Linear アフォリズムで描いた知的冒険ワンダーランド
ショートエッセイセレクション / 第 8 集
Turn
知のワンダーランドをゆく
文 / 柳沢 健 / 2017.02.03 〜 2017.11.22
樅ノ木は残った〜パクス・アメリカーナの終焉
 「樅ノ木は残った」 は江戸時代、仙台藩伊達家で起こったお家騒動「伊達騒動」を題材にした山本周五郎の歴史小説である。 騒動のあげく残ったのは1本の樅の木であったという物語である。 それはまた山本周五郎が帰着した 「人の一生は樅の木さえ超えることができない」 という是非なき真象に対する達観であり畏敬の念でもある。 久しくまどろんできた世界平和も英国のEU離脱や米国のトランプ大統領の出現で様相は急変、事態は風雲急を告げているように観える。 歴史はローマ帝国による 「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」 から、アメリカ合衆国による 「パクス・アメリカーナ(アメリカの平和)」 までの世界平和を語り継いできたが、パクス・アメリカーナに陰りが見えてきた今、「次なる平和」は何によってもたらされるのかを考えなくてはならない段階にきている。 換言すれば、「人々はかかる “ 騒動 ” のあげくに何をのこすのか?」 ということである。 この稿を書きながら眺めている庭の棒樫は毎年その剪定をしている私がいなくなったとしてもなお青々と生き続けるであろう。 「樅ノ木は残った」 とはそういうことである。
大統領の戦略兵器〜われ核弾頭ツイッタを装備せり
 トランプ大統領にとっての最大の武器は 「ツイッタ」 である。 従来行われてきた新聞やテレビニュースなどの 「間接的」 な報道では 「自らの真意(?)」 が伝わらないとして、もっぱら 「直接的」 に発信できるツイッタを縦横無尽に駆使して自らの権力基盤を構築しようとしているかに観える。 ツイッタとは128文字以内で書かれた前置きなしの 「超短文」 で何かを主張しようとする情報伝達ツールである。 それはまるでトランプ大統領のために開発されたかのようなツールである。 このようなツールを政治的な武器として使う大統領の出現をいったい誰が予想したであろうか? 今やトランプ大統領にとってのツイッタはあたかも核弾頭ミサイルのごとき 「戦略兵器」 に成り上がろうとしている。 その核弾頭とは不意を狙った 「暴言」 であり、意図なき 「詭弁」 であり、矛盾した 「言い訳」 であり、その他、トランプ大統領の頭脳が思いつく限りのすべての 「言説」 である。 その威力はオスロ条約で禁止されている 「クラスター爆弾」 の比ではない。
ソーシャルネットの未来〜夢か悪夢か幻か
 SNS(ソーシャルネットワーキングサービス)とは人と人のつながりを促進し支援するコミュニティ型のネットサービスのことである。 その中でも最近最も人気が高いサービスが 「ツイッタ」 と 「インスタグラム」 だという。 ツイッタに関しては米国のトランプ大統領が頻繁に使用する情報伝達ツールとして世界中にその名は衆知なものとなった。 ツイッタが128文字以内で書かれた 「超短文」 で情報発信するのに対し、インスタグラムは 「1枚の写真」 で情報発信しようとするものである。 写真に付けて文字表現もできるが、あくまで主体は画像である。 この文字か写真かの選択でツイッタを愛用する人とインスタグラムを愛用する人とに分かれる。 ただどちらも手軽に簡単に瞬時に自らに関わる情報を発信できることでは共通する。 今やネット社会はこれらの 「お気軽」 で 「お気楽」 な文字情報と写真情報で 「ごったがえして」 いる。 その状況は個人情報保護法遵守云々どころの話ではない。 これらの個人情報の巨大な坩堝がこの先いかなる状況を現実社会にもたらすのか予想することはできない。 かって、来るべき21世紀は情報化時代であると未来に向けて夢を描いていた私たちではあったが、ここまでくると、それが 「バラ色の夢」 なのか、それとも 「灰色の悪夢」 なのか、判然としなくなっている。 あるいはそれは 「幻」 なのかもしれないのだ。
羅針盤を失った難破船
 ある者がかの者に 「それはおかしい」 と言う。 すると、かの者はある者に 「これでいいのだ」 と言う。 それを聞いた、ある者は 「そうか、それでいいのか」 と受け入れる。 今度は、かの者がある者に 「それはおかしい」 と言う。 すると、ある者はかの者に 「これでいいのだ」 と言う。 それを聞いた、かの者は 「そうか、それでいいのか」 と受け入れる。 「確信の終焉」 で描いたプリゴジンが予想するカオス化した社会の姿である。 多様化した人生観や世界観を受け入れることを学んだ 「確信が終焉した社会」 とはこのようなものであろう。 誰もが自信をもてず、羅針盤を失った難破船のごとく、波間に漂っている。 これではたして、人類に生きる意味や希望があるといえるのか? プリコジンは絶対的価値観から相対的価値観への思考転換を迫るが、ではいったい、我々に 「いかに生きよ」 というのか? 絶対的な統一理論への希望を捨てるとはそういうことである。
カオス理論の旗手かく語りき〜真実よりは啓示を
 数学物理学者であるとともにカオスと複雑系の研究でも活躍したミッチェル・ファイゲンバウムは、「確信の終焉」 で述べたイリヤ・プリゴジンと同様に物理学の 「統一理論」 には否定的である。 統一理論の信奉者に向かって 「統一理論が この世界を理解する唯一の方法だと 君が信じているならば その理論形式で どうやったら 頭の部分に毛が全部あつまっている君の姿を 予測できるというのか ・・ 私たちはごくわずかな手段しか持っていないのだ そんなものだけで 多くの難問を解くことなどできない ・・ 私は真実なんかには まったく関心がない 私はむしろ 物事について考える 私なりの方法があることを知りたいのだ」 と語っている。 それに対する周囲の反応は 「彼は真実ではなく “ 啓示 ” を求めているのだ」 と冷ややかであった。 統一理論に見切りをつけたファイゲンバウムは、その後は研究を応用科学に転じ、最小限の空間誤差で最大限に美しく見える地図を自動的につくれるソフトウェアを開発するのに力を貸したり、合衆国の紙幣を偽造されにくくするために複写されるとぼけてしまうフラクタル構造を利用するアイデアを提案したりしている。 今やカオス理論の旗手であったミッチェル・ファイゲンバウムにしてこの状況である。
有限の時間内で真実は決定できない
 1994年、米国のサンタフェ研究所で 「科学的知識の限界」 をテーマにした研究集会が開催された。 集会は 「現実世界は私たちが理解するには複雑すぎるのであろうか?」 という命題から始められた。 クルト・ゲーデルの不完全性定理では、ある種の数学的記述は常に不完全だとされている。 であれば現実世界の諸現象は常に完全には説明しきれない。 命題を還元すれば 「有限の時間内ではその命題が真実であるのか真実でないのかを決定することはできない」 ということである。 「永遠と無限の存在証明」、「ポアンカレ循環疑義」 ではこの 「有限の時間内」 という思考の前提について書いている。
