないことは炉心溶融のごとく 「溶けていく明日」 の姿を暗示しているのか、それとも溶けゆくものとは、あるいは 「人類の脳髄そのもの」 なのであろうか?
アベノミクスの終焉
 「パクス・アメリカーナの終焉」 を書いたのは2013年10月9日のことである。 「パクス・アメリカーナ」 とはアメリカ合衆国の覇権が形成する 「平和」 を意味し、ローマ帝国の覇権が形成した 「平和」 である 「パクス・ロマーナ」 に由来する。 「すべての道はローマに通ず」 とまで言われた強大な覇権国家であったローマ帝国もやがては衰退し時代の彼方へ去っていった。 栄枯盛衰、歴史に例外はなく、始まりあれば終わりあるは世の習いである。 事の可否に是非はない。 同様に権勢を誇る 「パクス・アメリカーナ」 もまたその歴史の必然から免れることはできないであろう。 そして構図は矮小化されるが、全盛を誇った 「アベノミクス」 もまたその轍を踏襲することになってしまうのであろうか ・・?
信義なき戦い
 かって 「仁義なき戦い」 というヤクザ映画が時代を席巻した。 戦後の広島県で実際に起こった広島抗争を題材にしたもので生々しい描写が話題を呼んだ。 題名どおり、仁義なき裏社会の人間模様が克明に描かれていく。 1973年の公開であるからすでに45年余りの歳月が過ぎ去ったことになる。 主演した菅原文太や松方弘樹 ・・ も今は亡い。 「仁義なき」 とは、仁義がない世界を指しているのではなく、仁義はいまだあるが、なくなりつつある社会ということである。 言うなれば、なくなる社会に向けての過渡期ということである。 そして半世紀を隔てて世相は今 「信義なき戦い」 の様相を呈している。 森友学園問題における財務省の決裁書類の改ざん、加計学園問題における文科省の文書隠し、厚労省におけるデータ改ざん、日本年金機構における個人情報漏洩 ・・ 等々。 信じられないような虚偽や偽造の数々は目を覆うばかりである。 「信義なき」 とは 上記したようにかろうじて残っている信義がなくなろうとする過渡期の社会である。 「仁・義・礼・智・信」 とは 儒教が説く5つの徳目である。 この徳目を守り 拡充していくことで人は道を全うすることが出来ることを教えている。 仁と信はかくのごとしであるが、残された 義・礼・智 にしてもまた風前の灯火がごとくに頼りない。 この状況が人間性の劣化を語っているのか、それとも変質なのか ・・ 先哲の叡智を忘れて、人はいったいどこに行こうとしているのか ・・?
過去世界と未来世界〜その発生と消失のメカニズム
 歳を重ねるにしたがい過去の世界はなにげなくふと浮かんでくるのだが、未来の世界はなかなか浮かんでこない。 過去が記憶で構成され未来が想像で構成されることからすれば、未来の世界が容易に浮かんでこないのはその想像力の欠如に原因がある。 若年の頃は記憶された過去世界は老年のそれとくらべてその量ははるかに少なく、それに反比例して想像される未来世界は老年のそれとくらべてその量ははるかに多い。 言うなれば若年の行動様式は未来世界に重点がおかれ、老年の行動様式は過去世界に重点が置かれるという必然性である。 比較する若年の歳をさらに引き下げ、老年の歳をさらに引き上げれば、その比率はさらに拡大し、若年の意識は未来世界ばかりに、老年の意識は過去世界ばかりに傾斜していく。 そしてついには若年の意識世界からは過去世界が、老年の意識世界はからは未来世界が消失してしまう。 これが過去世界と未来世界の発生と消失のメカニズムである。
このメカニズムは必然性をともなった誰しも免れ得ぬものであろう。 多少でも抵抗を試みるならば、若年では過去を省みて記憶することに、老年では未来を夢みて想像することにその思いを傾注させることであろうがどうであろうか?
