Linear アフォリズムで描いた知的冒険ワンダーランド
ショートエッセイセレクション / 第 3 集
Turn
知のワンダーランドをゆく
文 / 柳沢 健 / 2004.04.05 〜 2004.09.21
人間の崩壊
 極度の苦痛は人間を崩壊させる。 だが、極度の快楽もまた人間を崩壊させる。
始まりと終わり
 宇宙には始まりも終わりもない。 あるのは 「ひとつの経過」 である。
生きていることの価値
 人間の欲求の第1位が 「生への欲求」 であることは異論なきところであろう。 上は大統領から下はホームレスまで、この欲求が第1位であることにはかわりはない。 確かに 「生きている」 ことが生命体としての唯一絶対の根拠ではあろうが、「ただ生きている」 ことに、いったい 「どの程度の価値」 があるのであろうか? 「生きている」 という生命体としての唯一絶対の根拠も若干の長短はあろうがやがては 「死ぬこと」 によって失われるのもまた生命体としての唯一絶対の根拠である。 「ただ生きている」 ことが生命体の唯一絶対の価値であるとするならば、その唯一絶対の価値がやがては 「ただ死ぬこと」 によって失われることを人はいかに納得すべきなのか? 問題は 「生きている」 ことではなく、「いかに生きているか」 なのではあるまいか?
大いなる宿命
 人は誰一人例外なくいずれは自己の死と真正面から対峙しなければならない。 そのこと自体が今現に生きている人に与えられた越えなければならない最後の 「大いなる宿命」 である。
思想のない繁栄
 日本は思想のない繁栄を遂げた。 だがそのこと自体が 「日本の思想」 なのではあるまいか?
カフカより
 ・・ なにもかも根底から自分で作らないではいられない舞台監督 ・・ 俳優まで彼は自分で生みださなければ気がすまない ・・ 一人の訪問者が面会を断られる ・・ 監督は演劇のたいせつな用件で手がはなせないというのだ ・・ なんだろう、それは? ・・ 監督は未来の一俳優のおむつを替えているのだ ・・。
人生と時空間
 人生は旅である。 だが私は 「空間を旅している」 のだろうか? それとも 「時間を旅している」 のだろうか? 空間だとすれば、私の人生の旅とは、私が歩き回った地球上の 「行動面積」 であるし、時間だとすれば、私が費やした五十数年間の 「経過歳月」 である。 人生の旅が歩き回った面積と費やした歳月から構成されているとするならば、人生とは 「時空間」 そのものである。
関係空間
 貴方がいて私がいる。 ゆえにその間に空間が生まれる。 貴方だけでは、そして私だけでは、空間は生まれない。
国は愚によって滅ぶ
 国は 「悪」 によっては滅びず 「愚」 によって滅ぶという。 日本国最大の心配事である。
正しい努力
 自分の掲げた目的に向かって懸命に努力したからといって結果が自分の期待通りになるとは限らない。 期待通りの結果が得られるのは、唯一 「この世(宇宙)の摂理に合致した場合」 に限られる。
天上天下唯我独尊
 釈迦が言った 「天上天下唯我独尊」 とは、結局 「自分の周りの宇宙がどうなっているのか」 をあれこれ 「詮索」 することではなく、「周りの宇宙を自分がどうしたいのか」 をしっかりと 「決定」 することなのではあるまいか?