要旨を述べれば、フランスの数物理学者、アンリ・ポアンカレ(1854年〜1912年)が証明した 「ポアンカレ循環」 の帰結は 「もし永遠の時間の存在を想定すれば、あらゆる物事は出発点に回帰し、同じ循環を繰返すことになる」 というものだが、誰も永遠の時間など経験していないのであるから、その帰結は 「単なる数学的概念であって、その存在を証明したものではない」 という疑義である。 もし疑義するところが正しければ 「ポアンカレ循環が意味する人間生活にかかわる哲学的有義性は消失」 してしまう。つまり、「何のための科学で、誰のための科学か?」 という根本義である。 人間は永遠の時間では生きられないのである。
歩みゆく道はどこに
 多様化した社会では、生きる意味や、生きる方法を、とりまく社会に問うてみても、返ってくるのは、当然にして、多様化した生きる意味であり、多様化した生きる方法である。 大事なことは、その多様化した生きる意味や、生きる方法の中から、自らに相応しい意味や方法を抽出できるかどうかである。 でなければ自らの人生は始まらない。 多様化した選択肢の中からあるもを選択するためには当然にして選択するための基準が必要となる。 しかしてその基準とは、貴方の 「内なる世界」 に内蔵されている貴方の世界観であり、価値観であり、倫理観であり ・・ 等々である。 であれば、多様化した世界の中で、貴方が歩みゆくに相応しい新たな道は、貴方の外に拓かれているのではなく、貴方の内に拓かれているのである。
世界は思いかたしだい
 貴方の世界は貴方の 「思いかたしだい」 でいかようにも変わる。 いうなれば、天国も地獄も思いかたしだいということである。 ことは簡単にみえて実は相当に難しい。 「分かっちゃいるけどやめられない」 のが人間であるが、もし自分の思いを 「自在に制御」 できれば、その人はもはや 「スーパーマン」 である。 その方法は、遥か彼方の理想郷を目指してひたすら努力するよりは、格段に現実的で、実現可能性が高い。 空の彼方を探しても見つからなかった 「幸せの青い鳥」 は往々にして目の前の窓辺に憩っているものである。 真言密教を創始した弘法大師空海は、ただひと言 「仏らしく生きよ」 とまとめた。 ことは難しくみえて実は相当に簡単でもある。
事実は小説より奇なり〜オンリーワンの変遷
 地元紙のエッセイ欄で 「ナンバーワンからオンリーワンへ」 を書いたのは2000年1月のことである。
その稿は、戦後長く続いたしゃにむに頑張る 「ナンバーワンの時代」 は終わりを告げ、これからは個性と余裕をもった 「オンリーワンの時代」 が到来するであろうとの期待を込めて書かれたものである。 2017年3月時点である今の現状を眺めれば、確かに個性は多様化してオンリーワンが実現したかにみえるが、そのオンリーワンに余裕があるようにはみえない。 それどころかオンリーワンの周辺は日増しに喧噪が激しくなり慌ただしくなっている。 かえってオンリーワンが 「ナンバーワン化」 しているようにさえみえる。 米国のトランプ大統領は確かにオンリーワンの個性をもった大統領ではあるが、その影響力は世界でナンバーワンである。 ナンバーワンからオンリーワンへの移行を可能にしたのは情報化時代を推進した情報技術の進歩が多大に寄与したことは誰もが否定しないであろう。 それはトランプ氏のオンリーワンを大統領のナンバーワンへと移行させたものが 「インターネット」 という情報技術であり、「ツイッタ」 という情報伝達ツールであったことを考えれば素直に了解されよう。 「オンリーワンがナンバーワンになる」 ことなど 「ナンバーワンからオンリーワンへ」 を執筆した当時には思いもしなかったことである。 「事実は小説より奇なり」 とはこのことである。
あの日から6年〜誰のために何のために
 2011年3月11日、午後2時46分に発生した東北大震災から6年の歳月が経過した。 震災による死者(行方不明者含む)は2016年3月10日時点で18.455人に及ぶ大災害である。 まさにそれは20世紀末に予言された 「人類の終末」 がわずかに遅れて到来したかのようであった。 神話になっていた原発の安全も脆くも崩れ去り、今なお解決の道筋はたっていない。 被ったダメージは日本社会の根幹にまで及んで事態は思っている以上に深刻である。 その日からというもの、視点は遠方から直近に、期待は未来から今日明日に、ビジネスは堅実からギャンブルに、と変移し、頻発するオレオレ詐欺は減少する兆しさえみえない。 希望が枯渇して心から潤いが失われれば 「その日暮らし」 の生活に陥ることは無理からぬことである。 被災地に向かって 「頑張れ頑張れ」 と叫んでみても、大切な人を失った今、いったい 「誰のために」 頑張ったらいいのか? しかして 「何のために」 生きたらいいのか? 今、「最も必要なもの」 というのであれば、まぎれもなくその 「生きる力」 そのものではあるまいか。
自分に言い聞かせる人
 若き日のことである。 私は入寮していた学生自治会の役員を負わされていた。 事は寮内で起きた問題に対する抗議集会でのことである。 激しい口調で抗議する質問者に向かって担当の部局長が額に汗して答えていた。 部局長の横に座っていた私はどうなることかと推移を見守っていた。 しばらくしてその部局長の彼が小声で何かを 「つぶやいている」 ことに気がついた。 「ここは落ち着いて ・・ 話はよく聞いて ・・ 冷静に ・・ 冷静に ・・」 自分に向かって言い聞かせているのである。 そのうちにその自問のつぶやきをマイクが拾って質問者の聞くところになった。 その毒気にあてられたのか質問者も苦笑いをしながら 「わかりました もういいです」 と矛を収めたのである。 「世界は思いかたしだい」 で 「自分の思いを自在に制御できれば、その人はもはやスーパーマンである」 と書いた。 まさに彼は自らの思いを制御するために自らに語りかけていたのである。 見あげた彼の顔はその言葉のように、落ち着いて、相手の話をよく聞いて、冷静であった。 「すごいやつだな」 と私は感嘆した。 コントロールし難き自らの心をコントロールするために、彼はあらゆる方法をもって臨んでいたのである。 そこにはかっこ悪さも何もなかった。 その彼を私は 「かっこいい」 と思った。 それから幾星霜の歳月が流れた。 だが彼は人生の 「スーパーマン」 として、この世のどこかで、その若き日のままに、あたりに光彩を発しながら、淡々と生きているに違いないのである。
塹壕からの突撃〜撃たれる確率とは
