Linear アフォリズムで描いた知的冒険ワンダーランド
ショートエッセイセレクション / 第 4 集
Turn
知のワンダーランドをゆく
文 / 柳沢 健 / 2004.09.28 〜 2005.08.18
ひと花咲かせる
 「ひと花咲かせてやろう」 との意気込みは、その 「咲かせた花を誰に見せるのか」 という目的対象者がいなければ、誠に 「寂しいかけ声」 である。 がしかし、その花を見て、たとえ 「ひとりでも喜ぶ人がいる」 のであれば、ひと花咲かせる意義は充分にあるということができる。
遊びの本質
 人間以外の他の生物(動植物)がこの世において価値あるとする何事かを成すために生きているとは思えない。 彼らは無目的に、無価値に、生きているだけのように観える。 生きる目的や価値を考慮しない 「ライフスタイル」 とは 「遊び」 である。 人間以外の動植物は遊ぶためにこの世に訪れ、しかして充分に遊び、遊びに飽きて後、この世を去っていくのではあるまいか?
遊びの天才
 子供は 「遊びの天才」 である。 彼らは画期的で舞い上がるほど面白い遊びを尽きることなく次々と創造する。 だが最近はどこを探しても秀才然たる大人子供はそこかしこに見つけられるのに遊びの天才たる彼らの姿はどこにも見つけることができない。 かって彼らは巷に満ちあふれていた。 いったい遊びの天才たちは何処へ行ってしまったのであろう。 ダイヤモンドのごとくにキラキラ輝く目をして飛ぶように走り回っていたのだが ・・・。
想像と創造
 創造するためには想像しなければならない。 想像とは 「未来を夢見る」 ことであり、未来を夢見ることなしに創造することは不可能である。 しかるに、現代教育は現実に則って創造する方法については熱心であるが、未来に則って想像する方法については冷淡である。 未来を夢見る子供たちが存在しないような社会でいったい 「何の創造」 が可能と言うのであろうか?
蓄積された時間
 かってパリの裏街通りに住み古びた壁ばかりを描き続けた日本人画家がいた。 画家は壁には街が背負った歴史が刻まれ、太陽の光と風雪が刻んだ 「時間が蓄積されている」 と述懐した。 パリの壁にとどまらず、あらゆる物(モノ)には経過した時間が蓄積され、また蓄積された時間がその物に表象している。 一挙に還元すれば 「物とは時間」 であり、また 「時間とは物」 である。 ローマの古代コロセウム、ギリシアのパルテノン神殿、はたまた奈良法隆寺の伽藍 ・・ 等々には、その上を流れた遙かな時間が刻まれ、蓄積されている。 我々はこれらの蓄積された 「悠久なる時間」 に遭遇することで、圧倒され、感動させられる。 人間とてこれらの物と何ら変わりはなく、「通り過ぎていった時間」 が身体に蓄積される。 ただ、時間で刻まれた 「その顔」 が、パリの壁ほどに重厚で、穏和で、静謐であるかどうかは別にして ・・・。
科学的真理と社会学的真理
 必要のない道路を建設することは科学的真理からすれば間違いであるが社会学的真理からすれば間違いとは言えない。 社会学的真理は社会を構成する人間集団の 「多数決的真理」 であり、大多数の人々がその道路建設に賛成すれば、必要であるか否かは真理の構成要件には関係ない。 水が高きから低きに流れることは科学的真理である。 社会学的真理のように人間集団の多数決によって低きから高きに流れることは決してない。 つまり、科学的真理はこの世を 「神の目から眺めた真理」 であり、社会学的真理はこの世を 「人の目から眺めた真理」 である。 はたして神の目が正しいのか? それとも人の目が正しいのか?
想像の元型
 想像はまったくの無からは生まれない。 つまり、想像の原点は 「かって一度は想像したもの」 である。 心理学者、ユングが提唱した 「集団的無意識」 とは、このかって一度は想像したものという想像の原点 ・・ 言うなれば 「想像の元型」 のことではなかろうか?