短期利益と長期利益
 短期利益の追求は往々にして長期利益を損ない、長期利益の追求は往々にして短期利益を損なう。 前者は時間軸に垂直な宇宙(刹那宇宙)に発生する超因果律的な 「デジタル利益」 であり、後者は時間軸に添った宇宙(連続宇宙)に発生する因果律的な 「アナログ利益」 である。 デジタル利益の追求はユング流の 「共時性的な目的意識」 に左右され、アナログ利益の追求はフロイト流の 「因果律的な潜在意識」 に左右される。 より簡潔に言えば、短期利益の追求は 「直観力に優れた天才肌の人」 に有効であり、長期利益の追求は 「忍耐力に優れた秀才肌の人」 に有効である。 どちらの利益が大きいかは議論の分かれるところである。
社会学的エネルギ保存則
 多くを 「得る人」 はまた多くを 「与える人」 であり、多くを 「失う人」 はまた多くを 「奪う人」 である。 なぜなら多くを奪われた人は次の機会でその多くを取り戻そうとするし、多くを与えられた人は次の機会でその多くを返そうとする。 社会学的なエネルギ保存の法則である。 ゆえに商いは値切れば値切るほどに後で取り返される額もまた多くなる。
宇宙のありか
 宇宙は自己の外側にあるのではなく自己の内側にある。 ゆえに我々が眺める宇宙風景とは自己の内側にある宇宙風景である。 現象学を創始した哲学者フッサールはその宇宙風景を 「意識の地平」 と表現した。 以上からすれば、100人の人間がいれば、その100人の内側に100通りの相対的個別宇宙が存在し、それぞれがその相対的個別宇宙に存在していることになる。 相対的個別宇宙に存在するそれぞれが、このように共通的な現実宇宙での事実経験を共有できるのはなぜか? ライプニッツはこのような相対的個別宇宙の対応関係を 「予定調和」 という言葉で表現した。 では予定調和とは何か? かくこのように私の眺める世界と貴方が眺める世界が同じであることを証明することは難しい。
意識戦争
 人間が持ち得る意識に限界はあるのか? 限界に挑んだ哲学者、ニーチェは精神崩壊に至り、文学者、三島由紀夫は割腹自殺を遂げた。 意識世界も物質世界と同様にさまざまな 「個別意識の集合」 によって構成されていることは異論なきところであろう。 したがって、あるひとつの個別意識が拡大膨張すれば他の個別意識を圧迫するのは必然である。 かくして意識世界の領域闘争である 「意識戦争」 が始まる。 意識世界が形無き世界であるから領域限界が無いとするのは誤りである。 ある個別意識が他の個別意識の意識領域を侵害すれば他の個別意識はその侵害意識を駆逐するために猛然とその侵害意識に襲いかかるであろう。 物質世界における領域闘争である 「物質戦争」 は物質文明発展による物質的飽和によってしだいに終焉にむかい、今後は意識世界における領域闘争である 「意識戦争」 が主流となっていくであろう。 物質戦争も悲惨であったが意識戦争もまた応分に悲惨であろう。
意識戦争の武器
 意識戦争の武器は言葉である。 互いの意識領域の国境線上で繰り広げられる迫撃戦の様相は物質戦争と何ら変わりない。 違いは、弾丸や砲弾が飛び交う代わりに、あらゆる罵詈雑言が飛び交うことだけである。 重要なのは相手の意識中枢部に打撃を加え戦闘不能に陥らせることである。 物質戦争で例えれば、全戦闘の指揮を掌握している大本営にミサイルを撃ち込むような具合である。 先頃のイラク戦争で使用された放射能で汚染された 「汚い爆弾」 に匹敵するような 「汚い爆言」 も使用されることであろう。 まったくもっていやはやである。
偉大な意識
 絶対としてゆるぎない偉大な意識の所有はいかに可能か? およそこの世において、「ありのままを肯定する意識」 ほど偉大な意識はない。 自己の意識領域の中で発生するあらゆる意識を掛け値なしに取繕うことなくそのままに肯定し受容する意識とは、まぎれもなく森羅万象や万物事象の本質と同じであり、宇宙そのものに同化した意識である。 それは古代中国の思想家、老子が言う、作為を捨て去ったところに宇宙真理が作用するとする 「無為自然」 であり、真言密教の空海が言う、人は生まれながらにして仏であるとする 「即身成仏」 であり、浄土宗を創始した法然が言う、南無阿弥陀仏と念仏するだけで弥陀の法力に救われるとする 「他力本願」 であり、戦国の風雲児、信長が本能寺でこの世に言い遺した 「是非もない」 等々の真意と同じである。
知の鑑識眼