今は戦前である〜未来への伝言
 「今は戦前である」 とは癌で余命3か月の宣告を受けた映画監督の大林宣彦氏が 「最後の講義」 と題された番組の中で若者たちを前にして語った言葉である。 常識的に考えれば、多くの日本人は第2次世界大戦(太平洋戦争)あとの戦後に生きていると考えている。 だがそれは錯覚であって、その戦争の一部始終を体験してきた大林監督からすれば、現在の世界情勢や社会状況の様相はまさに 「かってあったあの戦争の前夜そのものである」 というのだ。 さらに、大林監督は大先輩の黒澤明監督の言葉をかりて 「戦争はすぐ始められるけれども平和を確立するには少なくとも400年はかかる」 と語る。 それは失ってしまったものの大きさと、それを自覚できなかった自らに対するやるかたなき悔恨の嘆息でもある。 ひるがえって、昨今の 「屋台骨が崩壊したかのような政治状況」 や 「どん底まで凋落したかのような倫理観」 をまともに眺めれば、誰しもが 「得たいの知れない末恐ろしさ」 を覚えるにちがいない。 今は戦前であるとは、未来に生きる者に向かって、死にゆく者がのこす万感をこめた伝言であろう。
心に体が宿り、意識に物質が宿る
 現代は物質還元主義隆盛の時代であって何事も物質を土台にして考える。 ともなって精神的な視点は重要視されなくなってしまった。 かっては 「健全な体に健全な心が宿る」 と言われた世の箴言は、心が弱ってしまった現代では 「健全な心に健全な体が宿る」 と主客を反転させなければならないであろう。 現代人の命運を握っているものは 「健全な心そのもの」 である。 知的冒険ワンダーランドに向けた旅の出発点は 「物質に意識が宿るのか? それとも、意識に物質が宿るのか?」 のペアポール対比構造にあった。 もし仮に 「意識に物質が宿る」 とするならば、この世は意識世界であって、思うことによってすべてが創られる。 宇宙の鍵は 「思うこと」 にある。 この世をまともなものにしたいというのであれば 「思いをまともなもの」 にしなければならない。 前述の体と心の対比構造は後述の物質と意識の対比構造に相似する。 眺めている世界のスケールが異なっているだけである。 であれば、弱ってしまった心では 「まともな体」 を生み出すことはできない。 まずは 「まともな心」 を創ることが先決である。
知と行
 私は陽明学の祖である王陽明が唱えた 「知行合一」 を長らく 「知っているだけで 行わないのは 知っていることにはならない」 と理解してきた。 行動に現れない認識には意味がなく 「認識と行動の合致」 こそが大事であるとする作家、三島由紀夫の理解などがその代表であろうが、それは知識偏重の風潮に対して実践することを促すための方便論であって真意ではない。 陽明は知と行という 「別々のものを合わせる」 といっているのではなく、「もともと分けられない」 と言っているのである。 学ぶことが即ち行為であって、学んだ後で行為するのではない。 知と行は分離不可分であって、行が行為であれば、知もまた行為である。 知として考えることも、行として行為することも、ともに 「意志の力」 がなければできないのはそのためである。
一元論か二元論か〜相補性か相対性か
 世界は一元論で構成されているのか? それとも二元論で構成されているのか? 一元論とは世界が一つの原理から出来上がっているという考え方であり、二元論とは世界が対立した二つの原理から出来上がっているという考え方である。 二つの原理とは例えば 「心と体」 であり、「精神と物質」 であり、「主観と客観」 であり、「有と無」 ・・ 等々である。 一元論者としてはシェリング、ヘーゲル、ウィトゲンシュタイン ・・ 等々が、二元論者としてはプラトン、デカルト、カント、ショーペンハウワー、サルトル ・・ 等々が有名である。 私はさらに一元論者として空海、陽明を、二元論者として最澄、朱子を付加したい。 さらに理論物理学の分野からは量子論を構築したボーアを一元論者に、相対論を構築したアインシュタインを二元論者に区分けしたい。 なぜなら、ボーアの量子論は対立した二つの要素が互いに補い合う 「相補性」 によって構成され、アインシュタインの相対論は対立した二つの要素が互いに比較し合う 「相対性」 によって構成されているからに他ならない。 しかしながら長い人類の歴史時間を経ても尚、いまだにその決着はついていない。
可能性の海〜未知なるものとは
 往年のアイドル歌手、西城秀樹が63歳で他界した。 脳梗塞との闘病生活を続けながら歌手への望みを捨てなかった。 「明日に向かって現在進行形のまま逝きたい」 が最期の思いであったという。 常に未来に向かって生きたということであろう。 だが現代人の多くは未来よりも過去に生きることのほうに傾斜しているように観える。 あえて形なき未来に向かって生きることは180度の思考転換を要する。 「発想の転換」 とは巷間よく耳にする言葉である。 「過去から未来に思考を転換する」 ことは大きな発想の転換でもある。 しかしながら、この転換はそう容易ではない。 現代人は豊かになるにしたがって 「確定した過去」 よりも 「不確定な未来」 を怖れるようになってしまった。 それは自己保存の本能から来る必然の成り行きでもある。 だが形なき未知なるものこそが、希望を生み、創造を生み、もって新たな世界を生み出す源泉なのである。 私はよく 「可能性の海」 という言葉を使う。 未来とは 「可能性の海」 である。 その可能性の海に飛び込む 「勇気」 こそが新たな未来を約束する 「パスポート」 である。 入ってみれば、そこはあらゆるものの 「生命の海」 であり、またあらゆるものの 「豊饒の海」 でもある。
好調でなくとも
 人生すべてが常に好調というわけにはいかない。 だが好調でなくとも応分のことをすることを怠っては何事も始まらない。 かく言うは、人は 「好調を維持する」 ために生きているのではなく 「何事かを為す」 ために生きているからに他ならない。
ニュートラルなスタンス