 第2次大戦から帰還した、とある退役軍人(老兵)の話である。 それは身を潜めていた塹壕から突撃命令で飛び出すとき、「何番目に飛び出すのが撃たれる確率が最も低いか」 という生々しい 「命を賭けた選択」 についてである。 まっ先に飛び出す ・・ 中ほどで飛び出す ・・ 最後に飛び出す ・・ 等々の選択肢が考えられる。 兵士は各々の価値観に基づいて飛び出していったという。 帰還できた老兵の選択は 「まっ先に飛び出す」 であった。 理由は、待ちかまえる狙撃兵がどこから飛び出すかわからない敵兵を時間差なしで射撃することはできない。 撃てるのは現れた先頭兵士を確認したのちである。 この 「わずかな時間差」 こそが生死を分ける 「大きな時間差」 であることを発見した老兵は 「まっ先に飛び出す」 ことが最も撃たれないと考えたのである。 この確率が正しかったかどうかは知る由もないが、老兵はその 「わずかな時間差」 に賭けた決断によって生還できたと信じて疑わなかったのである。 ことの真偽はともかく、驚嘆すべきは絶体絶命の状況の中でさえ、最後の最後まで 「考え続ける」 という人体にそなわった底力への畏怖と畏敬である。 これがあったがゆえに度重なる危機を乗り越えてさえ人類が今なお地球に生き続けていられるのである。 フランスの哲学者パスカルは 「人間はひとくきの葦にすぎない 自然の中で最も弱いものである だが それは考える葦である」 と言った。 まさにその通りである。
機会利益の争奪戦が語るもの
 機会利益とは機会に遭遇することで得る利益とでも直訳できようか、その反対は機会損失である。 今日本は2020年東京オリンピック招致に成功した高揚感の中にある。 勿論、招致に成功したことによって発生する機会利益と同様に、招致に成功したことによって発生する機会損失もまたある。 どちらを捉えるかは各々の立場や視点によって異なる。 だが物理学の根本的法則である 「エネルギ保存則」 からすれば物理的エネルギ量は両者ともに同じであろう。 違いがあるとすれば 「気分」 である。 例えて言えば、この人と結婚して得た機会利益と、失った機会損失は 「気分の違い」 というわけである。 現代の経済学はかかる 「機会利益」 の争奪戦である。 抜け目なくその機会を狙い、いち早くその収奪に動く。 その争奪戦は昼夜を分かたない。 今ではその争奪戦の本質は情報戦にありとして、インターネットをはじめとする情報技術を駆使してコンピュータの眼を四方八方に放ってその探索に余念がない。 だが 「機会利益と機会損失」 で述べたごとく、機会利益の裏には同等の機会損失が含まれていることを忘れてはならない。 得た利益と同量の損失が隠されているのである。 今、問題となっている東芝の原子力事業において発生した多額な損失などを鑑みればそれは明らかであろう。 事象を客観的公平に考えるならば、機会利益を血眼で探すがごとく、機会損失もまた血眼で探すことが必要である。 世に血眼となって機会損失を探す人はそう多くはいないであろうが、得られた教訓を活かすとすれば、道はそこにしかない。
末人とは獣人か〜仁義なき戦い
 身の安全と安泰。 それは生きていくための基本的条件である。 それがなければ生きていけない。 だがその安全と安泰を得るために 「何のために生きるのか?」 という 「生きる意味」 を捨て去ってもいいわけはない。 生きる意味は、生きるために 「必要ない」 というのが現代人の通常の価値観であろうし、そもそも、すべての意味を、生きるに必要か必要でないかで考えるところに、現代人の特質が顕れている。 この価値観に従えば、生きるに必要ないものは、すべて価値がないものとなる。 現代人が言う 「生きる」 とは、物質的に生存することを意味しているが、その物質的な人間が、生存するために最も重要視しているのが 「衣食住」 という物質的な機能である。 ゆえに、現代人は衣食住に最大の関心をはらっている。 他方、生きる意味は、それが無かったとしても生存が失われることはなく、逆にそれが有ったとしても、生存が保証されるものでもない。 ゆえに、現代人は生きる意味には多くの関心をはらわず、ときとして、いと易く捨て去る。 生きる意味を捨て去る生き方とは、言うなれば、弱肉強食を信条とする獣のような生き方とそう大差はない。 哲学者、ニーチェが予言した 「末人」 とは、あるいは 「獣人」 なのであろうか? もし獣人であるとすれば、今後の世界は、生存を賭けた、信義も仁義もない戦いとなるであろう。 そこでは卑劣極まりない、あらゆる卑怯な戦法さえも用いられることになる。
戦争の記憶〜西部戦線異状なし
 世相は先の第1次(1914年〜1918年)、第2次(1939年〜1945年)世界大戦前夜のような様相をみせている。 第1次大戦から数えて100年以上の年月を経た現在、当時の状況を肌身をもって経験した人は、おそらくその大半がこの世を去ってしまっているであろう。 いま地球上で生きている人のほとんどは、その大戦を 「記憶のうえでの存在」 として感じているに過ぎない。 レマルクの 「西部戦線異状なし」 ヘミングウェイの 「誰がために鐘は鳴る」 などの小説は個としての人間と集団としての戦争との狭間で苦悩し葛藤した人間の姿を描いた不朽の名作である。 それが書かれたのは戦後まもない頃のことであったから人々は実体験として描かれた戦争を肌身をもって感じたであろう。 戦争の悲惨さ、愚かしさ、をいやというほどに思い知らされたであろうし、また心底から悔恨したであろう。 それらの思いは、大きな犠牲をはらった人類が後の世に遺した遺産、言うなれば 「戦争遺産」 である。 だが貴重なその戦争遺産が消えつつある現在の状況は、同じ人類をして 「いつかきた道」 へと誘惑する。 そして 「いつの日か」 識者は言うであろう 「がゆえに戦争は再び起きるのだ」 と。

※)西部戦線異状なし
 ドイツ軍志願兵の主人公パウルが第1次世界大戦下の西部戦線に赴き、やがて戦死するまでを描いた物語である。 題名 「西部戦線異状なし」 はパウルが戦死した日の司令部への報告書に記載された 「西部戦線異状なし 報告すべき件なし」 のラストカットに由来している。 戦時下では人間性の狭間で苦悩し葛藤した1人の兵卒の死などは大した問題ではなく記録にさえ残らないということである。
奪うばかりで愛でることがない
 地球温暖化による自然環境異変は桜の花さえ咲く時期を狂わせている。 このまま進めば綿々と敷島(日本列島)に受け継がれてきた花鳥風月の折節もどうなるかわかったものではない。 現代人は奪うばかりで愛でることがない。 「愛でる」 とは、精神的な余裕から生まれる情感であるからして、現代人にはその余裕がないということになる。 他方、「奪う」 とは、行動をともなった攻撃性を基とする。 ゆえに地球温暖化による自然環境異変はその余裕を失った攻撃性に支配された行動によってもたらされたことになる。 攻撃性に支配された行動は核分裂のごとく次々に連鎖反応を引き起こして膨大なエネルギを発生させる。 この連鎖反応の速度を制御する制御棒にあたるものが余裕に支えられた情感であろうことは容易に想像されるところである。 かくなる制御機能が壊れた原子炉の惨状は福島第1原子力発電所の現状を鑑みれば明らかであろう。 「花鳥風月の折節もどうなるかわかったものではない」 とは、そういうことである。