自己救済の思想
 たとえ、有史以来の先哲が構築した偉大な思想であっても、自分の家の雨漏りさえ止めることができないのであれば、かかる思想は単なるお飾りの 「無用の長物」 である。 自らを救済できない思想が、いったい 「何を救済」 できるのか? この世において 「ねばならない」 ことなどひとつとしてなく、すべては自身の意思で 「いかようにもなる」 ものである。 かかる自由意思こそが、自らを救済する 「自己思想」 を創造するための大地である。
宇宙の帰納と宇宙の演繹
 この世の万物事象の真理を次々に帰納すれば、やがてはたったひとつの 「大真理」 に帰納されるであろう。 だが問題は帰納された大真理の演繹である。 宇宙を帰納した 「大真理」 はこの世の頂点に 「たったひとつ」 しか存在しないが、宇宙を演繹した 「不明」 はこの世の局所に 「無限」 に存在する。 無限の不明とは、換言すれば 「この世の不可解」 であり、宇宙の演繹とは、この無限の不可解への挑戦である。 生きるとは結局、帰納された 「たったひとつの大真理」 を宇宙局所に散在する 「無限の不明」 に対し、有効に演繹することである。 王陽明が言った 「知行合一」 とは、かかる 「花も実もある」 宇宙の帰納と宇宙の演繹のことではあるまいか?
現在の喪失
 現在に生きる者が 「過去のみ」 にこだわり、過去ばかりを考えていた場合、その者の 「現在」 は喪失する。 今の今という現在は 「明日になれば昨日という過去に転化する」 のであるから、いずれ明日になれば、再び今の今である 「現在をもまた過去として考えはじめる」 こととなり、明日の今の今もまた喪失する。 これを繰返すことで、彼の人生における 「すべての現在」 は喪失する。
創作された過去
 起きてしまった 「事々」 は過去となり 「変更不能」 である。 従って、過去を考えるとは、変更不能な起きてしまった事々を 「評価する」 ことに還元される。 つまり、あの戦争は正しかったのか間違いだったのか? あの時の私の行動は正しかったのか間違いだったのか? 等々の評価である。 だが、起きてしまった事々で構成された過去が変更不能である以上、かかる評価は 「自己を納得させる」 に都合がよい 「我田引水の評価」 とならざるをえない。 依って、過去とは我田引水によるご都合主義的な評価で 「創作されたもの」 であることを常に念頭に置かなければならないのである。
過去よさらば
 過去は常に 「浪漫的」 である。 素晴らしい事々で構成された過去を持つ者であれば、変更不能な 「確定した」 素晴らしき過去世界に生きることは、何にもまして居心地がよく、また安心感に満たされた状態であろう。 だが過去と決別しなければ現在は喪失し、さらには未来は到来しない。 過去がいかなる魅惑のまなざしで誘惑してきても、決して乗ってはならないのである。 今は亡き寺山修司は 「さよならだけが人生さ ・・」 とその詩中に記した。 過去と決別できる者のみが現在を生きることができ、また現在を生きる者のみが過去と決別することができる。 起きてしまった変更不能な事々に執着し、なおかつ我田引水的な過去の創作などに貴重な人生時間の多くを費やすなどは 「馬鹿げた浪費」 以外の何ものでもない。 人は全身全霊をこめて断言しなければならない。 過去よさらば ・・ と。
事件は現場で起きている
 現在は過去のように事象が固体化し 「事件」 となった時空間ではなく、事象は流動的で、事件は今まさに 「製作されつつある」 時空間である。 「過去は一切が変更不能」 であり、「現在は一切が変更可能」 である。 現在では、私はそれを行なうこともでき、行なわないこともできる。 また私はそこへ行くこともでき、行かないこともできる。 それらは私の自由意思でいかようにも変更可能である。 つまり、私はその 「事件の製作に参加」 できる。 過去に生きる者とは、製作が終了した 「事件(作品)の鑑賞者」 であり、現在に生きる者とは、製作が進行中の 「事件(作品)の製作者」 である。 製作者とは意志し、行動する者であり、鑑賞者とは観察し、分析する者である。 過去と決別し、現在に生きるとは、作品の製作者として事件に参加することであり、事件とは、映画 「踊る大捜査線」 の名セリフではないが、常に現在という流動的な 「現場で起きている」 のである。 従って、現在に生きる者は、かかる映画の主人公である 「はみだし刑事」 のごとく、事件の現場から逃避してはならず、また意志すること、行動することを、決して先延ばしにしてはならないのである。
