Linear アフォリズムで描いた知的冒険ワンダーランド
ショートエッセイセレクション / 第 9 集
Turn
知のワンダーランドをゆく
文 / 柳沢 健 / 2017.11.23 〜 2017.12.31
情報化社会の価値観
 情報化社会の価値観は中立(ニュートラル)が主流となる必然性をもっている。 白黒がはっきりした社会ではなく中間色のぼんやりとした社会である。 いうなれば やる気があるような ないような 愉しいような 愉しくないような 生きているような いないような社会である。
思いのリモコン
 思いを選択できるリモコンなどどこにもない。 あらゆる利便性に囲まれボタンひとつで何事も思いどうりになる現代人にしても心だけはそうはいかないのである。 今最も必要とされるものは冷え切ってしまった心を温める温度調節器であろうが、その開発はそうたやすくはない。 外なる物質世界の開発であれば 「ハイテク」 で何とかなるが、内なる精神世界の開発は原始以来の 「ローテク」 であって 鍬(くわ)と鋤(すき)をもって、心の土壌を耕す以外に他に手立てがない。
地図と羅針盤
 コンピュータの速度があがったからといって、人間そのものが速度をあげる必要性などまったくない。 人間がしなければならないことは確かな位置と方位を知る高精度の 「地図」 と 「羅針盤」 の製作である。 地図と羅針盤のない航海など危険極まりなく下手をすると座礁転覆してしまう。
偉大な行為
 世に偉大な行為とは初めにバナナの皮をむいて食べた一匹の猿にある。 彼の発見こそ賞賛されてしかるべきである。
理由とは
 「俺は機械に指を挟んだ痛みには耐えられるが、電気にしびれる痛みには耐えられない」 「俺は電気にしびれる痛みには耐えられても、機械に指を挟まれる痛みには耐えられない」 彼が電気屋になり、私が機械屋になった理由である。
本末転倒
 大学の某教授が 「あのメカニズムは理論的には動かない、もし動いていたとしたら動いていることが間違いだ」 と断言した。 ウソのような本当の話である。 理論は現象を過不足なく妥当性をもって説明するために人為的に考え出されたものであって、考え出された理論によって現象が起きるわけではない。 現象はいかなる人為からも隔絶しているのであって、科学がいかに混みいってきたからといって、この順位が逆転することはない。 だが現場を離れ机上の論理ばかりを弄んでいるうちに起きるはずがないとした 「本末転倒」 が起きてしまうのである。 映画 「踊る大捜査線」 で織田裕二演じる 「はみだし刑事」 が 「事件は会議室で起きているんじゃない、現場で起きているんだ!」 と絶叫する名場面は、かくなる 「転倒の様相」 を簡潔明瞭に表現している。
優しき老婆
 その頃、悪さをしていた子供らは出逢った優しき老婆から 「そんなことをしているとバチがあたるよ、お天道様はいつも見ているのだからね」 と諭された。 そして今、子供らはそのような老婆に出逢うこともなければ、そもそも 「そう言われても」 何を言っているやら分からない。
最大の危機
 間違いも大きくなると 「どこが間違いなのか」 わからなくなる。 最大の危機とはそのことである。
神は何をしていたのか
 カトリック神学の祖、聖アウグスティヌス(354〜430)は、その著書 「告白録」 の中で 「世界(宇宙)の創造の前に神は何をしていたか」 という疑問について述べている。 もしも神にすることがなくて、何もしていなかったのだとしたら、いったいなぜ、それまでずっと何もしていなかったのと同じように、何もしない状態を永久に続けなかったのか? アウグスティヌスがだした最終結論は 「世界は時間の中で創造されたのではなく、時間とともに創造されたのであって、世界よりも以前に時間があったのではない」 というものであった。 つまり、世界の創造の前に神が何をしていたのかを問うことは無意味であって、時間がなければ 「そのとき」 もまた存在しなかったのである。
男が狩りをしない村
 「男が狩りをしないような村には住めない」 ゆえあって大都会ニューヨークに嫁いだ裸族の娘が生まれ育ったアマゾンの密林にもどるときに言った言葉である。 原始 人類が出発して以来、女は尽くして尽くして尽くして死に、男は貢いで貢いで貢いで死んできた。 これは宇宙の理であり、生物学的真理である。 現代社会はこの理から遊離し迷路に踏み入ってしまったようである。 男のような女、女のような男が徘徊し、離婚調停で忙しい家庭裁判所の状況は、これを如実に物語っている。
社会の終わり