宇宙は真空を嫌う
 「宇宙は真空を嫌う」と言われる。 そこに真空が生まれようとすると直ちにその真空を何ものかで充填しようとする。 万物事象の生々流転とは、かくなる真空を嫌う宇宙の絶え間ない充填活動の産物とも言えよう。 真空を何もない 「無の空間」 として考えれば、宇宙は無を嫌うということになる。 それはあたかも人間社会が嫌う無と等価な構造を成している。 人は継続する会話の中で、ふと生まれる 「沈黙の無」 を嫌う。 人は考え続けることはできても、「考えを停止した無」 を続けることはできない。 人は為すべきことが何も無い 「無為」 を嫌う。 定年後も働き続けるのはそのためである。 禅では無我無心の 「無の境地」 を尊ぶが、それはその境地が人間にとって達成不可能な境地であるがゆえである。 むしろ人の心は雑念で満たされるのが自然であって、もしその雑念のすべてを取り去った無の心があるとしたら、それは死者の心であったとしても、もはや生者の心ではあるまい。 目指すべきは無の境地ではなく、あらゆるものを充填してなお止むことがない、有の境地にこそあろう。 宇宙が真空を嫌う本当の理由もまた、そのあたりにあるのかもしれない。
宇宙の絶対的基準とは
 アインシュタインが確立(1905年の特殊相対性理論)した 「相対性理論」 の依って立つ根拠は 「あらゆる場所で光の速度は一定である」 とする 「光速一定」 の定義である。 それまでの物理学はニュートンが確立(1687年の自然哲学の数学的諸原理)した 「ニュートン力学」 が自然法則の根拠としてゆるぎない地位を保っていた。 ニュートン力学が依って立った根拠は 「あらゆる場所で時間が一定に経過する」 という 「時間一定(絶対時間)」 の定義である。 宇宙で唯一絶対の根拠(基準)として何を選ぶかはその後の展開に決定的に重大な影響を与える。 当然にして導き出された結論もまた天と地ほどに大きな違いとなる。 光速一定を絶対的基準として論を構築したアインシュタインの相対性理論は、それまで絶対的基準としてニュートンが依って立っていた絶対時間の概念を覆してしまった。 「時間の経過は場所によって異なり一定ではない」 という相対性理論の帰結である。 ともなって導き出された 「空間もまた伸縮する」 という帰結は、それまでの常識的概念を根底から否定するものであった。 世界を驚天動地させた相対性理論から100年余りが経過したが今もなお新たな絶対的基準は見つかっていない。 時間でも光速でもない宇宙で唯一無二の絶対的根拠とは何か? それが見つかれば、我々がとらえている宇宙風景も一変することになるであろう。
宇宙の設計図とは
 宇宙に設計図があったのかなかったのかは永遠の謎であろう。 あったとしたらそれを描いたのは 「誰か」 ということになるであろうし、なかったとしたらかくある根拠は 「何か」 ということになる。 前者の 「誰か」 で想到されるものは 「神」 であろうし、後者の 「何か」 で想到されるものは 「偶然」 であろう。 偶然は確率で表現されるがその確率では起きえないものが起きるのもまたしかりである。 であればその確率のサイコロを振っているのは 「誰か」 ということになる。
宇宙の相対性はかくの如し
 静か動か? それは静止しているのか、はたまた移動しているのか? それは基準を何にとるかで異なる。 山は動かずと言う、だが山が乗った地球は 「1日かけて自転」 し、太陽を中心にして 「1年かけて公転」 している。 とある子供が家に引きこもっていると言う、だがその子供を乗せた地球はかくのごとく動いている。 ゴールデンウィークに海外旅行する者もテレビの前で寝転がっている者も基準のとりかたでは50歩100歩の違いでしかない。 朝から晩まで外を走り回る営業マンと終始内なる営業所に座っている営業マンではどちらが営業効率が高いのであろうか? 営業効率が顧客と遭遇する確率であるとすれば、顧客が静止している場合は走り回る営業マンに、顧客が動き回っている場合は座っている営業マンに軍配が上がるであろう。 市場が静的状態であれば走り回るべきであり、動的状態であれば座っているべきである。 よほどの達人でなければ疾駆する馬上から動き回る獲物を騎射することができないのはそのためである。 戦国の武将、武田信玄がとった戦略は、相手が動とみれば 「林の如く山の如くの静」 であり、相手が静とみれば 「風の如く火の如くの動」 であった。 旗印の 「風林火山」 はその意図をあらわしている。 また 「風と共に去りぬ」 を書いたマーガレット・ミッチェルの墓碑銘は 「アトランタに生まれアトランタに死す」 であったという。 宇宙の相対性はかくの如しである。
巨大な人工知能〜情報化社会に想う
 地球上にくまなく張りめぐらされた情報ネットワークが脳細胞を繋ぐシナプスのように機能し、それ全体があたかも巨大な人工知能となって、自ら考え始めるとともにやがては心をもつようになることはないのであろうか? 局所で使用されるロボット的な人工知能であればまだしも地球規模の体と世界人口70億人規模の脳細胞をもった人工知能ともなれば、どこからどこまでが人工で、どこからどこまでが自前の知能なのかさえ、我々人間そのものが自覚できなくなってしまうのではあるまいか? 最近注目されている 「ビックデータの運用」 とは、その巨大な人工知能に蓄積された記憶データの運用を意味しているのではないか。 人類は知らず知らずのうちにユーチューブで、ツイッタで、インスタグラムで、そのデータ収集に荷担させられているのかもしれない。 間違いもあまりに大きくなると 「どこが間違いか」 がわからなくなってしまうことはこの稿で度々述べてきたことである。 同様に仕組みもあまりに大きくなると自分が 「何をうけもっているのか」 がわからなくなってしまう。 あるいはこれこそが情報化時代の核心なのかもしれない。 巨大な人工知能の下で生きる人類の未来像とはいったいいかなるものなのであろうか? それもまた人智を超えて予測不能である。 (現在の世界人口は約73億人、2050年までには97億人に増えると予測されている)
風に吹かれて
 「風に吹かれて」 と言えばまずボブ・ディランが思い浮かぶ。 1962年にリリースされその後のフォークソング界に大きな方向性を与えた名曲である。 次に浮かぶのは1970年に発刊された五木寛之のエッセイ 「風に吹かれて」 である。 こちらは時代をこえて読みつがれ累計部数460万部を突破した氏の代表作となっている。 いずれも 「青年は荒野をめざす」 が標号の時代であった。 それから50年ほどの時が流れ、少々時代遅れの感があるが、本サイトで連載している 「信州つれづれ紀行」 の副題として、私はこの 「風に吹かれて」 を冠した。 吹く風には今も尚、当時と寸部も変わらぬ憧れにも似た漂白への思いが流れているように感じられるからに他ならない。