事件の構造
 未来とは 「事件の計画」 であり、現在とは 「事件の実行」 であり、過去とは 「事件の結果」 である。 未来・現在・過去を時系列で配列した 「時間経過」 としてとらえることは一般的である。 しかし、肝心なその時間を 「目撃した人」 は未だいない。 時間とは事件経過の 「関数」として、人間意識が日常生活の機能性として創作した抽象的便宜性」 なのではあるまいか? 仮に、抽象的便宜性である事件経過の関数としての時間を採用せずに、未来を事件の計画、現在を事件の実行、過去を事件の結果という 「因果律」 のみで考えれば、この世とは 「さまざまな事件の生々流転」 と還元される。 事件が用意されるをもって未来、事件が発生するをもって現在、事件が消滅するをもって過去という構造である。
事件の動機
 事件が用意されるをもって未来ということの 「事件を用意する」 とは 「事件を想像する」 ことに換言される。 「思考は実現する」 とは成功法則を研究したナポレオン・ヒルの言葉である。 彼は物事が思考という意識作用によって現実に発生することを明らかにした。 正確には思考は実現するではなく 「想像は実現する」 であろう。 さらに詳しく言えば 「強く、明確な想像は実現する」 となる。 従って、さまざまな 「物質的事件の生々流転」 であるこの世はまた、さまざまな 「意識的想像の生々流転」 でもある。 つまり、現実空間に発生する 「事件の動機」 とは 「事件を想像する」 ことであり、簡潔に言えば、この世の何事も 「まず想像するところから始まる」 ということである。
2 つの現在
 現在は過去の結果なのか? それとも、未来の結果なのか? 前者は原因と結果で構築される 「因果律」 を基本とした現在であり、後者は意識的観測で構築される 「超因果律」 を基本とした量子論的な現在である。 因果律的現在とは現在空間のさまざまな事件が、「過去に行われた」 さまざまな事々の結果として発生するという考えである。 他方、超因果律的現在とは現実空間のさまざまな事件が、「未来に行う」 意識的観測により発生するという考えである。 それはシュレジンガーの波動理論から導かれる現在であり、波動関数を収縮させる 「観測問題」 として語られる現在である。 分かり易く言えば、現在とは、あらゆる可能性の中から、我々の意識が抽出した 「たったひとつの可能性である」 とする考えである。 あるいは、現在とは 「過去の結果としての現在」 と 「未来の結果としての現在」 という 「2つの異質な現在」 がハイブリット状に 「混合」 したものかもしれない。
拘束された現在
 過去を構成支配するものは「記憶意識」である。従って、過去の記憶を変更すれば、過去の結果としての現在も、変更可能ではないかというと・・そうはうまくいかない。なぜならば、私が過去の記憶を変更しても、私以外の他の人々がその過去を記憶しているからである。私が過去に「為したこと」は、すでに私以外の他の人々に「影響を与えてしまっている」のであり、私が為したことを「忘れたから」とて、他の人々に与えた「影響が消滅してしまう」わけではない。つまり、その過去の影響を原因とした、結果としての事件が、現在空間に発生するのである。過去の結果としての現在とは、私自身がどうあがいてみても変更不能な「拘束された現在」である。分かり易く言えば、私が過去に買った株が下がったからとて、買ったという私の記憶意識を変更しても、結果としての損失が消滅するわけではないということである。
解放された現在
 未来を構成支配するものは「想像意識」である。私が未来に想像することは、未だ私以外の他の人々に、何らの影響も与えてはいない。私の想像意識はいかようにも変更可能であり、それは私自身のものであり、私の想像意識以外に、現在空間に発生する事件に影響を及ぼすものは存在しない。未来の結果としての現在とは、私自身の自由意思でいかようにも変更可能な「解放された現在」である。分かり易く言えば、私が未来に株を買うかどうかという、私自身の想像意識を変更することで、結果としての損益はいかようにも変更可能であるということである。
共有する現在と専有する現在
 過去の結果としての因果律的現在は、この世の人々と「共有する現在」であり、未来の結果としての超因果律的現在(量子論的現在)は、私ひとりが「専有する現在」である。つまり、私が「こうした」ことは変更できないが、「こうする」ことはいかようにも変更可能である。
救済される現在