 私が思考する 「社会学的インフレーション理論」 が語る社会とは 「どこまで行っても 平坦で 一様な社会」 である。 わかりやすく言えば 「均等で 中立で 無色で 無個性で 無気質で」 よりわかりやすく言えば 「どこを切っても 同じ顔があらわれる 金太郎飴のような」 ひと言で言えば 「何の変哲もない 変わりばえのしない」 社会である。 かくなるインフレーション社会が我々に何をもたらすかは熟考を要する。
ちなみに科学的インフレーション理論が予測する 「宇宙の終わり」 とは、限りなく膨張する中で温度は低下していき、やがてエネルギ密度は均等となり 「熱的死」 と呼ばれる、動くものなく、物音ひとつしない 「静かな世界」 である。 この帰結を基に、社会学的インフレーション理論が行き着く 「社会の終わり」 を予測すれば、戯言(たわごと)に戯言を限りなく重ねていくうちに、大戯言となって飽和し、やがては何を言っても意味をもたない 「心的死」 と呼ばれる虚無的で無感動な 「静かな世界」 ということになる。
憂いにみちたライフスタイル
 私が居住する信州には悠々自適のライフスタイルを求めて都会から多くの熟年者がやってくる。 高原に住むもの、山麓に住むもの、さまざまである。 だがその誰もが悠々自適を自認しつつも どこか装っているようで、なぜか寂しそうなのである。 悠々自適に憧れる友人に静かな湖畔の散歩道ですれ違った 子犬を抱いた夫人のかくなる 「寂しげな風情」 を話すと、彼は寂しげではなく 「憂いにみちた風情」 で と表現の訂正を求めた。 寂しいは 「情緒」 であり、憂いは 「深い精神性」 である というわけである。
時代の分岐点
 世論調査における期待する政策第1位 「経済の成長と雇用の回復」 は終局において自虐的な帰結に至るであろう。 なぜなら経済が成長しさえすれば 雇用が回復するかどうかはわからない。 経済は経済的合理性で運営されているのであって、その合理性が目指すものは経済的利益の最大化が目的であって、雇用の拡大が目的ではない。 言うなれば雇用の拡大は 「手段」 であって、経済的合理性に合致する場合においてのみ達成されるものである。 雇用の拡大よりも効果的な手段(例えばコンピュータ化や機械化等々)があれば達成されないであろう。 どうしても雇用の拡大を目的とするならば、逆に経済的合理性を手段化することである。 言うなれば、雇用の拡大のためには経済的利益を犠牲にするという政策である。 だがこのような政策が現実的に可能かどうかは疑問である。 なぜなら経済的合理性は現代社会の中では揺らぐことなき 「絶対的基準」 となっているからである。 しかしながら、経済的合理性を絶対的基準として国家運営を行ってきた先進各国は、今さまざまな矛盾を露呈し崩壊の危機に瀕している。 そろそろ原点回帰する刻であろう。 そう 「社会は合理性を達成するために存在するのか? それとも人間性を達成するために存在するのか?」 という根源的な選択である。
情報化社会の実像
 目をつぶってテレビを 「聴いて」 いると流れ出る情報の無意味さに愕然とする。 すべてはこんなに 「簡単に」 なりました。 すべてはこんなに 「美味しく」 なりました。 すべてはこんなに 「愉しく」 なりました。 すべては必要である というのだが、よく考えると必要なものなど何ひとつないのである。 「便利なだけで欲しいものなど何もない世界」 それが情報化社会の実像である。
希望
 昔の日本は貧しく何もなかったが 「希望」 だけはあった。 だが 今の日本は豊かで何でもあるが 「希望」 だけがない。
頭を使わないことのリスク
 先行き不透明な社会での人々の行動様式は時流(トレンド)に乗った 「順張り型」 が主流となる。 かってビートたけしが考案した 「赤信号 みんなで渡れば 怖くない」 という標語に示された行動様式である。 かくなる行動様式では株式での順張り型トレードと同様に思考をめぐらさずに市場の勢いに追従することが優先される。 立ち止まって考えていようものなら時代の落伍者としての烙印を押されかねない。 ことが株式トレーディングであればまだしも、社会の行動様式としての 「思考停止の優先」 は致命的な災厄をもたらす。 今まさに 「頭を使わないこと」 が日本の将来に何をもたらすのかを 「頭を使って」 懸命に考えなければならない。
酒場にて〜千曲川