地図のない旅
 「風に吹かれて」 のあと五木寛之は 「地図のない旅」 を書いている。 風に吹かれるように漂白の旅を続けるのが人生であるが、その旅には 「地図がない」 ということであろう。 あるいは地図があったとしても漂白の旅はときとして思いとは逆方向へと行く道を誘ってしまうということでもあろう。 戦後復興も進み 「もはや戦後ではない」 と言われた時代、訪れた物質的な豊かさとその豊かさでは救われない精神的な渇望との狭間で青年たちは荒野をめざしたのである。 また異端の劇作家、寺山修司は1967年の評論集で 「書を捨てよ 町へ出よう」 と呼びかけ 「花に嵐のたとえもあるぞ さよならだけが人生だ」 と精神の覚醒を促した。 書をすて 風に吹かれるようにして 地図のない旅に日々を費やし さよならだけが人生だと自らに言い聞かせていた 懐かしき時代の面影は 今も走馬燈のように脳裏に甦ってくる。 畢竟如何。 今日だって それは同じことなのである。
球形の荒野
 科学哲学エッセイ 「 Pairpole 」 (1999年刊行) で、私は ・・ 現代社会は水平的地域として 「東京砂漠」 であり、垂直的歴史感情として 「傷だらけの人生」 であり、それらが覆う地球は 「球形の荒野」 である ・・ と書いた。 それは20世紀末のミレニアム(千年紀)のことであった。 それから18年の歳月が経過したことになる。 「球形の荒野」 とは松本清張の長編推理小説(1962年刊行)の題名で映画化もされている。 それから数えれば55年の年月である。 地球は球形の荒野なのかを問うた松本清張の鋭敏な直観は今にして現実のものになろうとしている。 それは近代科学文明がもたらした自然環境破壊の現状であり、加速する経済のグローバル化がもたらした格差社会による精神の荒廃と対立の様相である。 我々は球形の荒野の片隅に生きるしかすべはないのか? 新たな地平はどこにあるのか? 立ち尽くす明日である。
究極の民主主義
 インターネットを中心とした情報化社会は雲の上の有名人も場末の無名人も 「何ら変わらぬ人間」 であることに還元させてしまった。 今やホワイトハウスの大統領であれ、市井のホームレスであれ、情報的には同じ 「ひとりの人間」 である。 これを民主主義と言えば 「究極の民主主義」 であるとも言える。
トランプ大統領は隣に住む威勢のいい 「おじさん」 であり、金正恩委員長は公道を騒音をまき散らして走り回る暴走族の 「お兄ちゃん」 と同じである。 これらの還元はかってなかったことであり情報化時代に至ってはじめて現れた特有の現象である。 今後しばらくはかかる現象で得する人と損する人が入り乱れてのバトルロイヤルの様相を呈し世の喧噪は続くであろうが 「知ってしまったことを知らないとすることはできない」 という情報の非可逆性からすれば事態が覆ることはないであろう。 しかしながらそのことが人間社会にいったい何をもたらすかについては予測不能である。
刺激の臨界点
 人間が生きていくうえで刺激は必要であろうがその刺激にも限度はある。 その臨界点に至れば飽和してしまう。 いくら美味いものを食べようとしてもいつかは限界がくることは当然であろうし、いくら行きたいところがあったとしてもそのうち限界がくることもまた必然であろう。 ましてかっての時代のようにその情報が制限されていた頃とくらべれば現代は無制限に膨大な情報が瞬時に提供されてしまう。 刺激の限界はあっという間に臨界点に到達してしまう。 さらなる刺激を求めても人間の思考能力にも限界があるわけで、おいそれとは新たな地平は拓かれない。 現代人はそろそろ新たな刺激を求めようとするその姿勢を改めなくてはならない地点に到達してしまったのではあるまいか? その方向性の核心は刺激がなくて当然の生き方の模索である。 美味いものがなくて当然、行きたいところがなくて当然の生き方である。 現代の価値観に従えば 「それでは何のために生きているのかわからない」 ということになろうが、それこそがこれからの新たな価値観の本質なのである。
是非を知る
 是非を知る。 事の是非を的確に知ることができれば、もはやその者はこの世を生きるうえでの 「達人」 である。 世の大半はその是非の妥当性を知ることができない。 事の軽重の是非である1を1として的確に知ることはそう容易いことではない。 1を5と、また1を10と判定してしまう。 1を掛け値なしで1と判定できれば実のところ達人なのである。 1を5と評価すればそれは 「過大」 であり、5を1と評価すればそれは 「過小」 である。 この是非の判定を誤ることでさまざまな問題が発生する。 悩むべき1を10と過大に評価すれば、それは杞憂であってノイローゼに陥ってしまうし、10を1と過小に評価すれば、それは慢心であって妄想に陥ってしまう。 事の是非を過不足なく知ることこそが万物の霊長と尊称される人間に与えられた天の賜であろう。 だが現代に至ってその賜が賜でなくなってきていることが気がかりである。 信長が本能寺の変で光秀の謀叛を知ったときに言ったとされる 「是非もない」 とは、事の是非を的確に知ったがゆえの信長の言葉であって、知らなかったわけではない。 その点、昨今の政治家は 「是々非々で事にあたる」 とは言うものの、あまりに事の是非を知らなさすぎるように観えるのはいかがしたのであろうか?
宇宙の心は、今
 人智は 「天の采配」 を上回れるのか? 天の采配とは、換言すれば 「神の拳」 であり、「天命」 であり、「天理」 であり ・・ その他、人智では計り知れない働きの諸々である。 私はそれらを統合して 「宇宙の心」 と呼んでいる。 この稿はその 「宇宙の心」 を探し求める旅のスケッチである。 旅の気分は 「いつかどこかで」 であり、「風に吹かれて」 であるが ・・ いまだ、その姿をみせてはくれない。 科学は今、人智を上回るものとして 「人工知能」 の研究に邁進している。 はたしてその働きは天の采配を超えるものなのか? あるいはそれは矮小なる人智に根ざした大いなる錯覚なのか? 宇宙の心はそしらぬ顔をして何もこたえてはくれない。
情報の価値
 ネット上には日々さまざまな情報が飛び交っている。 情報化時代はその情報に価値があるとした基本ベースの上に成立している。 だがそれらの情報には価値があるのか? 飛び交う情報の大半は 「何らかの広告と宣伝」 である。 そうではないようにみえる情報も読み進めていくうちに 「何らかの広告と宣伝」 に行き着いてしまう。 ではこれらの広告宣伝に価値があるのか? 広告宣伝する主催者はともかく、朝起きてから夜寝るまで、手を変え品を変えて、これらの広告宣伝を聞かされ続ける視聴者にはたまったものではない。 これでは情報化時代はあたかも広告宣伝を基本ベースとして成立しているかのようである。 情報の価値とはいったい何なのか? もし情報に価値などなかったとしたら情報化時代とはいったい如何なる時代なのか?