 現在を変更可能にする「専有する現在」をもてることは人間にとって「最高の幸せ」であろう。専有する現在を構築する「想像意識」には、限界なく、身分の別なく、貴賤の別なく、絶対的公平が保証されている。かかる保証は人間にとっての「最大の資産」であるとともに、また「最大の救い」でもある。個人の想像意識を拘束できる者はこの世には存在しない。それはこの世のいかなる権力者をもってしても不可能である。その実例は、多くの人々が「共有した」第2次世界大戦下の悲惨なアウシュビッツの「拘束された現在」さえも、個別のひとりが「専有した」自由に飛翔する「解放された現在」によって「救済された」とする被収容者証言の述懐の内に観ることができる。
有限価値から無限価値への転換
 20世紀工業社会は「物的資産」を基盤とした時代であったが、21世紀情報社会は「知的資産」を基盤とする時代である。物的資産は「有形である」をもって、大きくてもせいぜい「地球規模」であるが、知的資産は「無形である」をもって、大きさは際限なき「無限規模」をもつ。従って、有形物的資産を基準とした工業社会の「有限的価値生産システム」は、今後、無形知的資産を基準とする「無限的価値生産システム」に転換されることになろう。つまり、価値観の基準は「有限」から「無限」に転換される。分かり易く言えば、今まで価値とされてきた「モノ(有形)」が価値でなくなり、価値とされてこなかった「もの(無形)」が価値とされる時代になるということである。
量より質
 社会がこれほどまでに複雑に、また豊饒になってくると、多くの知識を得ることよりも役に立つ知識を得ることが、多くの情報を得ることよりも役に立つ情報を得ることが、肝要である。また、多くの事を為すよりも必要な事を為すことが、多くのモノを作ることよりも必要なものを作ることが、肝要である。つまり、量より質ということである。
創造への道
 閉塞された現実(現在)からの脱出は「新たな創造」が最短の道である。しかし、最短な道ではあるが、その道はまた「最難の道」でもある。創造への道に「王道」はなく、1個のちっぽけな人間と、広大無辺な宇宙自然界との、掛け値なしの「1対1の対峙」以外に、その道を歩みゆく手だてがない。未開の荒野に開削される創造の道では、拓かれた平野である日常社会で大手を振って横行する「思惑的な情実」や「恣意的な依怙贔屓」等は一切通用しない。真理へ到達する道に是非はないのである。
遅れた者が勝ちになる
 小説「月山」で芥川賞を受賞した森敦(1912〜1989)は太宰治(1909〜1948)と同時代人であり、若かりし日には、ともに将来を嘱望された逸材であった。しかし、その後の経過はまったく「対称的」である。太宰が華やかに文壇にデビューしたのに対し、一方の森はプッツリと筆を断ち、人知れず野に伏し、日本各地を漂流する。40数年の歳月を経て、太宰が生涯を通してあれほどに切望してもついには願いがかなわなかった「芥川賞」を、森はその人生の晩年に書いた、たった「一冊」の小説「月山」で受賞した。森は「ひとつの創造」のために人生のすべてを賭け、太宰は「多くの創造」のために人生のすべてを消耗してしまった。文学的才能は多分に太宰にあったのであろうが、人生の本質を見抜く慧眼は多分に森にあったということができる。直木賞作家、井上ひさし(1934〜)に「遅れた者が勝ちになる」という著作がある。まさに言い得て妙である。
あわてることの効果
 突如として発生した出来事に対し「あわてる」ことが、何らかの効果があるのか? あわてて為した何事かは、それを為さなかった場合とくらべて、かくそのような良い結果をもたらすよりは、逆に悪い結果をもたらすことのほうが多い。あわてて何事かを為すとは、畢竟、自分の気持ちを安堵させるためのものでしかない。大丈夫たる者、自己を安堵させるなどという「柔弱矮小な計らい事」など捨て去り、かかる発生出来事に正面から対峙し、その曇りのない観察眼をもって、事態解決の策を熟考することが上策である。必要とされることは、あわてることではなく「考えること」である。
ゼロサム理論とエネルギ保存則
 この世は「ゼロサム(合算すれば 0 となる)世界」であると言われる。儲ける人がいて、損する人がいる。損する人がいて、儲ける人がいる。運の良い人がいて、運の悪い人がいる。運の悪い人がいて、運の良い人がいる。この世の万物事象のエネルギは、ひとときも留まることなく姿形を変えて生々流転するが、その変転エネルギを合算すれば常に「一定値」に保たれる。これは「エネルギ保存則」である。結局、「 0 」もまた「一定値」に異ならず、ゼロサム理論とはエネルギ保存則の「別名」ということになる。