 今夜行われた歓迎会のあとであろうか地方支店に配属された新人社員が支店長に伴われカウンターで水割りをかたむけている。 やがて、ほろ酔いかげんの支店長はカラオケマイクを握った。 目の前にあるモニターには五木ひろしの 「千曲川」 のイントロ映像が映っている。 ご機嫌に見上げながら 「この曲いいだろ〜」 と語りかけると、あろうことか彼は 「ああ千曲川(せんきょくがわ)ですか」 とあっけらかんと相づちをうった。 とたん支店長の顔は憮然としたものに変わり、眼なじりに私の気配を感じながら 「千曲川(ちくまがわ)だ!」 と嘆息混じりに呟いた。 おそらくこの青年の世界には、藤村の 「千曲川旅情の歌」 は存在しないのであろう。 世代間格差といってしまえばそれまでであるのだが、気をとり直して歌う支店長の表情には 「小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ姿が 暮れ行けば 浅間も見えず 歌哀し佐久の草笛の音色が 千曲川いざよふ波の岸近が 濁り酒濁れる飲みて 草枕しばし慰む思いが」 浮かんでいるようであった。
酒場にて〜帽子
 タクシーで帰るお客さんを送ってきたママがカウンターの中でクスクスと思い出し笑いをしている。 聴いてみると、お客さんがタクシーに乗り込むとき 「頭に気をつけて」 と声をかけたら 「帽子をのせるだけの頭ですから」 と言ったというのである。 その紳士然とした 「ウィット(機知)」 と 「ペーソス(哀感)」 と 「アイロニー(皮肉)」 にはひどく感嘆したことを覚えている。
酒場にて〜破綻
 松本市の小さなスナックで関西学院大学教授の宮原浩二郎君(あえて君というのは彼が教授と言われることを好まないため)と飲んだ時のことである。 私たちの隣席では少々酩酊状態の青年たち3人が カラオケで気勢をあげていた。 その内の1人の歌唱に対し、宮原君が 「君の歌は破綻していない」 と言ったのである。 言われた当人は目を丸くしていたが しばらくしてまんざらでもない表情を浮かべた。 彼の歌は右にふらふら左にふらふら行きつ戻りつ、あたかも断崖絶壁の稜線をかろうじて渡っているような危うさであったが決して足はふみはずさないものであった。 さらにその乱調子が歌唱に独特な情感を醸し出し、いうなれば 「聴かせる歌」 となっていた。 それを宮原君は 「君の歌は破綻していない」 と評したのである。 破綻しているかいないかは 「重要なポイント」 である。 奇才ビートたけしの過激なつぶやきは破綻しているようで決して破綻していない。 名だたる政治家の整然たる演説は破綻していないようでまったく破綻している。 ニーチェ哲学の研究者でもある宮原君のような人跡未踏の荒野を拓く者にとっては破綻しているか否かは 「生命線」 である。 時としてその限界を歩かなければならないが破綻してしまっては何もならないのである。 ゆえに宮原君は教授として 「君の歌は破綻していない」 という最高の讃辞を彼に授与したのである。 「破綻」 と 「矛盾」 は似て非なるものである。 それは矛盾していても破綻していない ということもあれば、矛盾していなくとも破綻していることがあるからである。 つまり 破綻とは矛盾という論理性をも超えた 「思考中枢の本質的概念」 にもとづいているのである。
酒場にて〜電波望遠鏡
 ふらっとあらわれた酔客が自嘲をこめて呟いた 「俺ほど借金をしている社長はそうはいないだろう、それを考えると怖くなるが世界最高の天文台電波望遠鏡の建設を成し遂げたことは俺の人生唯一の自慢だね ・・」。 だが人類が地球に存在する意味を見つけだそうとする 「電波望遠鏡の使命」 にくらべたらたとえそれが 「膨大な借金」 であったとしても、たった1円のごとくのささいなことのように私には思えた。
酒場にて〜天皇陛下
 隅にあるテーブルでは飲み友だち3人が論争の真っ最中である。 「それはこうである」 「いや違うこうである」 「いやいやこうである」 論争は踊るようにして決着しない。 そのとき中の1人が言い放った次のひとことで論争はすみやかに終着した。 こうなったら 「天皇陛下」 に聞いてもらおうじゃないか!
サンデー毎日
 「日曜の朝ぐらい ゆっくり寝たら」 配偶者は言う。 だが今の私の生活には日曜日も月曜日もないのである。
世捨て人
 世捨て人とは 「世を捨てた人」 なのか? それとも 「世から捨てられた人」 なのか? 前者は主観を述べたものであり、後者は客観を述べたものである。 前者は物質や自然は精神によって規定されて初めて存在しうるとする観念論の根拠であり、後者は物質のみが真の実在で精神や意識はその派生物とする唯物論の根拠である。 前者は認識論の立場を擁護し、後者は実在論の立場を擁護する。 話かわって、信州に 「鬼無里(きなさ)」 と呼ばれる山深い里がある。 鬼無里とは 「鬼などいない桃源郷のような里」 という意味なのか? それとも 「鬼でさえ住めないほどに過酷な里」 という意味なのか?