 本物の 「知」 とは実在とつながっている。 偽物の「知」とは実在とつながっていない。 中国の思想家、王陽明が唱えた 「知行合一」 とは、「知」 がいかにしてこの 「実」 とつながるのかのメカニズムの解明である。 現代情報化社会では、日々頭の上を多種多様、膨大な 「知」 が行き交っている。 だがその中に実在とつながっている 「本物の知」 がいったいどのくらいあるのであろうか? 実在とつながらない 「偽物の知」 が大手を振って横行する社会では 「実存性」 が喪失するのは必然である。 実在から遊離した知がまかり通る世界とは虚の宇宙であり、言うなれば 「虚構の社会」 である。 知の真贋を見きわめる 「知の鑑識眼」 が今、強く求められる。
量より質
 人生の価値は 「量」 ではなく 「質」 である。 したがって人生の豊かさは蓄積した 「お金の量」 ではなく、わずかなお金の量であってもそれを有効に使うという 「お金の質」 から生まれる。 同様に人生の楽しさは、ばたばたと走り回った 「移動の量」 ではなく、道草をしながらゆっくりと歩くという 「移動の質」 から生まれる。
事の成否
 この世の成否は99%の自力による努力と1%の他力による幸運によって達成される。 だが事の成否を 「決定する」 のは99%は他力による幸運であって、自力による努力はたかだか1%程度に過ぎない。
0 からの出発
 21世紀を迎え人類は今、新たな世界を築こうとしている。 必要なことは 「1から」 やり直すことではなく、「0 から」 出発することである。
大きな間違い
 現代人は大きな間違いをしているようである。 ただその間違いがあまりに大きすぎて気づかないだけである。
時間の重み
 人は時間によって生きている。 20歳ではかく生き、40歳ではかように生き、60歳ではしかじかと生き、やがて ・・ その時間の重みに耐えかねて、この世を去ることになる。
幸福
 お金で幸福は買えないと言うが、貧乏でも幸福は買えない。
最良の選択
 最良の選択と最悪の選択はいつも隣あわせである。
去来
 人は 「未来の彼方から」 やって来て 「過去の彼方へ」 去って行く。
安心の売買
 安心とは物質的状況を基盤とはするが、結局は精神的状況である。 その証拠に、いくら物質的状況が満たされていても、安心を得られない人は多々存在する。 現代人は日々この安心を求めて奔走する。 安心の中で最も直接的なものはお金を持つことであり、従って日々の奔走は、このお金を求めての奔走である。 だが直接的にはお金を求めているのであるが実質的には安心を求めているのであり、その安心をお金で買おうとしていることを忘れてはならない。 現代グローバル経済の本質は、この 「安心の売買」 である。 しかし、お金で安心が買えるのかどうかは不明である。 現代の社会世相を見れば、お金を持つことで逆に不安となり、日々ビクビクして生きているのが実情ではあるまいか? やはり、安心はお金では買えないのである。
安心売買オペレーション
 現代グローバル経済の本質である 「安心売買」 の核心は 「リスクヘッジ」 である。 リスクヘッジとは、例えば為替取引で言えば、手持ちのドルの価値が低下するリスクを事前にドルを空売りしておくことで回避するような操作(オペレーション)である。 このようなオペレーションは現在ではあらゆる経済取引に運用されている。 しかし、あらゆるリスクにヘッジをかけたらいかなることになるのか? 株は上がりも下がりもしなくなり、景気は良くも悪くもならず、結局は何も動かなくなる。 プラスとマイナスを加算すれば 0 になることは当然のことである。 好況のような不況のような経済、安定のような不安定のような社会、安心のような不安のような心理、可もなく不可もない人生 ・・ 等々。 現代社会が呈する諸事相はこの 「安心売買オペレーション」 の産物である。
コマーシャル経済学
 価値ある情報も伝達方法が悪ければ価値は半減する。
例えば、情報価値100が伝達率10%の伝達方法で伝達された場合の伝達情報価値は
 情報価値(100)×伝達率(10%)=伝達情報価値(10)
では、情報価値50が、伝達率100%の伝達方法で伝達された場合の伝達情報価値は
 情報価値(50)×伝達率(100%)=伝達情報価値(50)
 従って、伝達される情報の価値をあげるには、情報価値をあげることより、伝達率をあげることを考えた方が効果的である。 つまり、素晴らしい商品(情報価値100)を開発することに精力を注ぐより、そこそこの商品(情報価値50)を開発し、広告宣伝に精力を注ぐ(伝達率100)ことの方が効果的である。 現代コマーシャル経済学が依って立つ基盤である。
争奪戦
 現代グローバル経済の本質とは何のことはない、単なる金銭の争奪戦である。 この争奪戦には際限が無い。 第一の勝者は第二の勝者に負け、第二の勝者は第三の勝者に負ける。 結果、この争奪戦には勝者は存在しない。
成功した人生