波動性と対称性と公平性
 この世の内蔵秩序である「宇宙の波動性」を断面すると「宇宙の対称性」が顕れる。「楽しい時は長くは続かない」という波動性を断面すると「苦しい時もまた長くは続かない」という対称性が顕れる。「何事かを為すリスクがある」という波動性を断面すると「何事かを為さないリスクもまたある」という対称性が顕れる。かくこのように、この世を生きるにおいて「我田引水の依怙贔屓(えこひいき)」は禁物であり、すべて公平に扱わなくてはならない。つまり、この世の「公平性」もまた波動性の「別断面」ということになる。
一期一会
 この世のことには「きり」がない。きりがないものに対して「きりを求める」ことは大いなる「矛盾」であるとともに、大いなる「徒労」である。きりがないものに対しては「一期一会」でつきあえばよい。それが「永遠」というものである。
いつ始めても、いつ終えても
 フランスで最も偉大な科学者と言われる数物理学者、ポアンカレ(1854年〜1912年)が証明した「ポアンカレ循環」によると、無限の時間を想定すれば、あらゆるものは、いずれは出発点に戻り、同じ繰返しをすることになる。物事には始まりも終わりもなく、出発点は終着点であり、終着点はまた出発点である。従って、何事かを始めるに「早すぎることも」、また「遅すぎることも」なく、「いつ始めても」、また「いつ終えても」よいのである。
そう変るところがない
 山河(自然)は、人の一生と比較すれば遙かに長寿命である。私の両親の、そのまた両親の、さらにそのまた両親の頃と「そう変るところ」がない。「変るのは」この山河の中で生きる「人のこころ」であって、たかだか5年、いや10年、いやいや50年程度の歳月をもって、その山河の可否を問う。何とも「せっかち」なことではないか。
この世は遊園地
 この世は広大な「遊園地」のようである。遊園地で「遊ぶ子供」が「我々」というわけであるのだが、かって私は一度として、現実の遊園地で、大きな家屋敷や金銀財宝を「背負って遊んでいる子供」になど出逢ったことがない。
心の旅
 かって、「自分探しの旅」という言葉が流行した時代があった。人は生きるうちに、誰もが我知らずして、何処かで道を誤り、「迷子」になってしまう。迷子と言っても、それは自身の外に広がる「物質世界の迷子」ではなく、身の内に広がる「意識世界の迷子」のことである。従って、身の外に広がる物質世界の何処を探しても、戻り行く道を見出すことはできない。自分探しの旅とは、見失ってしまった「自分の心」を探し求めて身の内に広がる意識世界を訪ねゆく「心の旅」である。
必要とされるもの
 今の社会で必要とされているものは、「生きるに必要なモノ」ではなく、「生きるに必要な方法」である。「年収300万円で暮らす方法」という題名の本が、ベストセラーになった理由もここにある。現代人は好きこのんで会社に勤めているのではなく、それが「生きるに必要な方法」だからである。従って多くの現代人は「生きるに必要な方法」として、医師であり、弁護士であり、政治家であり、先生であり・・○○であるに過ぎない。そう考えると現代社会世相の本質が「何たるものか」透けてみえてくる。
責任転嫁
 人が楽しくないのは、取巻く「この世の状況が楽しくないからである」とする考えは間違いである。そうでなければ、悲惨な時代に生まれた者の人生は、もはやそれだけをもって「改善不能」である。この世は、楽しいとか楽しくないとかの人間感情に基づいて存在しているわけではなく、「ただ」存在しているのである。人が楽しくないのは、単に「その人が抱く感情が楽しくない」からであって、その原因を「この世に責任転嫁する」ことはできない。
創作された風景
 「意味なくただ存在している」この世が、かくこのように「とある風景」として眺められるのはどうしてなのか? 意味なくただ存在しているこの世に「意味を与えるもの」は、我々が抱く「意識」と「感情」である。意識はこの世に「物理的意味(時間と空間の認識)」を与え、感情は「情緒的意味(喜怒哀楽の感情)」を与える。かくこのように眺められるこの世の「とある風景」とは、かくこのように我々自らがこの世に与えた「物理的意味」と「情緒的意味」によって構築された風景である。言うなれば、意識と感情によって「創作された風景」である。
何のためか 誰のためか
 およそ、生きるための「何か」などを探そうとしてみても、そう易々と見つかるものではなく、ともすると、その探索のために、一生を費やしてしまうことになる。だとすれば、生きるための「誰か」を探すことのほうが、より現実的ではあるまいか?