密度希薄な頭
 体が使わなくては強くならないように頭もまた使わなければ強くならない。 情報を知ることと頭を使うことは似て非なるものである。 朝からテレビの前で、あるいはコンピュータの前で、情報を 「眺めていても」 頭を使っていることにはならない。 体の筋肉が苦痛に耐えて鍛錬することで強くなるように頭も苦痛に耐えて鍛錬しないことには強くならない。 複雑なこと難しいことは 「コンピュータにお任せ」 では、ついにはモヤシのような 「密度希薄な頭」 になってしまうであろう。
考えるように行動し行動するように考える
 人は頭をもって考え、体をもって行動する。 陽明学を創始した王陽明は 「知と行は一体であって 知って行わざるは 知らぬと同じである」 と唱えた。 現代人は考えも曖昧なら行動も曖昧である。 考えるように行動する者もいなければ、行動するように考える者もいない。 結果、思考も行動もともに現実に働きかける力を失ってしまった。 現代社会の様相は、その 「力を失った思考」 と 「力を失った行動」 の果てしない バトルロイヤル である。
立ち尽くす明日〜想いで迷子
 時はあしたを連れてくるけど〜過去のどこかで迷子になってる〜 韓国歌手 チョー・ヨンピルが歌った 「想いで迷子」 の歌詞である。 物語の主人公は時を流れゆく無機質なものからふと訪れる訪問者のごとく擬人化し辛く淋しい胸の内を語る。 時という訪問者は日々 「未来」 である 「あした」 を連れて来てはくれるものの 「過去」 で迷子になってしまった私にはどこにいるのかどこに向かえばいいのかわからないまま 「現在」 に立ち尽くしているというのである。 過去・現在・未来で構成された 「時空の不可思議」 を見事にとらえた啓示である。 だがこの主人公ならずとも我々のほとんどが同様に迷子なのである。 なぜなら得たいの知れない時の存在など誰一人 「解明していない」 し流れゆく時など誰一人 「目撃していない」 のである。
自明性
 ビートルズ往年のヒット曲 「Let it be」。 意味は 「あるがままに」 である。 人間はもう少し自らを信頼すべきである。 わからないことは、わからないとして、そのままにすることは人間としての英知であり、能力でもある。 あるがままに生きていればそのうちわかるときがくるのである。 それはあまりに当然な生物としての 「自明性」 であり、その自明性を 我々はどこかで見失ってしまったようである。 自明性とは考えなくても当然にして存在するものである。 原始 人々はこの 「自明性」 によって生きていたことは想像に難くない。 それに比べ 現代人は何と多くのことを 「意味を考えること」 に費やしているのであろうか。 現代人の多くが生きる活力を失い精神衰弱に陥ってしまった最大の原因がここにある。 人間、馬鹿を承知で生きるものであろうし、おもしろきことのなき世を、おもしろく、生きるものであろう。
局所的対策
 連日35度をこえる熱波が日本列島を覆っている。 登場した気象予報士はこのままいけば40度をこえる酷暑の夏が到来すると予想している。 原因はおそらく地球温暖化をもたらした温室効果ガス(炭酸ガス等)の大量放出であろうが、事態の悪化が幾何級数的に増加しているにもかかわらず、この 「不都合な真実」 を 声高に叫ぶ者はいない。 叫ばれるのは局所的な熱中症対策であり、暑い夏をいかに快適に過ごすかというライフスタイルのすすめである。
審査すべきは人間そのもの
 原発再稼働に向けて安全強化を義務づけた新規制基準での審査が始まった。 テレビニュースでは各電力会社の社員が分厚いファイルを何冊も原子力規制委員会に運び込んでいる様子を伝えている。 これらの書類を作成するのも大変であろうが、審査するほうもまた大変であろうと同情を禁じ得ない。 再稼働に向けての安全強化策とはいったい何であろうか? 原発再稼働に向けて国民が期待しているものは、分厚いファイルに収納された安全基準書などではなく、原子力発電所を運用管理するにたる 「人材に対する信頼感」 なのではあるまいか。 もちろん装置の改善や安全マニュアルの改善等々が不要であるはずはないが、今国民が求めているのは、安全マニュアルをしっかりと身につけ、それらの装置を的確に操作できる人材に対する信頼感なのである。 審査すべきは 「科学技術」 というよりも むしろ 「人間そのもの」 なのである。