 もの事を思考するに肝心なことは 「あれか これか」 と考えすぎないことである。 そのためには依って立つ位置をあれとこれの中立、つまり、「中庸」 に保つことが必要である。 そのスタンスなしにあれこれ考えているとその迷走で心身は内から壊れてしまう。 科学的合理性に支配された現代社会は性急に白か黒かを決めたがるが、大事なことは白でも黒でもない 「ニュートラルなところ」 に隠されているのである。
魂の死するを恐れる
 以下の記載は三島由紀夫が死の1週間前(昭和45年11月18日)に語った遺言のような声明である。
資本主義的な制度の責任によってもたらされた 「道徳意識の麻痺」 に対抗しえる手立てを見出だすことのできない我々の戦後民主主義が立脚している人命尊重のヒューマニズムはひたすら肉体の安全無事を主張するが魂や精神の生死を問わないのである。 社会は肉体の安全を保障しようとするが魂の安全を保障しはしない。 心の死ぬことを恐れず肉体の死ぬことばかりを恐れている人達で日本中がうめられている。 しかし、そこに肉体の死するを恐れず 「魂の死するを恐れる」 という人がいることを忘れないでください。 そして、そのような人がいるからこそ 「道徳的緊張」 とでもいうべき格調の高い清き泉のような精神史的潮流が育まれて行くのです。 三島由紀夫の 「憂国の声明」 については 「三島由紀夫の予言」 でも掲載している。 ここで合わせて読まれれば三島由紀夫が何を訴えたかったのかが明瞭になる。 もし三島が生きていたら今の日本の現状を見て何と言うのであろうか? 昭和は遠くなりにけりの嘆息ひとしおである。
豊饒の海〜その溺れ人
 現代人が本を読まなくなったのは論理的な思考を望まなくなったということか? それに代わって情緒的な情想を望んでいるのか? その交代にともなって意識の伝達ツールが文字から写真や映像などの図形的なツールにシフトしているのか? 社会の価値観もまたそれに呼応するかのように変化して、今や東大卒のエリートの凋落は目を覆うばかりである。 東大卒よりもコンピュータのほうが 「頼りになる」 というわけである。 価値観の多様化は物事の核心を浮遊させ確と定めることの妥当性を喪失させる。 このありさまでは人が信じる 「何ものか」 は日に日に消え失せていってしまうであろう。 信じるものがない生き方とは、いったいどのようなものか? そこには充実感も喜びも感動もないであろう。 あるいは悲しみさえもないのかもしれない。 他方。 人が生きるにおいての利便性はこれ以上ないほどに増進されるとともに、物質的需給の豊饒さは過剰なまでに進展した。 だがこれらの達成が人間に幸福感を将来させたかには疑問符が付く。 それどころか逆に減退させたかのようにさえ観える。 あるいは、現代人は過剰なる利便性と物質性で満たされた 「豊饒の海」 の中でもがき苦しむ 「溺れ人」 なのかもしれない。 人は何のために生きるのか? しかしてどのように生きるのか? おおざっぱであってもこの問いに 「確かな方向性」 を見いださなければ 「明日への道」 は拓かれない。
ホンダN360〜忘れ得ぬ場面
 ある場面が甦ってきた。 その場面と 「ホンダN360」 がリンクしている。 ホンダN360は自動車へ転進したホンダが1967年に販売開始した軽自動車で自動車会社としての名を高めた人気車種である。 それは信州の片田舎から大阪にやって来た私がとある製鋼会社の技術社員として社会に歩みだした頃であった。 その日の勤めをおえた私は社員寮に戻ってくつろいでいた。 当時すでに30歳は過ぎていた同じ部署の電気担当主任であったちょっと気取ったハイカラ Aさんが 「いるか?」 とやって来た。 これからドライブに行こうというのである。 夜も10時を回っていた。 Aさんは当時は誰もが持てなかった自動車をもっていて、それがモスグリーン色したホンダN360であった。 当時の車両価格は31万5,000円である。 社員寮は神崎川の河口に広がる工場地帯の中にあった。 そこから神戸に向かったのであるから阪神高速か名神高速のいずれかの高速道路に乗ったのであろうが記憶は定かではない。 当時の高速道路は今と違ってずいぶんと空いていた。 走るにしたがって気分も高揚してくる。 山川草木の自然の中で育った私にとってみれば、それは新たな文明との遭遇のようにも思えたし、異次元世界の出来事のようにも感じられた。 眩しいばかりの投光器に照らされた工場地帯をぬけるとやがて閑静なベットタウン西宮に至る。 立ち並ぶ高層団地の群はミッドナイトブルーに染められ、その狭間を霞なのか霧なのかぼんやりした白濁がゆっくりと漂っている。 窓明かりのひとつひとつからはささやかであっても懸命に生きる生活の安らぎがこぼれ落ちていた。 何とも幻想的な空間をぬってホンダN360は快調なエンジン音を響かせて疾走していく。 「いいだろう ・・。」 Aさんは自慢げに呟いた。 今を遡る50年ほども前にあった忘れ得ぬ場面である。
永遠の生命〜兜率天への道
 即身ということ。 生きるということ。 空海の探求は遠大なループを描いてついに宇宙の源泉にたどり着き 「永遠の生命」 を獲得した。 そうであれば空海にとっては現世にいようがいまいがそう重要なことではなかったに違いない。 以下の事蹟がそのことを物語っている。
 生涯を代表する大作となった 「秘密曼荼羅十住心論」 と 「秘蔵宝鑰」 を書き終えた空海はその5年後、62歳で高野山に入定(入滅)している。 入定に先だち空海は 「私は兜率天へのぼり 弥勒菩薩の御前に参るであろう、そして56億7000万年後、私は必ず弥勒菩薩とともに下生する」 と弟子たちに遺告する。 弥勒菩薩とは釈迦の弟子で死後、天上の兜率天に生まれ、釈迦の滅後、56億7000万年後に再び人間世界に下生し、出家修道して悟りを開き、竜華樹の下で三度の説法を行い、釈迦滅後の人々を救うといわれている菩薩である。 空海は若き日より兜率天の弥勒菩薩のもとへ行くことが生涯の目標であったのである。 56億7000万年などという時間を身のうちに内蔵することなど常人の為せることではない。 だが即身で永遠の生命を獲得した空海であってみれば、それは 「1日の出来事」 であったにちがいない。