物で栄えて心で滅ぶ
 世相ここに至りて、「物で栄えて心で滅ぶ」という警句が、いよいよ現実味をおびてきた。現代物質文明の豊饒がもたらした欲望の渦潮は、いとたやすく人をして絶望の淵に誘い、奈落の底に沈めようと暗黒の口をあけている。怖ろしきは欲望の横溢であり、際限のない欲望の追求は、人をして鬼畜に変えてしまう。欲望にはもともと限りがない。いくら求めても満足することなく、しかして完結することもない。他方、人の命には限りがある。いくら求めても限りがくれば満たされようが満たされまいが完結してしまう。結局。人生の成否は「限りなき欲望」と「限りある命」という「二律背反」をいかに調整するかにかかっている。かかる調整に現代人が失敗するとなれば、まさに「物で栄えて心で滅ぶ」ことになる。ゆめゆめ失敗は許されないのである。
失敗の確定
 この世に「限りがある」とすれば、失敗は失敗として確定する。しかしながら、この世に「限りがない」とすれば、かかる失敗はひとつの過程であって、失敗であるか否かは確定しない。先日、西武グループ総帥の堤さんが逮捕されたが、しばらく前までは世界の資産家として世の成功を極めていた人である。「勝敗は下駄を履くまでわからない」と言われるが、またかくのごとしか ・・・。
創るべきものは
 物をいくら創ってみても、それで人が幸福になるかどうかはわからない。その状況は現代物質文明社会の様相を、つぶさに眺めれば、かく了解されるであろう。今、創らねばならないものは、物ではなく、「人格」である。
時間の形
 身のまわりに存在するさまざまな物(物体)は、遙かな時間を経過した「結果」として、この世にかく「存在」している。時間はその「物の周りを経過」してきたのであるから、物にはかかる時間が「浸透」し、「蓄積」されていることになる。つまり、路傍の石ころには、その石ころがたどった数十億年という「時間が蓄積」されている。思考を還元すれば、「物とは時間が形状化したモノ」と考えることができる。
現在の構成
 今の今という「現在世界(刹那宇宙)」は、「過去世界と未来世界(連続宇宙)」という「永遠遙かな時空間」の「荷担」によって存在している。つまり、今の今という「現在には過去と未来が含まれている」。
変身
 弁慶とは情報である。武蔵坊弁慶という人物(物体)が岩石のように、今の今という世に、現存しているわけではない。それは、かって源平の世において、源義経の家来として、ひとときも離れずに臣従し、最期は、はりねずみのごとくに一身に矢を浴びて、主義経に殉じた、無骨な山法師が「いた」という「情報」である。この世では・・人は死して身体を消滅させることで、ひとつの情報に「変身」するのである。
過ぎたるは
 「過ぎたるは及ばざるがごとし」とは、まさに正鵠を射た箴言である。過ぎたる安全の追求は危険に陥り、過ぎたる資産の追求は破産に陥り、過ぎたる欲望の追求は破滅に陥る。しかして、過ぎたるか、足らざるかは、各人各様の「見切り」にかかわる。巷間言われる「見切り千両」とは、かかる見切りの「価値の大きさ」を教えている。
見切り千両
 ときとして人は「事の見切りを誤り」窮地に陥る。何で「こんなことで・・云々」というときの「こんなこと」とは、かかる見切りを誤った「何ごとか」を表現している。何で「こんなわずかなお金のことで・・云々」、何で「こんな馬鹿げたことで・・云々」等々。事の見切りを誤るとは、事の重要度のウェイト「1」をウェイト「5」と「あまりに重く」、あるいはウェイト「5」をウェイト「1」と「あまりに軽く」位置づけることである。つまり、「見切り千両」とは、事の状況を冷静に判断し、かかる重要度の軽重を誤ることなく公平に裁定することが、この世を生きるにおいて「千金に価する」と断言しているのである。