その生き方が理解できない
 人類は 「狩猟採集社会→農耕社会→工業社会」 と生き方を変えてきた。 そして今、情報社会に生きようとしている。 イノシシを追って生活していた者には畑を耕して生活する者の生き方が理解できない。 同様に、畑を耕して生活していた者にはベルトコンベアでネジを締めて生活する者の生き方が理解できない。 そしてネジを締めて生活していた者にはコンピュータを叩いて生活している者の生き方が理解できない。 これが 「時代の進歩」 だ と言うのだが ・・。
形なきものへのアプローチ
 情報社会が過去に人類が経験してきた 「狩猟採集社会」 「農耕社会」 「工業社会」 と根本的に異なるところは社会が基本とする対象物がイノシシや麦や機械などの 「有形なもの」 から情報という 「無形なもの」 に変わったことである。 この 「形なきもの」 にいかにアプローチするのかが情報社会の課題である。 有形なものは 「昨日そこへ置いておいた」 と言えば事足りるが、無形なものは 「昨日確かにそこに置いておいた」 と言えども 「どこに ・・」 と言われたら返答に窮する。
漂流記
 1888年に発表されたジュール・ヴェルヌの冒険小説 「十五少年漂流記」 は物体としての少年たちが漂流した無人島で力を合わせて生活していく物語である。 だが現代の少年たちが体験する 「心の漂流」 は現実から遊離したバーチャルな ネット世界でのことであり、会話は 「Twitter(ツイッター)」 繋がりは 「LINE(ライン)」 と呼ばれる電子ツールを使った 「Web(ウェブ)」 社会の中で進行する話である。 物体としての船の漂流ならば錨を投じれば防ぐことができるが、心の漂流となると何が錨なのかさえも定かではない。 そう考えると現代の少年たちは果てしなく広く底なしに深い暗黒の大海原で寄る辺なく彷徨する漂流者のように思えてくる。 さらには、この少年たちには地図や羅針盤さえも与えられていないのかもしれないのだ、これほど過酷な漂流は他にはあるまい。
常識者と創造者の相克
 社会は多数の 「常識者」 と少数の 「創造者」 で構成される。 往々にして少数の創造者の主張は多数の常識者の立場を危うくする。 創造者の主張が正しいか正しくないかは別段の意味をもたない。 創造者は創造的であるがゆえに、常識者であろうとしてもそこにとどまることはできず、常識者とは別の道を歩かなければならない。 それは創造者としての 「負い目」 ではなく 「宿命」 である。 創造者を目指すのであれば、このことを生涯に渡って忘れてはならない。
いつかどこかで
 人生はいつも 「それではまた、いつかどこかで」 という別れの言葉に帰着する。 楽しき語らいも、おもしろき集いも、いつしか時は流れ、やがて 「それではまた、いつかどこかで」 という刹那に至る。 時空の巡り逢いは 「いつかどこかで」 という合言葉とともに時空の狭間に紛れ込み、いつかまたどこかに回帰してくる。 宇宙が内臓する最も偉大な 「胎動メカニズム」 である。
「あれ」と「これ」の彼方〜価値観の制作
 「あれ」 と 「これ」 の区別は、人間社会にさまざまな価値観を制作する。 「あれ」 を善とすれば 「これ」 は悪となり、「あれ」 を美とすれば 「これ」 が醜となる。 これらの価値観の制作はまた 「相対性の本質」 でもある。 「あれ」 を善とするとは 「あれ」を善の相対基準にすることであり、「あれ」 を善とした以上 「これ」 が悪の相対基準に移行することは必然の成り行きである。
タイムマシンの実現性