あるものをないとは言えない
 「あるものをないとは言えない」、文科省の元事務次官の言葉である。 その通りである。 だが 「その通りのこと」 を現代の大人たちは言えない。 そんな大人たちを子供達はどのように思っているのか?
あるものをないと言い張る、当の大人たちは、その子供達に何を教えようとしているのか? これからは 「あるものをないといいなさい」 とでも教訓しようとしているのか? 自らの未来を描くこともできず、かといって子供達の未来をも指し示すこともできず、現代の大人たちは、いったい今、何をしようとしているのか? しばらく前のことではあるが、中学校の男子生徒2人が逃げた 「ひったくり犯」 を自転車で追跡して捕らえるという大手柄を立てた。 捕らえてわかったことであるが、そのひったくり犯は、あろうことか 「警察官」 であった。 お手柄を立てた2人の中学生に向かって報道陣が発した 「どう思いましたか?」 の問いに答えて言った 「世も末だと思いました」 のセリフには、ほとほと涙も枯れ果てて、かける言葉もない。
絶対的真理と相対的真理
 宇宙には 「真理」 がある。 だが社会にはない。 社会にあるのは 「利害」 である。 もっとも社会では 「真理」 とは言わずに、等価的意味あいで 「正義」 という言葉が使われる。 常日頃、我々は社会には正義があると思っている。 だがその正義は立場によって異なる。 日本が考える正義とは中国では正義ではなく、中国が考える正義とは日本では正義ではない。 ともに 「正義が一致」 するのは 「利害が一致」 した場合のみである。 つまり、正義は立場によって異なるし、仮に立場が同じであっても時代によって異なる。 正義は立場によって時代によって変転するのである。 ゆえに、正義を貫こうとするならば、まずは利害を一致させることが得策である。 正義は多く哲学的であり、利害は多く経済的である。 相異なる基盤に立つものを同列に考えることにはもともと無理がある。 私は立場によっても時代によっても変わらない真理を 「絶対的真理」 と呼び、立場によって時代によって変わる真理を 「相対的真理」 と呼んでいる。 日本政治における昨今の政治的混乱(テロ等準備罪法案、森友学園問題、加計学園問題 ・・ 等々)もまた絶対的真理と相対的真理を 「ごちゃまぜ」 にしているところに端を発している。 私とすれば、立場によっても時代によっても変わらない 「絶対的真理」 に与したいのがやまやまなのであるが、浮き世の世間に支持された 「相対的真理」 はそう容易くそれをゆるしてはくれないのである。
策は前進よりも後退にあり
 前進と後退。 いずれが難しいか? さまざまな得失を検討すれば50対50ということになろうが、後退の難しさを知る人はそう多くはない。 事を戦の進退で考えれば、軍を進めることは誰にでもできるが、退却させることはよほどの強者でなければできない。 まして本軍を無事に退却させる任務を負った 「殿(しんがり)軍」 ともなれば、その窮状は筆舌に尽くしがたく死を覚悟しなければならない。 事を事業の進退で考えれば、事業を進めることは誰にでもできるが、撤退することはよほどの智者でなければできない。 その困難さは 「シャープ」 や 「東芝」 の窮状を鑑みれば明らかであろう。 それは国家運営の進退においても変わることはない。 「成長!成長!進め!進め!」 と旗を振ることはいかなる指導者にでもできるが、「縮小!縮小!後退!後退!」 と撤収を喚起できる指導者ともなればよほどの胆力を備えた者でなければできない。 しかしてその数は希少である。 この先どこかで、世界が前進から後退に転じたとき、最も必要とされる人材とは、あるいは、難なく手じまいできるような撤退能力に優れた者なのかもしれない。 だがその過酷さは戦国の世の 「殿軍」 のごとき惨状を覚悟しなければならない。
真理は自由平等の源泉
 真理は自由平等の源泉である。 自由を求めるならば真理を求め、平等を望むならば真理を望まなくてはならない。 真理とは 「宇宙の天秤」 であって、裁判所が裁定するような 「人倫の天秤」 とは本質的に異なる。 正道と邪道。 邪道はどこまで行っても邪道である。 仮に正道が邪道に覆ったとしても、やがては正道に復帰する。 それが 「道」 であるからである。 昨今の社会世相は、真を偽に置きかえ、偽を真に置きかえ、いっこうに足下が定まらない。 人はいつから真理をかくのごとく 「ご都合主義の道具」 として使い出したのか? 真理が道具となってしまっては、世の混乱は収まるどころか、拡大するばかりである。 目指すべきは真であって偽ではない。
手筋は臨機応変
 あちらもこちらも煮詰まってどうにも行き場所がない。 球形の荒野はついには行く場所とてない荒野となってしまったのか? だがそれは 「現象世界」 ではという条件つきである。 対極にある 「心象世界」 はいまだ未開の荒野のように観える。 現象世界が心象世界の投影であることをもってすれば、行き詰まってしまったようにみえる現象世界とて、いまだ未開の荒野なのである。 解決の道はその手順にある。 煮詰まってしまった現象世界を拓くには、まずもって心象世界を拓かなければならない。 それを人気急上昇中の将棋に例えれば、先手が心象世界で後手が現象世界ということになる。 もっともその先手によって煮詰まった状況が拓かれ戦局が乱戦状態ともなれば、心象世界もまた現象世界の投影であることをもってすれば、あるいはその手順が交代して、先手が現象世界で後手が心象世界ということもありうる。 畢竟如何。 手筋は戦局に応じて臨機応変ということであろう。
失われゆく未来
 世界から未来が失われようとしている。 あるのは不確定性に満ちた明日である。 それを未来というのかどうかはわからない。 明日になってみなければどうなるか分からない未来では予定が立たない。 まして1年先など計画してみても意味がない。 この状況はかなり深刻である。 予定が立たない日々をどう生きるのか? 予定が立った日々を生きてきた人間には手の施しようがない。 人類はこの予定が立たない日々を生きる方法としてAI(人工知能)に頼ろうとしている。 だが全員がAIに頼ったときにいかなることが起きるのかは定かではない。 あるいは現状のカオス的混沌はさらに増幅されてついには再び意味を失ってしまうのかもしれない。 この状況に対応する方法はともかく、この状況に対応する人間の意識コントロールがまずは急務である。 人間をとりまく外界の変質に対応する前に、内なる人間の内界が崩壊してしまっては元も子もない。 とかく人間の内なる意識は外界の影響をうけやすい。 内界が鍛えられていない現代人においては外界即内界であって、外界に一喜一憂してしまう。 如何なる外界状況であっても、明鏡止水のごとく内界をコントロールできる人物は希少である。 だが今求められているものはこのような内界なのである。 身の周りの大変だ大変だは、日本全体から観ればそう大変なことではなく、世界全体から観ればとるに足りないことであり、宇宙全体から観ればどうでもいいようなことである。 忘れてはならない肝心なことは外的物質世界は内的意識世界から投影された現象世界であるということである。 外的現象世界が混沌を極めたとしても内的意識世界が明快であれば倒れることはない。