何ら進歩していない
 科学文明がいくら進歩したとて、死を前にした人間の魂が都合良く救済されるわけではない。 それは原始以来このかた変わりはない。 様相は不治の病で余命○○年を宣告された状況に自らを置けば明瞭に理解されよう。 その救済に人間は徒手空拳で立ち向かわなくてはならないのである。 ロボットも人工知能も何ら役にたたない。 そしてやがて知るであろう。 人間は生きるにおいて 「何ら進歩していない」 ということを。
森田童子〜永遠性の確立
 シンガー・ソングライターの森田童子が4月24日死去した。 65歳であった。 彼女のことはベストエッセイセレクション 「森田童子の風景〜貫いた優しき世界」 に詳しい。 掲載は2017年6月12日であるからそれから1年足らずのことである。 以下の記載はそのエッセイ末尾からの抜粋である。
 私が森田童子を最初に知ったのはテレビドラマ「高校教師」の主題歌「ぼくたちの失敗」の歌手としてであった。 このテレビドラマを娘が観ていて、知らず私も見続けることとなり、森田童子の人となりをその娘から聞いたことに端を発する。 今までにはなかった曲想はその頃の 「成熟したがゆえの変質」 に向かう日本社会の様相を象徴しているかのようであった。 発売から17年を経てドラマとともに 「ぼくたちの失敗」 もヒットして森田童子の名も広く知られるようになった。 だが彼女は 「この遠大な時間差のある称賛から顔を背けようとするように」 かたくなに沈黙したままだったのである。
 それは、「意地でも地上には這いあがるまい」 とする強い意志のあらわれであったのか?
 それとも、地下の歌姫として生涯を生きようとする矜恃であったのか?
 あるいは、自ら創りあげた 「優しき世界」 に対する義理立てであったのか?
 ともあれ 「高校教師」 のヒットからすでに24年の歳月が流れた。 思いをきめたあの日から数えれば、40年以上の時を費やした孤高の旅である。 彼女のか細き体のいったいどこに、そのような強靱な精神が隠されていたのであろうか? 今となれば遥かな時空の旅路を想うのみである。
 訃報に接し再び森田童子のか細き歌声に耳を傾けた。 そこからは65歳の彼女の姿が杳として浮かんでこない。 あの日のままである。 「貫いた優しき世界」 は永遠性を確立して時空の彼方に昇華していったのである。
政治がアカデミー賞の候補となるような社会
 サッカーワールドカップ 「ロシア大会」 が始まった。 ここから1ヶ月間はもっぱらサッカーの話題が世間の耳目を集めることであろう。 そうなると先日シンガポールで開催された 「米朝首脳会談」 はもはや過去のことになる。 情報化社会では情報が主体となってかくこのように社会を 「何ものかに向かって」 先導していくのである。 情報が社会の主体になるにしたがって身辺からは 「現実(リアル)としての世界」 は失われ 「仮想(バーチャル)な世界」 へと置きかえられていく。 それと同時に 「片隅の世界」 は裏側に後退し 「中央の世界」 が表側に台頭してくる。 だが中央の世界といっても所詮は情報で脚色編集構成された 「創られた世界」 でしかない。 それを証するかのように米朝首脳会談の当事者である トランプ大統領(金正恩委員長もまた) は会談は 「ショウー(スペクタクル)」 であると自ら公言してはばからない。 ショウーとは映画、ドラマ、CM ・・ 等々と同じ 「情報的産物」 である。 政治が 「アカデミー賞の候補となるような社会」 とはいったい 「いかなる社会」 なのであろうか?
際限なき人工世界への埋没
 気温35度を超える猛暑日が続いている。 この 「気候変動」 が通常なのか異常なのか分からない。 同様に現代人の 「生命活動」 が正常なのか異常なのか分からない。 昔日、宇宙は 「天地人」 で構成されると言われ 「人は天地と並び称される存在」 として考えられていたのだが、現代人の認識はさらに進めて自らを天地に上回る存在として観ているふしがある。 天地を簡素に 「自然」 と置きかえれば、現代人は自然を省みることなく生きているように観えるのである。 自然が人間にとって省みることなき 「どうでもいい存在」 であるはずがない。 自然があっての人間であって、人間があっての自然ではない。 生きとし生けるものすべて 「自然の中でしか生きられない」 のである。 かくも必要不可欠な自然の中にあって、人間のみが 「科学至上主義」 を無制限に進めていいはずがない。 自ずと制限されるべきものである。 仮に放置したとしてもやがてはその臨界点に達してしまうであろう。 現代人はそのことを忘れて 「際限なき人工の世界」 に埋没しようとしているかに観える。
天災は忘れる前にやって来る〜不作為の作為
 長く続いた集中豪雨はかってないほどの多大な被害を西日本全域にもたらし過ぎていった。 やはりこの状況は 「異常」 である。 異常気象の原因とされている地球温暖化に歯止めがかからなければ、かくなる災厄は 「過ぎ去ったのではなく 間隔を置いて再びやってくる」 に違いない。 寺田寅彦が 「天災は忘れた頃にやって来る」 と言った時代は彼方に去り 「天災は忘れる前にやって来る」 時代になろうとしている。 寅彦は人間に内在する 「油断」 を戒めるために 「天災は忘れた頃に」 と警告したのである。 だが天災が 「稀有なる災害」 から 「日常なる災害」 に変質してしまうと寅彦の警告は無効に逸してしまう。 「天災は忘れる前にやって来る」 とは私の脳裏に浮かんだ 「アフォリズム(警句)」 であって、実に 「不作為の作為」 を戒める言葉である。 不作為の作為とは 「そうなると分かっているのに何もしない」 という現代人が内在する特有の 「怠惰」 のことである。 「油断」 と 「怠惰」 人間にとっていったいどちらが 「大敵」 なのであろうか?