 アインシュタインの相対性理論では、この宇宙に存在する何ものも光速の壁を越えることはできない。 だが意識の速度は光速の壁を軽々と超えているように観える。 意識は空間と時間に拘束されることなく何億光年も隔たった銀河世界へも、また何億年も隔たった過去世界へも、瞬く間に移動する。 最新の量子物理学では光速を越えて情報伝達する物質的粒子の存在も確認され相対性理論も修正を迫られている。 物理学は今 限りなく心理学や哲学に近づいており、物質的アプローチから意識的アプローチへと軸足を移しつつある。 もし仮に、宇宙存在の主体が意識であり、その意識が投影した影が客体である物質であるとするならば、我々はいかなる時空へも 縦横無尽に飛び回ることができる 「力」 を秘めている。 それは物理学が述べる時空のトンネル 「ワームホールの構造」 であり、アインシュタインが思考した 「タイムマシンの構造」 である。
角を立てる時代
 世界の潮流は今、丸く治める時代から角を立てる時代へと移り変わろうとしているかにみえる。 互いにささいなことで罵しり合い事を荒立て混乱を助長させる。 それはトランプ大統領しかり、習近平主席 しかり、金正恩委員長しかり、プーチン大統領しかり、安倍首相しかり ・・ しかりである。 かくなる 「いらだちの原因」 が何に根ざしているのかはしかとはわからない。 それは過剰に繁栄したがゆえの 「驕り」 なのか、それとも身を超えた豊かさゆえの 「飢餓感」 なのか、はたまた肥大化した意識ゆえの 「傲慢」 なのか? 彼らのいらだちは、世界津々浦々、下々に 隈無く伝染波及し、今では右も左も 「角を立てること」 日常茶飯の様相を呈している。 生物がいたるところで 「角を突き合わせる」 生活様式など 万物の霊長と尊称される人類としてはあまりに愚かで稚拙な 「統治システム」 と言わざるをえない。 かかる潮流が行き着く先、いったい誰が潤い、誰が安んじる、というのであろう。
デジタル宇宙とアナログ宇宙
 宇宙は時間と空間で構成されていることをもって通常 「時空間」 と表現される。 私が描いた 「Pairpole 宇宙モデル」 ではその時空間が 「刹那宇宙」 と 「連続宇宙」 で構成されていることが骨子となっている。 刹那宇宙は、時空間を時間軸と垂直に断面したときに現れる時間が停止した 「デジタル宇宙」 であり、かたや連続宇宙は、時空間を時間軸に沿って断面したときに現れる時間が継続する 「アナログ宇宙」 である。 例えて言えば、刹那宇宙とは 「1枚の写真の世界」 であり、連続宇宙とは、その写真が幾枚も重ねられた 「1巻の映像の世界」 である。 映画は1秒間に24コマの写真を連続的にフローさせることで静止画像を動きのある動画映像に変換させたものである。 言うなれば、我々は 「1枚の写真の世界」 に生きるとともに 「1巻の映像の世界」 に生きているのである。 「時よ止まれ」 と願うのは 「写真の世界」 でのことあり、「時よ永遠に」 と思うのは 「映像の世界」 でのことである。
時間と空間の真象
 時間を追求すると 「始まりと終わり」 に行き着き、空間を追求すると 「在ると無い」 に行き着く。 始まりと終わりの時間問題は 「循環性」 に還元され 「我々は何度も同じ人生を繰り返す」 という帰結に至る。 「我々は 生まれ続け 生き続け 死に続ける」 というわけである。 在ると無いの空間問題は 「対称性」 に還元され 「あれとこれの2極(Pairpole)が空間を発生させる」 という帰結に至る。 「無は有から生まれ 有は無から生まれる」 というわけである。
歴史小説考〜連なった世界と重なった世界
 通常、歴史小説は時間軸に沿って構成された 「連なった物語」 であると考えられているが、過去・現在・未来で構成された線形時間が存在せず 「過去や未来は現在に含まれている」 という 「時は流れず」 の立場から、この歴史物語を論じれば、歴史小説は時間軸に関係なく構成された 「重なった物語」 であると考えることができる。 重層的に構成された 「ある歴史物語」 から、他の 「ある歴史物語」 への遷移は、非日常的歴識空間に掛け渡された 「時空のトンネル(意識のワームホール)」 を通過することで可能となる。 ゆえに歴史小説は 「連なった世界」 の物語として読むだけでなく、さまざまな意識が織りなした 「重なった世界」 の物語として読むこともまた必要である。
宇宙の晴れ上がり〜もっと思いを!