言葉の力
 使用する言葉に力がなければ、その言葉で構築された文(文章)、さらにはその文で構築された論(論理)等々は、身を飾る「装飾品」と何らかわるところがない。装飾品をいかに付け替えてみても、「中身」がかわるわけではなく、そこから生まれるものは何もない。言葉を使用して何かを創ろうとする者が、肉体を使用して何かを創ろうとする者と同等のポテンシャルであるためには、使用する言葉に力がなければならない。それは肉体に力がなければ、何も動かすことができず、従って何も創れないことと同じである。言葉が「この世の装飾品」となるか、はたまた「この世の駆動力」となるかは、秘められた力の可否によるのである。
この世の選択
 この世を生きるとは「何が真理」であって、「何が価値」であって、「何が大切」であるかを見極めることであるが、結局は「何を選択」するのかに帰着する。
人生の羅針盤
 人がこの世で迷子にならずに生きるためには、航海と同じに「羅針盤」が必要不可欠である。人生の羅針盤とは、この世に対する「基本姿勢」、あるいは「行動基準」等々ということになろうが、現代ほど、これらの基本軸があやふやな時代は、かってない。羅針盤なき航海が無謀なように、羅針盤なき人生もまた無謀であり、迷宮のような現代社会の中で、行きつ戻りつ、かいもく何処に向かっているやらわからない。
我思う ゆえに我あり
 「我思う ゆえに我あり」とはフランスの哲学者で数学者で自然科学者であったデカルト(1596-1650)の言葉である。結局。突き詰めれば、この世とはこの「我思う」から始まる。問題は「いかに思う」かである。この世を楽園に思えばそこは「楽園」となり、地獄と思えばそこは「地獄」ともなる。
果報は寝て待て
 繁栄はやがては衰退に向かい、その衰退もまたやがては繁栄に向かう。上がった株はやがては下がり、その下がった株もまたやがては上がる。だが下がった株を持ち続けることが難しいように、衰退した者が繁栄の到来を待ち続けることもまた難しい。「果報は寝て待て」の垂訓は、この待ちがたい状態を克服するには「寝るように待て」と言っているのではあるまいか? つまり、熟睡してしまえば10年も「一睡の夢」のごとく経過する。なまじ起きているから些細な変化に一喜一憂して待ち続けることができないのである。
安全神話の崩壊
 もっと速く、もっと安くを要求しておいて、事故の発生のみを非難することは、論理が矛盾する。もっと速く、もっと安くを要求しておいて、工事の欠陥のみを非難することは、論理が矛盾する。交通の安全を求めるのであれば、もっと遅く、もっと高くを覚悟しなければならない。完全な住宅を求めるのであれば、もっと遅く、もっと高くを覚悟しなければならない。もっと速くても、もっと安くても、しっかりとした安全と完全を保証し、提供しなければならないのが社会倫理の規範ではあろうが、もっと速く、もっと安くを過度に要求した上で、さらなる安全と完全を期待する我々の姿勢にも、責任が無いわけではない。かかる論理の矛盾をさておいて、声高に「安全を」、「完全を」と叫ぶ構図こそが「安全神話崩壊」の根本的原因ではなかろうか?

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