人生いろいろ
 世の求めるものが時代の流れで変わっていくことは何ら異常なことではなくごく当然なあたりまえの成り行きである。 それは 「歌は世に連れ 世は歌に連れ」 ということである。 その一方で、その求めるものがやがて再び回帰してくることもまた事実である。 「物事は永遠の時間を想定すれば原点に回帰する」 とはフランスの数物理学者アンリ・ポアンカレが証明した 「ポアンカレ循環」 の帰結である。 問題は目先のことにこだわるのか? それとも遠大な時間の中で生きるのか? である。 現象は細部で見れば激しく変化していても、全体で見れば微動だにしていない。 どちらも真理であって、選択は人それぞれの好みに帰着する。 「人生いろいろ」 ということである。
人間の目論見や恐るべし〜ゲノム革命の意味するもの
 先日、「ゲノム革命〜生命の設計図 自在に操作」 と題した新聞記事を読んだ。 記事内容のあらましは以下のようである。 生命の設計図とされるゲノム(全遺伝情報)が医療や農業を大きく変えようとしている。 遺伝子を自在に切り貼りできる 「ゲノム編集」 と呼ぶ画期的技術が登場、解析コストも劇的に下がって一気に活気づいた。 一方、安易な生命操作や差別などの課題も抱える。 顕微鏡をのぞきながら、卵子にガラス針を刺して精子を注入する。 実験の様子は不妊治療で使う体外受精と変わらない。 だが、できた受精卵には、重い心臓病を起こす遺伝子の異常が消えた。 修復を可能にしたのがゲノム編集だ。 記事はさらにこのゲノム編集を使って真鯛の身の量を6割増やすことに成功した等々と続く ・・。 ゲノム編集とは言うなれば生命体がもつ遺伝情報を人為的にコピー&ペーストして都合良く変えてしまおうという目論見である。 インターネットに掲載された文章から適当に抽出した文をコピー&ペーストしてひとつの文章を作成するのもそう褒められた話ではないが、コピー&ペーストの相手が生命体ともなれば影響は甚大である。 あるいはそのうちインターネット上に掲載されている無料の遺伝情報を使って好き勝手に生命体を編集する時代が来るとでもいうのであろうか? いやはや人間の目論見や恐るべし、今では悪魔を超えるほどである。
本質を語る言葉は短いほうが
 物事の本質を語る言葉は短いほうがよい。 長くなるに従って論旨は曖昧に複雑に不明確になっていき、ついにはカオスの闇に飲み込まれてしまう。
対立と共存
 ヘルマン・ワイルは著書 「数学と自然科学の哲学」 の中で 「自然の最も奥深い謎は死んでいるものと生きているものとの対立と共存である」 と述べている。 その真意とは 「死んで仏となる」 ということなのか? あるいは 「命あっての物種」 ということなのか? はたまた 「因果はめぐり輪廻は転生する」 ということなのか? 万有の真相は唯だ一言にして尽くす、曰く、「不可解」。
流星ワルツ〜歌声は彗星のごとく
 この曲が作られたのは1977年のことである。 「ふきのとう」 の楽曲である。 「ふきのとう」 はともに北海道出身である山木康世と細坪基佳によるフォークデュオで1970年代のフォークブームを代表するグループのひとつであった。 だが私はその 「ふきのとう」 という名前は知ってはいたがその楽曲の世界からは遠ざかっていて聴いたことがなかった。 なぜにそうであったのかは記憶にない。 しいて言えば関心がなかったというところであろう。 だが最近になって聴く機会があり 「ふきのとう」 とはこんな曲を歌っていたのかと認識を新たにした。 それとともにその曲想がいやに心にしみいるのである。 表題の 「流星ワルツ」 の他に、「春雷」、「思い出通り雨」、「風来坊」 ・・ 等々。 40年の歳月を隔てても少しも古いとは感じないほどに新鮮な情感で満たされている。 当の彼らは18年間の活動を経たあと1992年に解散、そのご2017年の現在に至るも再結成されていない。 今の彼らの歌を聴きたいところではあるがそれでいいのであろう。 彼らの歌声はそれこそ彗星のごとく時空を回遊して再び回帰してくるのであろうから。 その周期はハレー彗星のごとく75年を要するものなのか、はたまた縄文の世に回帰するほどのものなのか、誰もわからない。 それを知ってか知らずか彼らは流星ワルツの中で 「今は涙をふいて ワルツを踊りましょう 足なみそろえて 流星ワルツ」 と歌っている。
日本のかたち
 以下の数値はおおよそであって精確なものではない。 38歳以下の若者の内で70%の男性(60%の女性)がつきあっている人がおらず、仮に結婚したとしても3組に1組は離婚するという。 他方、65歳以上の高齢者の内で3人に1人は痴呆となり、1人は癌になるという。 これが現時点における 「日本のかたち」 である。 その 「かたち」 をどのように考えるのか? 社会学的に 経済学的に 歴史学的に、多面的視点で、その未来を予見することが今求められている。
もののあはれ〜蜩の声に聴く
 あれほどの暑さもどうやら峠を越し蜩(ひぐらし)の声がこの夏に別れを告げるかのように山間から響いてくる。 蝉は種類によって異なるが3年〜13年の期間を幼虫として地下の土の中で暮らし、とある夏に成虫となって地上に姿を現し、1ヶ月ほどの間に交尾して卵を産んでその命を終える。 地下の長い幼虫期をもって蝉の生涯とするのか、はたまた地上の短い成虫期をもって蝉の生涯とするのかは判断が分かれるところであろう。 それはまた刹那に咲いて瞬く間に散っていく桜に似る。 絢爛と咲く桜をもってその生涯とするのか、はたまた長い風雪に耐える桜をもって生涯とするのかもまた判断は分かれるであろう。 ロックバンド 「X JAPAN」 のYOSHIKI が作詞作曲し歌手の松田聖子に提供した 「薔薇のように咲いて 桜のように散って」 という曲がある。 そのスローバラード調のもの悲しい響きはどこか蜩が奏でる儚き音色に似て心の片隅にしみいってくる。 「もののあはれをしる」 とは かくこのようであるか。
呼び鈴を押すのが怖い現代人
 現代人は玄関の呼び鈴を押すのが 「怖い」 という。 中には玄関の前に立って携帯でその家の住人にメールして 「お伺いを立ててから」 おもむろに呼び鈴を押すのだという人もいる。 この現象は何を意味しているのか? 人間が人間に合うのが怖いとはどうしたことか? それは情報化時代が生んだ新たな局面なのか? それとも社会構造を根底から揺るがす本質的な変質なのか? 畢竟。 私には人が生身の人間から情報化された仮想の人間になろうとしているかのように観える。 人間が単なるデジタルデータになってしまってはもはや生物とはいえない。 それとも情報化社会が目指すところはあらゆる生きものを陳腐な数値データにしてコンピュータ処理を可能にするところそのものにあるというのか? だがそこまで主体性を失った人間にいったい何がのこされるというのか。