充分に幸せ〜縄文の夏
 熱波が日本列島を覆い尽くしている。 春夏秋冬の四季である夏の暑さをはるかに超えた暑さである。 こうなるとある種の 「災害」 のようである。 社会不安からくるイライラと暑さからくるイライラが混合して現代人のフラストレーションは極大に迫ろうとしている。 かって列島に居住した縄文人の生活の様相は想像するしかないが、その夏の暑さはこれほどではなかったであろうし、ゆっくり流れる時間の中での生活ではこれほどのフラストレーションは感じなかったに違いない。 人間の幸せをこれと一概に決めることはできないが、風が渡る森の木陰で昼寝する彼らの姿を想像しただけで 「充分に幸せ」 のように想える。
お金の使い方とは
 お金の使い方についての私考である。 お金は大切だからといってすべての支出を 「けちればいい」 というわけではない。 支出の意味が何であるのか? その意味によって、お金は生きもするし、死にもする。 例えば、好奇心を持ち始めた子供を連れて家族で旅行することは 「借金しても」 したほうがいい。 それは後の家族それぞれにとって 「生き方を支える大きな糧となる」 からであって、その糧はその時にこそ 「必要なもの」 であって、後で与えればいいというような 「しろもの」 ではないからである。 それが分からないようであれば 「単なるケチ」 と言われてもしかたがない。 還元すれば、お金の使い方とは、その人の 「価値観」 そのものに関わっているのであって、「金額の多寡」 にはそれほどの意味はない。
撮ったものとは?
 人生は旅である。
 だが私は 「空間を旅している」 のだろうか?
 それとも 「時間を旅している」 のだろうか?
 空間だとすれば、私の人生の旅とは、私が歩き回った地球上の 「行動面積」 であるし、時間だとすれば、私が費やした五十数年間の 「経過歳月」 である。 人生の旅が歩き回った面積と、費やした歳月から構成されているとするならば、人生とは 「時空間」 そのものである。 私はここ10年ほどに渡って 「信州つれづれ紀行」 と題して信州の津々浦々を訪ね 「さまざまな風景」 を撮ってきた。 その紀行が上記したように 「歩き回った面積」 であるとするならば 「空間を撮った」 ことになるし、「費やした歳月」 であるとすれば 「時間を撮った」 ことになる。 はたして、私はいったい 「何を撮った」 というのであろうか?
何を急ぐのか?
 現代人は仕事に追われ、生活に追われ、遊びに追われ、しかして時間に追われ ・・ 何事かに向かって急いでいる。 いったい何処に向かって急いでいるというのであろうか? 春になれば 「どこか花見」 へ、夏になれば 「どこか海山」 へ、秋になればどこか 「紅葉狩り」 へ、冬になれば 「どこか温泉」 へと ・・ 楽しかるべき日々からも追われるようにして 「先を急ぐ意味」 はどこにあるのであろうか? こころ喪失してしまえば 「大切なものが見えなくなってしまう」 ことは自明のことである。 「遅れた者が勝ちになる」 とは今は亡き直木賞作家、井上ひさしの本の題名である。 「何かを得る」 ためには 「何もしない」 ことが最良の選択であることも充分検討されてしかるべきである。
自由競争と生存競争の狭間
 現代社会は法に抵触しないかぎり何をしても何を考えても基本的には自由である。 だがその自由が現代人の行動をあらぬ方向へと誘導していく。 何もかもが自由だからといって、人間がもつ倫理感までが自由であるわけではない。 現代経済学は自由競争を推奨する。 自由競争こそが社会を牽引するエンジンであると。 だがこの自由競争とは名前を代えた 「生存競争」 であることは慎重に見極められてしかるべきである。 そこには自らが生き残るためには 「何をしても許される」 かのような倫理観が漂っているからに他ならない。 かってあった社会は同じ人間行動であっても、これほどまでに 「厚かましく」 も、また 「剥きだし」 でもなかった。 そこには 「自ずとした節度」 があったはずである。 今では、その様相 まさに 「たがが外れた樽」 のように底が抜けている。 かような自由競争(生存競争)の勝利者(権力者)が、自らに都合良く 「法をねじ曲げ」 て傍若無人に巷間を闊歩するようになってしまっては、もはやそこには 「輝ける未来」 は存在しない。 自由には相応の厳しさが自らに求められるのである。 自由とは功罪相半ばの 「諸刃の剣」 であって、使い方を誤ると 「百害」 となって自らに戻ってくることを ゆめゆめ 忘れてはならない。
心頭滅却すれば火もまた涼し
 猛暑は依然として続いている。 近代文明は科学をもって人々の生活を豊かにそして便利にしてくれた。 だがここにきての異常気象。 その結果としての豪雨災害や、気象庁が 「生命の危機に及ぶ」 とまで警鐘を鳴らす熱波には、その文明の利器である科学をもってしても、いかんともしがたい。 気象庁は 「ためらうことなく冷房を使ってくれ」 というのだが、その電気代はいったい 「誰が払ってくれる」 というのであろう? かくこのような論理矛盾を気象庁ともあろう官庁が声高に喧伝すること自体に制御不能な 「事態の混乱」 があらわれている。 それは意味もなくただただ 「熱い、熱い、熱い」 を連呼する報道機関にしても本質に違いはない。 伝えるべき 「有効策がない」 というのであれば、いっそ昔に戻って 「心頭滅却すれば火もまた涼し」 とでもいって欲しいものである。