 宇宙の起点として考えられている 「ビックバン」 は特異点と呼ばれ科学理論は破綻している。 このビックバン特異点の近傍宇宙では光さえ自由に飛ぶことができない。 光が自由に宇宙空間を飛ぶことができるのは、ビックバン後に始まったインフレーションと呼ばれる爆発的な膨張を起こしたあとの約38万年後のことである。 物理学ではこの状態を 「宇宙の晴れ上がり」 と呼ぶ。 我々が今、宇宙をかく目にすることができるのは、この晴れ上がりを経過し、光が自由に宇宙空間を飛ぶことができるがゆえである。 物質世界の基準である 「光」 に基づいた 「物質宇宙の晴れ上がり」 はまた意識世界の基準である 「思い」 に基づいた 「意識宇宙の晴れ上がり」 に等価的に還元される。 我々が今、宇宙を思うことができるのは、この意識の晴れ上がりを経過し、思いが自由に宇宙空間を飛ぶことができるがゆえである。 かって人々は行きづまったとき 「もっと光を!」 と願った。 だが意識を主体にしたこれからの世界では 「もっと思いを!」 と願わなければならないのかもしれない。
宇宙物語の発生メカニズム
 直観的場面構築とは、顕在意識や潜在意識で構成された広漠茫洋たる意識の大海に蓄積されていた玉石混淆、種々雑多なさまざまな 「断片的認識要素」 が、ある瞬間に連鎖関連して 「意識世界のスクリーン」 に投影される 「直観的場面」 である。 歴史的場面構築とは、バラバラに存在していた 「断片的現象要素」 が、ある瞬間に連鎖関連して 「現実世界のスクリーン」 に投影される 「歴史的場面」 である。 直観的場面構築の基本要素は 「意識」 であり、歴史的場面構築の基本要素は 「行動」 である。 陽明学が述べる 「知行合一」 のごとく、意識と行動は別々のものではなく一体的なものである。 同様に直観的場面と歴史的場面は別々の場面ではなく一体的な場面である。 直観的場面と歴史的場面は万物事象の 「表裏」 であり、直観的場面は歴史的場面を投影し、歴史的場面は直観的場面を投影する。 世に怖ろしきは実に 「意識」 することである。 その意識が直観的場面を構築することで誘起された 「行動」 が歴史的場面を構築してしまう。 「思いは実現する」 とは、巷間よく言われることであるが、重要なことは 「正しく意識する」 ことである。 なぜなら正しい意識だけが、正しい行動を発生させ、正しい歴史的場面を構築するからに他ならない。
相転移した世界
 刹那空間とは、時間軸に垂直な空間であって時間が存在しない。 連続空間とは、時間軸に沿った空間であって時間が存在する。 刹那空間は時間に帰因する因果律が構成されないことで、すべては 「偶然性」 で語られ、連続空間は時間による因果律が構成されるため、すべては 「必然性」 で語られる。 空間は直観的場面で構築された意識空間であり、連続空間は歴史的場面で構築された物質空間である。 過去・現在・未来と連続する線形時間を信じる現代人から観ると、因果律で構成された物質的歴史場面である連続空間に実在性の保証を与えるであろうが、もし線形時間が存在しないとすれば、その実在性の保証も怪しくなる。 やがては意識的場面で構築された刹那空間に実在性の保証が与えられるような 「相転移した世界」 が現れてくるのかもしれない。
意識のめぐり逢い
 今、彼は彼女と駅前にある広場で午後7時に待ち合わせをしている。 午後7時という時がその広場に彼女を出現させるのか? それとも、彼女がその広場に出現した時が午後7時になるのか? そうではない、彼女は 「出現すべき時」 にその広場に出現するのである。 刹那空間にはさまざまな意識が、かく来たりて、かく去っていく。 それらの意識は、この 「今の今」 という刹那空間でめぐり逢い、直観的場面を構成する。 構成された意識的な直観的場面は、今の今である現在というスクリーンに物質的な歴史的場面を投影し 「実在場」 を構築する。 私の父は死んだのではない。 父の意識が時空の彼方へ去ったのである。
呪縛からの解放
 時間は空間の 「変化率関数」 とでもいうべきもので、言うなればそれは 「数学的概念」 である。 概念とは、手に触れたり目撃できるような実在ではなく、意識が構築した無形な認識である。 時間が意識によって構築された概念であるとすれば、その概念で構成された 「過去」 や 「未来」 もまた、意識が構築した 「概念」 であって、実在するか否かは定かではない。 我々が手に触れ目撃できる実在は 「現在」 だけであって、これを疑うことはできない。 疑うことのできない現在という刹那宇宙が解明されれば、長きに渡って我々を拘束してきた 「時間の呪縛」 から解放される道筋も開けてくるに違いない。
色即是空 空即是色〜その解釈とは
 「Pairpole 宇宙」 は宇宙の根源的内蔵秩序である 「対称性」 に基づいた宇宙である。 その対称性の究極の源泉は 「在るか」、「無いか」 という Pairpole である。 在ると無いは対極でありながら1枚の紙のごとく表裏一体である。 在るは無いから生まれ、無いは在るから生まれる。 以上の Pairpole 構造は、まさに般若心経の中核を成す 「色即是空 空即是色」 に相似する。 だが 「在ると思うと無い 無いと思うと在る」 というような教義解釈は論理性が破綻していて認識をもってしては意味不明である。 その論理破綻の原因は宇宙が 「ひとつである」 と考えるところにある。 もしひとつではなく 「在る宇宙」 と 「無い宇宙」 の 「ふたつの宇宙」 で構成されているとしたらどうであろう? それは 「線形時間を廃棄」 することで導かれた重層的に重ねられた空間構造であるとともに、その重なった空間が互いに時空のトンネルである 「意識のワームホール」 で繋がっているとした空間構造である。 これで般若心経の解釈はより 「すっきり」 したものになってくるが、ではそのふたつの宇宙に掛け渡された 「意識ワームホール」 とはいったい何であろうか?