科学の終焉〜真理はお金にならない
 科学は終焉したと言われる。 確かに科学の本道とされてきた重厚長大な物理学は量子論に関わる超ひも理論に至って頭打ちとなってその先に進まない。 代わって台頭してきたのは軽薄短小な複雑系やカオス理論等に関わる情報科学や、iPS細胞やゲノム編集等に関わる生物科学等々である。 これらの状況は単なる思考過程の変質というよりは経済的理由に根ざしているように観える。 ひとことで言えば 「お金にならない科学は探求しない」 ということである。 それは理念よりは実益が優先される現代の社会世相と歩調を同じくする。 科学の探究は 「未知なるものへの挑戦」 であるからして、その中にお金になるか否かなどの処世の業が介入する余地は本来はないはずなのだが、現代の科学探究は 「すぐものになる未知なるもの」 という但し書きが付箋されている。 ものになるとは、つまりは 「お金になる」 という経済的成果のことに他ならない。 仮にこの付箋を度外視して未知なるものに挑んだとしても研究費を出す企業や団体はほとんどないであろう。 それは国の政策においてさえ50歩100歩である。 国に利益をもたらさない研究は税金の無駄使いというわけである。 つまり、科学は終焉したわけではない。 人々の求めるものが永遠の真理から目先の実益に変わっただけである。 勿論のこと、永遠の真理を夢見て日夜の研鑽を積み上げている科学者もいないわけではないが、その数は今や絶滅危惧種に指定されている 「イリオモテヤマネコ」 や 「クニマス」 に匹敵するほどに希少ではあるまいか? だがそれより問題なのは人々の憧れから永遠の真理が消失してしまうことにある。 これが未来に何を将来するかはよくよく考えてみなければならない。
情報化社会の解毒剤
 情報化社会では情報が加工され脚色され、ときとして捏造される。 それが昂じるといつしか人は1を1として認識しなくなる。 より言えば 「確信」 がもてなくなる。 1が本当に1であるかを疑いだすのである。 1は2ではないかと意識の中で考えている分には妄想ですまされるが、それが現実の行動に波及すると生活に破綻をきたす。 信号機の赤が青と疑いだしたら車は運転できない。 1は1であって考えるまでもない。 1を1として行動し、2を2として行動することは 「理の当然」 である。 陽明学の教え 「知行合一」 は知と行の一致を説く。 その意味するところの一般的な解釈は 「知って行わざるは 知らぬに同じ」 である。 そのご私は、その解釈を 「行動するように考え 考えるように行動する」 に変換した。 そして今、情報化社会に蔓延する知と行の 「不一致」 を前にして、次のように解釈を変換する必要がある。 「知の1を行の1に 行の1を知の1に 合致させる」 単純明快な解である。 だがこれこそが情報化社会の害毒を中和させる特効薬(解毒剤)として機能するはずである。
現在の喪失
 情報化社会では情報が加工され脚色されときとして捏造されることで1を1として認識しなくなる。 それはまた 「知の現在が 行の現在に 一致しなくなる」 ことにおいても同様である。 知は一瞬にして過去にも未来にも飛躍するが、行がいられるのは 「現在のみ」 である。 それは単純にして明快な理の当然である。 だが情報化時代は知を過度に刺激することで、この明快な理を曖昧にさせ、過去を現在に、未来を現在に、と錯覚させる。 これが昂じると、やがて現在は喪失してしまう。 先日、「鬱病は過去にこだわる」 ことにより発症する精神病であり、「分裂病は未来にこだわる」 ことにより発症する精神病であるという話をとある精神科医から聞いた。 「過去において」、こうしておけば、こうしなければ云々と、くよくよ悩む症状が鬱病であり、こんなことをしていると 「未来において」、こんな災いが襲ってくると戦々恐々、不安に苛まれている症状が分裂病であるというのだ。 両病状とも 「現在をそっちのけにして」 実生活から逸脱してしまうことが精神病たる所以であろう。 つまるところ、知の1を行の1に一致させる 「知行合一」 をおろそかにすると、やがては知の現在もまた行の現在を破綻させ、ついには人間そのものを破滅させてしまう。 情報化時代はさまざまな利便性を社会にもたらしたが、同等にさまざまな弊害をもたらすことも併せて考慮されなければならない。 巷間、言われるごとく 「ほころびは常にささいなところから始まる」 のである。
大きな何か
 経済が成長したからといって必ずしも人間が幸福になるわけではない。 それは便利さが向上したからといって必ずしも幸福がもたらされるものでもないことと同じである。 何かをしないことは何もしないことではなく 「大きな何かをする」 ことである。
自由競争
 自由競争の裏には 「生存競争」 という事の本質が隠されており、生存競争の裏にはまた 「弱肉強食」 という事の本質が隠されている。
思い出
 いつか僕は忘れるだろう。 「思ひ出」 という痛々しいものよりも僕は 「忘却」 といふやさしい慰めを手にとるだろう。 僕に 「この道があの道だった」 こと 「この空があの空だった」 ことほど今いやなことはない。 そしてきょう足の触れる土地はみな僕にそれを強いた。 忘れる日をばかり待っている。 (詩人、立原道造が友人に宛てた書簡の中で)
右脳派と左脳派
 あるとき右脳派の友人に 「時間は過去・現在・未来と流れていると思われているが 実は過去と未来は現在に含まれていて 状況に応じて現在に象出するのだ あの壁にもたれている人を見るがいい 彼の周りには今 過去が象出している」 と話したとたん、彼は 「わかった!」 と感嘆の声をあげた。 同じことを左脳派の友人に話したら、冷ややかに鼻で笑われた。 また右脳派の友人に 「魂には姿かたちがない だからこそ人はそれぞれ異なった姿かたちをしているのだ でなければその人の魂を それと判別することができない いうなれば顔かたちや姿かたちは 魂の衣装であり 魂のパフォーマンスなのだ ボロは着てても心は錦というたとえもある」 と言うと、彼は 「最近はキンキラの錦を着てても 心はボロボロという人しか 見ないがね」 と長嘆息を漏らした。 この会話を聴いていた左脳派の隣人は 「彼らは少し脳に障害がでている 時代はここまでおかしくなってしまったか」 と長嘆息を漏らした。

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