※)心頭滅却すれば火もまた涼し
 無念無想の境地にあれば、どんな苦痛も苦痛と感じない。 禅家の公案とされ、1582年、甲斐の恵林寺が織田信長に焼き打ちされた際、住職であった快川和尚がこの偈を発して焼死したという。
情報量過多の時代
 内と外。 何を内に 「秘密」 にして、何を外に 「展開」 するかは、この世界を動かすにおいて最も重要な検討課題である。 それは真言密教を創始した弘法大師、空海にして熟慮に熟慮を重ねて構想し入念に準備した要所であった。 真理だからといって、何もかもすべてオープンにすればよいというものではない。 真理が重んじられるためには 「内と外が絶妙の割合に制御」 されなければならないのである。 真言とは実に言うことよりも 「言わないこと」 に存在するのであって、「内に秘めなければ」 その威力は発揮されない。 さまざまな情報の公開と伝達を効率的に行うことを画して始まった情報化時代であるが、その情報の価値とは、実にこの 「公開も伝達もされない部分」 にこそ存在するのである。 もっとも、この情報の価値は流通する情報量の多寡によっても変化する。 情報量が過少の時代では公開すること伝達することに価値が存在し、逆に情報量が過多の時代では公開しないこと伝達しないことに価値が存在する。 勿論のこと情報化時代とは 「情報量過多の時代」 なのであって、内と外は相応に制御されなければならない。
正道と邪道の狭間
 現代ほどに不誠実が堂々とまかり通る時代がかってあったであろうか? 子供でも分かるような嘘が公然と流布され、当事者は悪びれることもない。 ことの正義は自らが利するためならば 「嘘も方便」 が許容されるがごとしの弁解を申し立てる。 だがいくら強弁しようが、その姿は美しくはない。 邪道はどこまで行っても邪道であって、正道に戻ることはない。 このことは誰もが分かっていることである。 だが分かっていても容認されるとはいかなる次第なのか? 間違いも多数を巻き込んで大きくふくれあがれば、それが間違いだとは気がつかなくなる。 気がつかなくなるどころか、遂にはそれが正道だと主張し始める。 何事かはここをもって終焉する。 もしそうでなければ 「戦争など起こるはずもない」 ではないか。
「既成事実を積み上げればそれを容認せざるをえなくなるのが日本人の習性である」 とは、他国が描く日本人論であって、日本国に対する戦略の根幹を成すという。 その様相は我々が日常的に多用する日本語である 「なし崩し」 等々にすでにして顕れている。 あるいはそれは日本人の伝統に分類されるような特質なのかもしれない。 その帰結が日本人ならではの解決法 「水に流す」 に凝縮されているように観えるのは私だけであろうか? それが日本人にとって 美質 なのか 悪質 なのかは判断が分かれるところではあるのだが ・・。
砂上の楼閣〜成長よりも維持を
 今年の夏は何と多くの自然災害に見舞われたことか。 まさに 「被災列島」 である。 やがて到来するであろう老朽化した 「インフラ設備のメンテナンス」 のことを考えあわせれば、今目指すべきは 「成長」 よりも 「維持」 であろう。 そもそも成長に伴うさまざまな危険を回避できるだけの力が今の日本にあるのであろうか? 目先の利益を追って大局を失うことは、日本民族に内在する弱点ではあるのだが、それもそろそろ払拭しなければ命取りになりかねない。 「砂上の楼閣」 とは言葉としては理解されても、肌身に迫った現実としてはなかなかに察知されない。 その覚醒の到来は、楼閣が崩れ去ってのちのことであろうが、それでは遅すぎる。 「覆水は盆にもどらず」、「あとの後悔は先に立たず」 は、「相対的真理」 ではなく、「絶対的真理」 なのである。
即身の真意
 想像と現実をひとつに融合する 「即身の真意」 とは何か? 想像と現実がひとつになったものが、例えば 「宇宙」 だとすれば、想像を宇宙に合致させ、現実を宇宙に合致させればいい。 であれば即身とは 「自らが宇宙である」 ことを意味する。 想像と現実がひとつになったものが、例えば 「世界」 だとすれば、想像を世界に合致させ、現実を世界に合致させればいい。 であれば即身とは 「自らが世界である」 ことを意味する。 想像と現実がひとつになったものが、例えば 「社会」 だとすれば、想像を社会に合致させ、現実を社会に合致させればいい。 であれば即身とは 「自らが社会である」 ことを意味する。
かかる意味の列挙は尽きることがない。 であれば即身とは 「生命の海」 そのものであって、尽きることがない。
真理の力
 Pairpole 宇宙モデル は 「あざなえる縄の理」 が基底となっている。 この世の万物事象はあざなえる縄の如くに 「陰と陽の相転換運動」 を際限なく繰り返している。 その運動(胎動)は宇宙の内蔵秩序である 「対称性構造」 が付帯する内部エネルギによって誘起される。 対称性から生まれたエネルギによって誘起された運動が 「対称性運動である波動性」 をもつことは 「必然の帰結」 であろう。 この波動性運動が 「あざなえる縄の理」、つまり 「陰と陽の相転換運動」 の源泉である。 依って、栄枯盛衰、禍と福、好況不況、好調不調 ・・ 等々。 日頃なにげなく語っているこの世の 「現象動向」 には是非もない必然たる真理が内在している。 昨今では主流となっている 「気分」 でどうなるものではない。 「真理が力」 というのであれば、まさにこれこそが その力 である。 そのような力はこの世にそう多くはない 「もって瞑すべし」 であろう。