 人にとって最も 「大切なこと」 は、人生を貫く 「何ものか」 があることである。 貫くものが何もなく、偶発的に成功した人生は成功とは言い難い。 逆に、何ものかに貫かれて失敗した人生は失敗とは言い難い。 現代社会における功名富貴は多く運によるところが大である。 したがって偶発性によって成功した人が、必ずしも人として立派であるかの保証はない。 与えられた運命の下で、生涯に渡り 「何ものか」 を貫き通した人は立派である。 かかる立派な人生と較べれば、この世の功名富貴は足下にも及ばず、飛び交う毀誉褒貶は塵芥のごとくである。
打算から生まれた真実
 人は多かれ少なかれ打算的であるが打算も究めれば真実となる。 彼女の気を引くためにプレゼントをすることは打算である。 しかし、そのプレゼントも永遠に継続すれば、もはや真実である。 打算で終わる人は多く、真実で終わる人は少ない。
真理は簡潔
 真理はいつも簡潔である。 複雑になるにしたがって虚偽に近づく。
達成と挫折の狭間
 人は夢に挫折することを怖れる。 がしかし、その夢を達成することも怖れる。 なぜか? 人は潜在意識下で夢の達成に幸せがないことを知っているからである。 幸せは、その夢の 「達成と挫折の狭間」 にある。 したがって、夢の達成と挫折は、幸せにとっての 「副産物」 にすぎない。
かわるところがない
 その人は、あの山のようである
 その人は、あの海のようである
 その人は、あの○○のようである
 ・・・・・・・・・・・・・・
 その逆
 その山は、あの人のようである
 その海は、あの人のようである
 その○○は、あの人のようである
 ・・・・・・・・・・・・・・
 つまり、その人はあの山であり、あの海であり、あの○○である。 人間とて、この世の万物事象と何らかわるところがない。
不確定性の時代
 現代社会が正しい方向に進んでいるかどうかの保証はない。 私が社会に出た頃は(40年ほども前になるが)、先生の言うことを聞いていれば、10中8、9は間違いのない人生を歩むことができた。 しかし、現代社会では先日まで大会社の社長として威風堂々と肩で風を切っていた者が一朝にして逮捕されてしまったり、一国の首相が 「人生いろいろ ・・」 と公言してはばからない時代である。 病院に入って安心できず、飲む薬に安心できず、食べる牛肉、野菜に安心できない。 社会が正しい方向に進んでいるのであれば 「赤信号もみんなで渡って行けば安全」 であった。 だがもし間違えた方向に進んでいるのであれば 「赤信号をみんなで渡って行けば全滅」 の危機に瀕する。 世はまさにドイツの物理学者、ハイゼンベルクが1927年に提唱した 「不確定性原理」 によって規定される量子宇宙の風景に近似してきた。
事業家と芸術家
 事業家にとって最大の課題は 「顧客の創造」 であって 「作品の創造」 ではない。 芸術家にとって最大の課題は 「作品の創造」 であって 「顧客の創造」 ではない。 このスタンスを曖昧にして事に望んでは、両者の努力は 「徒労」 に終わり、得るものは何もない。
未来を創る
 シュレジンガーの波動方程式によれば、ひとつの 「宇宙の発生」 はその波動方程式に関する波動関数の収縮によって語られる。 しかして、その波動関数の収縮は 「意識的観測」 によって誘起される。 意識的観測がなされる以前の宇宙は 「波動相」 をおびてあらゆる可能性を秘めてカオスのごとく広がっている。 意識的観測がなされるやいなや、あらゆる可能性は消滅し 「粒子相」 をおびた 「たったひとつの宇宙」 に収縮(凝固)する。 我々が今、目の前にする現実世界は、あらゆる可能性としての波動相として 「アナログ的」 に一円に広がっていた 「全体宇宙」 から、人間の意識操作により、たったひとつの可能性としての粒子相として 「デジタル的」 に局所に凝固した 「個別宇宙」 である。 簡潔に言えば、あらゆる可能性の中から人間意識が 「抽出(選別)」 した 「ひとつの宇宙風景」 である。 つまり、「未来を創る」 とは、あらゆる可能性の中から、たったひとつの 「可能性を抽出」 することに他ならない。
考えること
 生きるために考えることは重要ではあるが、考えることそのものが人生の目的ではない。
幸せな人
 幸せな人とは、その人の 「こころが幸せな人」 であり、その人を取巻く環境の良し悪しは絶対的条件ではない。
時空の量
 過去時空は意識が構成する 「記憶」 であり、未来時空は意識が構成する 「想像」 であるとすれば。 記憶の量が少なく想像の量が多い幼年期には過去時空は少なく未来時空が多い。 逆に記憶の量が多く想像の量が少ない老年期には過去時空が多く未来時空は少ない。 時空の量は 「記憶意識」 と 「想像意識」 の量でもある。 あたりまえと言えばあたりまえのことである。