紛争解決の手段とは
 世に紛争の種は尽きないが紛争解決のために使われる手段はあまたある。 思い浮かぶままに列挙すれば以下のようである。 信に基づく手段 ・礼に基づく手段 ・理に基づく手段 ・情に基づく手段 ・威に基づく手段 ・奸に基づく手段 ・・ 等々。 記述の序列は、私が考える 「正道」 な手段から 「邪道」 な手段へのランク付けによる。 どの手段もそのひとつでは完全な効力とは成り得ない。 おそらく 「最高の手段」 となるのは、それらを合成させたものであろう。 だが最近の解決手段が、邪道に近づく 「威」 や 「奸」 に偏るとともに、それらが多用されることが気がかりである。 それらの手段は紛争を解決に向かわせるどころか、いたずらに混迷を助長させているようにさえ観える。 ここは速やかに正道に向かって回帰すべきではあるまいか。
この世の主役とは
 人が楽しくないのは取巻くこの世の状況が楽しくないからであるとする考えは間違いである。 そうでなければ悲惨な時代に生まれた者の人生はもはやそれだけをもって改善不能である。 この世は楽しいとか楽しくないとかの人間感情に基づいて存在しているわけではなく 「ただそのままに」 存在しているのである。 人が楽しくないのは単にその人が抱く思いが楽しくないということであって、その原因をこの世に責任転嫁することはできない。 以上の思考展開を還元すれば 「この世にはしかとした色合いはなく、楽しいと思えば楽しく、楽しくないと思えば楽しくない」 ということになる。 それはこの世は思いから生まれるという 「唯識論的世界観」 の様相でもある。 もしそうであれば、この世の万物事象(物的存在)は人生の背景であって決して主役ではない。 背景でしかない万物事象に過去と未来の存在意義や喜怒哀楽の思いの是非を質してみても詮ないことである。 諸行無常。 この世における 「すべての責任」 は主役である 「自らの思い」 に依っている。 このことからは誰も免れることはできない。
思いのない世界
 人生とはこの世の万物事象を背景にして 「自らの思いを描いた」 1点の絵画のようである。 芸術とはその思いが描いた創作である。 それは作曲であっても、作文であっても、作画であっても同じである。 そこに作者の思いが描かれていなければ、いかように形が整っていても、それは駄作であって魅力がない。 表現された思いこそが、その作者の独創性であり、存在感である。 それは作者の 「意識の指紋」 のようなものであって 「作風」 と呼ばれる。 芸術家の真価はかかる作風を創りあげれるか否かにかかっている。 しかしてその作風の源泉が作者の思いから生まれることからすれば 「思いがなければ」 何も描くことはできない。 同様に思いがなければ、この世のキャンバスに自らの人生を描くことなどできない。 だが昨今の世相を眺めれば、整ってはいても 「思いのない」 芸術作品が世の大道を横行してはばからない。 それはまた作品としての人生においてもしかり、「50歩100歩」 の域をでていない。 「思いのない世界」 はまことにもって味気なく無味乾燥の荒野のようである。
次なる社会の発見
 人類が遭遇するこれからの社会とはいかなるものか? 「狩猟採集社会」→「農耕社会」→「工業社会」→「情報社会」 と発展してきた社会は次にいかなる社会を将来するのであろう? これらの社会を現出させてきた原動力は人類のみに備わった 「知能」 にあったとすることは異論なきところであろう。 その知能発展の経過がすなわち 「狩猟採集社会」→「農耕社会」→「工業社会」→「情報社会」 への移行経過である。 だが事ここに至って人類は発見すべきものは 「すべて発見し尽くした」 かのようにみえる。 それは 「科学の終焉」、「資本主義の終焉」、「 ・・ の終焉」 と呼ばれるような終焉の流行に顕れている。 いまだ空白な未知領域はどこかに存在しているのであろうか? 人類がたどった過去の歴史から考えれば未知なる領域は必ず存在するはずである。 ただその領域がみえないだけであろう。 過去も未来もない 「重なった世界」 としての 「現在の構造」 はその可能性を示唆している。 未知なる領域はその重なった世界の中の 「ひとつ」 として必ず存在するはずである。 その 「重なった世界との往来」 は意識ワームホールとしての 「思惟」 に依ってなされる可能性やその思惟が考えるでもなく思うでもない瞑想に近い意識作用であることなどについては従前で述べた。 次なる社会はこの思惟によって拓かれるであろう。 しかして、新たな世界を発見した偉人らはみなその思惟を通じてその世界に至ったのではあるまいか? それは真言密教を創始した空海しかり、相対性理論を発見したアインシュタインしかり ・・ しかりである。

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