核心に至る道
 物事の混乱を的確に解決するには、余計な夾雑物を排除し、意味のない虚飾を剥ぎ取り、もって問題の核心に至る道を、真理と真実に即して、躊躇することなく、選択することにある。 迷いは常に余計なことを考え、軽挙妄動するところから生まれる。 巷間を騒がせている 「忖度」 などはその代表であろう。 そう考えると現代社会ではその大半が問題の解決には不要な余計なことで占められているようにみえる。 これでは問題の核心に至るどころか会議は踊り小田原評定に逸してしまう。 核心となる真理や真実は評論家が語るほどに多くはない。 偽言と忖度に惑わされていては何も解決しないし、何も生まれない。
努力とはエネルギの散逸である
 エントロピの増大が 「でたらめさ」 の増大であるとし、生命活動がエントロピの減少であるならばそのでたらめさを修正する具体的動向は 「整理整頓」 ということになる。 さらに還元すれば、その整理整頓に必要不可欠な 「努力」 という精神的動向ということになる。 宇宙の万物事象は放っておけばエントロピは増大し熱力学的な平衡状態である 「無秩序」 に向かって移行していく。 例えて言えば、部屋を何もせずに放置すれば室内はゴミやホコリで雑然としてくる。 そのことは日頃誰しも経験することである。 この状態がエントロピの増大である。 これに逆らって部屋を整理整頓し掃除をすることには 「なにがしかの人間的努力」 が必要になる。 この状態がエントロピの減少である。 この人間的努力がプリゴジンがいう 「エネルギの散逸」、つまりは 「エネルギの消費」 にあたる。 この散逸によって宇宙の熱的死に向けての歩みはそれに応じて減速される。 だがその努力を怠って自由奔放なすがままの生活に終始するならば宇宙の熱的死に向けての歩みはそれに応じて加速されることになる。 イリヤ・プリゴジンが提唱した非平衡熱力学の散逸構造理論に於ける 「自己組織化」 とは何のことはない 「生命体の努力」 という 「はなはだ当たり前のこと」 に行き着いてしまうのだが ・・ その真理やいかに?
月旅行と温泉旅行
 米国の SpaceX社 が巨大宇宙船を使った世界初の民間月観光旅行の乗客第1号としてZOZOTOWN 社長の前澤友作氏と契約したことを発表した。 そういう時代になったのかという感嘆とともに 「何かがおかしい」 という違和感が入り交じった不可思議な思いにかられた。 大冒険時代から始まった地球の表面探査は次々に拡大され今や行くところさえ見あたらない。 「狭い日本、そんなに急いで何処へいく」 という標語はやがて地球が 「球形の荒野」 と呼ばれるようになって地平線の彼方に消えていった。
そして今度は 「月旅行」 の登場である。 人間のやることには果てしがない。 だがこれとて50歩100歩 の話であってそう驚くことではない。 漱石の小説 「三四郎」 の中に登場する 「熊本より東京は広い、東京より日本は広い、そして日本より頭の中のほうがもっと広い」 というくだりがそのことを物語っている。 何より弘法大師、空海が旅立った弥勒菩薩が住んでいる兜率天での寿命は4000歳で、その1日は人間界の400年に相当するというのである。 なにせ、旅立った空海が弥勒菩薩とともに人間界に還ってくるのは56億7000万年後というのであるから。 結局。 宇宙は 「細部は全体、全体は細部」 という重層構造を成す 「仕組みの世界」 であって、「遠い近い、大きい小さい」 という空間構造を成す 「広がりの世界」 では語れない。 であれば 「月旅行」 も近くの 「温泉旅行」 もその内容において異なるところは 「何もない」 のである。 感じた違和感の正体とはそのことであった。
世界は開かれている
 現代の政治手法、政治情勢、社会状況等々を眺めると世界が全くの閉塞状態に陥っているかのようにみえる。 だがよくよく考えてみると閉塞されているのは人間が所有する 「意識世界」 であって、人間を取り囲む 「物質世界」 は何らも閉塞されているわけではない。 閉塞されている意識を開放すれば、世界は開かれるはずである。 ではいかにすれば意識は開放されるのか? 何のことはない 「取り囲む世界が常に開かれていることを忘れずにいる」 ことだけである。
脅迫に屈しないために
 脅迫に屈しないためには 「それが脅迫であることをしかと自覚する」 ことである。 先日、ノーベル賞を受賞した本庶教授が研究において大切なことは簡単に 「信じないこと」 を第1番にあげたうえで、自らの目と頭でよくよく確認したことでなければ信じないと断言した。 さらに科学誌の 「ネイチャー」 や 「サイエンス」 に掲載された論文の9割は嘘であって10年も経てば1割ものこっていないと、その語るところは誠に歯切れがいい。 最も信頼されている科学誌においてさえこれでは情報化社会が構築している巨大情報システムも 「しれたもの」 である。 それを信じさせられている我々にとっては 「たまったもの」 ではない。 そのいい加減な情報システムによって、我々の意識が閉塞状態に陥って 「開かれた可能性の世界」 へ脱皮できないとすれば、それはもはや 「犯罪に近い行為」 と言わざるを得ないのかもしれない。