時空の相
 温度経過により、氷りは摂氏 0 度で 「固体相」 から水という 「液体相」 に相転換し、摂氏100度で液体相から蒸気という 「気体相」 に相転換する。 同様に時空もまた時間経過により、「未来相」 から 「現在相」 に相転換し、現在相は瞬時に 「過去相」 に相転換する。 固体→液体→気体という水における相転換の意味は充分に意味把握がなされているが、過去→現在→未来という時空における相転換の意味は未だまったく意味把握がなされていない。 例えば、未来相は気体相であり、現在相は液体相であり、過去相は固体相であるというように、時空の相が簡潔明瞭に意味づけされれば、人間も生きるにおいてもう少し有意義な人生をおくることができるのであろうが ・・・。
生きる秘訣
 楽しく生きる秘訣は、過去の記憶意識と決別し、未来の想像意識に向けて船出することであろう。 古今、可能性は常に未来にあって過去にはないのである。
鬱の本質
 鬱に沈んだ 「今日」 も明日になれば輝かしくも懐かしい 「昨日」 に転化する。 つまり、過去はいつも黄金色に輝く素晴らしき日々となる。 だがこのような過去世界の構築こそが 「鬱の本質」 なのではあるまいか。
魅力の本質
 人を引きつける魅力とは未知なる部分が 「常に20%程度」 は残されている状態である。 がゆえに恋人に思いの丈を述べることは止めた方がいい。 全てを知ったことでかえって半減してしまうのが 「魅力の本質」 である。 何事も腹八分が最適であり、物事には余韻が大切なのである。
時空の訪問者
 この世に何処からともなく 「出来事」 が訪れる。 その出来事が我々にとって都合がよかろうが悪かろうがそんなことには頓着せずに日々次々とこの世に訪れる。 出来事はあたかも何のことわりもなく、ふいに訪れる正体不明の 「謎の訪問者」 のようであり、我々はこの謎の訪問者の思わぬ諸行に、一喜一憂するとともにあたふたと振り回されるのである。 もとより訪れる出来事には何等の意図もなく、是非もないのであるから、この訪問者に不平不満をぶつけてみてもあまり意味があるとは思えない。 依って、信長は本能寺で遭遇した絶体絶命の出来事において 「是非もない」 とかかる訪問者を一蹴し、戦国武将の山中鹿之助は次々と身に訪れる艱難辛苦の出来事において 「我に七難八苦を与えたまえ」 とかかる訪問者を拒むことなくまっこう勝負を挑んだのである。 他方、現代人といえば、かかる訪問者に対し、上げ膳据え膳、平身低頭の饗応に終始するのみである。 がしかし、いつまでも彼らの思うがままに自由勝手にさせていていいわけがない。
生きた学問
 意図も是非もなくこの世に訪れる出来事は謎めいた時空の訪問者ではあるが、この出来事の中にはこの世のありとあらゆる諸相が含まれていることは確かである。 もしも 「生きた学問」 というものがあるとすれば、日々到来するかかる出来事の中から巧妙に隠蔽された真相を心眼をもって見抜き、もってこの世の不可能に対処可能な実効策を編み出すことにある。
人生の解
 人生には 「一般解」 は存在しない。 存在するのは個々独自の 「特殊解」 である。 人間の不幸は、本来輝きを発する個々独自の 「特殊解人生」 をなおざりにして、ありもしない 「一般解人生」 を求めることにある。
天の配剤と人の配剤
 宇宙のことは 「天の配剤」 に依り、社会のことは 「人の配剤」 に依る。 人はこの世の 「自力本願」 を信じるが、それは宇宙根源に存在する 「絶対的本願」 である 「他力本願」 の土台上で展開される 「相対的本願」 である。 縄文時代は天の配剤に依る絶対的本願(他力本願)に帰依する 「愛を中核」 とした社会であり、弥生時代以降の社会は人の配剤に依る相対的本願(自力本願)に帰依する 「知を中核」 とする社会である。 「愛は絶対的」 であり、「知は相対的」 である。 現代人の多くは人の配剤を基とした相対的な知をもってなる自力本願に傾斜し、天の配剤を基とした絶対的な愛をもってなる他力本願を省みない。 結局、「知」 を得ることで 「愛」 を失ってしまったのである。
情感の形
 情感から言葉が生まれるのであって言葉から情感が生まれるのではない。 情感は姿形のない混沌であり、この目鼻のない混沌を整理整頓し取捨選択したところに言葉が顕われるのである。 つまり、言葉は姿形なき情感に形を与えるものである。 評論家、小林秀雄は悲しみの情感によって体からあふれ出る形が涙であると比喩した。 つまり、あふれ出る涙が言葉であると ・・。 描くべき情感がないままに描く画家、著すべき情感がないままに著す作家 ・・ 等々。 およそ本末転倒である。

copyright © Squarenet