自由主義の終焉
 「貴方は自由だ、私は自由だ」 という自由主義社会を支える資本主義経済は市場における需要と供給によって全ては制御されるという 「ケインズ経済学」 がその骨格を成している。 だが最近の世相からはこの経済学が成立しているのか否かが判然としない。 これだけ金融緩和を実施しても、言うなればこれだけ大量に貨幣を市場に供給してもいっこうに 「インフレする気配」 がない。 ケインズ経済学の説くところからすれば 「ハイパーインフレ」 が起きてもおかしくない状況である。 金利を0%にしてもその資金を借りて何かをしようとする者がでてこない状況を描いた 「資本主義の終焉」 を書いたのは2014年7月のことである。 資本主義の終焉とは取りも直さず 「ケインズ経済学の終焉」 でもある。 そうであれば、その述べるところの需要と供給では経済は制御されないことを意味する。 その結果としての超金融緩和策を継続してもインフレが起きないということか? そうであれば、その資本主義経済理論(ケインズ経済学)を土台としている 「自由主義社会もまた終焉に向かう」 のか? そして遂には 「貴方は自由だ、私は自由だ」 という自由主義は時空の彼方に去り、その自由を決めるのは中央集権的権力を掌握した権力者である 「〇〇様だ」 ということになってしまうのか? 未来への視界は限りなく不透明であるとともに、暗雲が重く垂れ込めている。
人工知能ロボットに解雇される時代
 現時点におけるさまざまな未来予測の語るところを集約すると 「2030年には50%以上が失業」 し、「2040年には現在ある職業の40%が無くなる」 ということになる。 この予測の意味することの結果についてはなぜか世相は沈黙を守っている。 これらの予測の根拠となっているのは 「人工知能の発展」 と、その知能に支えられた 「ロボット技術の進歩と普及」 である。 アメリカでは労働者が 「ロボットに職を奪われる」 と各地でデモを繰り返している。 それはまるでかってのSF映画を想起させるかのような光景である。 「自由主義の終焉」 で述べたことと併せ考えると、未来予測はさらに混迷の度を深め 「何がどうなるか」 皆目見通しが立たない。
人工知能ロボットに解雇されないために
 では人工知能ロボットに解雇されないためにはどうしたらいいのか? 人工知能といっても人間がもつ知能を人工的に模倣しているに過ぎない。 しかしてその知能の中核的な源泉とは 「論理性」 である。 論理性とは 「1+1=2」 であって 「3」 ではないとする 「思考基準」 である。 人工知能はこの思考基準に則ってコンピュータが高度にプログラムされたものである。 人工知能がその才能を評価されたのは囲碁や将棋の 「たたかいの場」 においてである。 そのたたかいの論理はひと言でいえば 「損得勘定」 である。 その論理に従って人間としての棋士よりも先にその勘定の最良解を導き出すことが人工知能の存在価値である。 俗に言う 「頭のよい人」 とはこの論理的思考に優れた人を指す。 だが論理的思考を追求することにおいてはコンピュータに勝る者はこの地球上にはいない。 依って人間は人工知能ロボットに解雇されてしまうのである。 従って解雇されたくないというのであれば、人工知能ロボットが得意とする論理的思考で勝負しないことが唯一の策である。 人工知能ロボットが不得意とする 「体力」 で勝負するのもいいがそこには限度がある。 論理の逆は 「直観」 であろう。 刑事ドラマで登場するたたき上げの老刑事が若輩刑事に向かってつぶやく 「俺の勘がそう言っているのだ」 というときの勘(直観)である。 そこには論理性を超えた 「何かがある」 とする暗黙の了解が成立しているのだが、おそらく人工知能ロボットはこの暗黙の了解を強く否定するであろう。 なぜならこの了解を認めてしまったら今度は 「人間によって人工知能ロボットが解雇されてしまう」 からに他ならない。 であれば人間が解雇されないためにはこの 「直観を磨き上げる」 ことである。
滑らかな人生
 身を助けるものは 「寛容な心」 である。 意固地や頑固さはともすればその身を窮地に追い込んでしまう。 「寛容」 という潤滑剤がなければ 「滑らかな人生」 は実現しないのである。 寛容は 「余裕」 という言葉に置きかえてもいいし、また 「遊び」 と置きかえてもいい。 遊びがないハンドルの車では危なくて高速道路など運転できない。 少々の 「ガタ」 がないと機械はスムースに動かないのである。 社会とて何ら変わるところはない。
自然にまかせる
 自然にまかせる。 他力である。 この世は自らの力で生きているようで、その実は自然の力で生きている。 自らの力とは、その自然の力を有効に活かした結果である。 力の源泉は自然の中にある。 その力は赤子を育む 「揺りかご」 のようなものであって、安んじて身をまかせればそれでいいのである。

 

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