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科学的合理主義の限界〜その終着点とは
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科学的合理主義への警鐘
 イギリスの偉大なる科学者、ニュートン(1642〜1727年)がかの有名な「プリンキピア(自然哲学の数学的原理)」を著して以降、世界は一瞬にして「科学的合理主義万能の価値観」に没頭、その後300年間の邁進を経て、現在我々が目にする科学文明社会を現出させるに至った。 だが「科学的合理主義」は決して万能なのではなく、自ずとした限界がある。
 人類は今、科学をもって、すべてが計算可能であり、そのすべてを自己意志によって自由に制御できるかのごとく考えるにあるが、それは妄想である。
 科学の粋を集めたジャンボジェット機でさえ、日々自由に大空を飛行する鳥に比べたら、それはできのよくない「ブリキ細工」のごときのものである。 なぜならば、そのジャンボジェット機は、時として墜落したり、空中衝突したりするが、私は寡聞にして未だ、大空を飛行する鳥が墜落したり、空中衝突したなどという話を聞いたことがない。 また超高速スーパーコンピュータを駆使しても、明日の出来事の成り行きを予測することはできないのはもちろんであるが、限定された台風の進路さえ確定できずに、扇形の角度範囲でしか示せず、ときとしてその角度範囲からも逸脱してしまう始末である。
 この稿を書いている現時点においても、ビルの構造計算を偽造したとして、そのビルの建設会社、販売会社、住人の間で「大騒動」が発生している。 かかる計算強度では震度5強の地震が来れば倒壊する危険があると言う。 計算を偽造するのはもっての外か、論外であるが、もし仮にその計算が妥当であったとしても、それを越える震度7の地震が来たらいかなることとなるのか ・・ そのビルどころか他のビルも倒壊を免れぬのではなかろうか ・・? これらの「危険の潜在」を知ってか知らずか、数十階建ての超高層マンションは理想の居住空間として、高額で取引され、その取得にやっきになっているのが世相の現状である。
 我々は、人類が絶対の信奉をおく科学的合理主義にも限界があることを理解しなければならない。 科学的合理主義とは、言うなれば、ごく「単純」な、ごく「狭い」領域でしか妥当性が保証されない、単なる「数学的モデル」でしかないのである。
 科学的合理主義万能のかかる喧噪が出発した当時、すでにその科学的合理主義の行き着く先に、大きな危惧を抱き、一人警鐘を鳴らして立ち向かった人物がいた。 その人物とはドイツの文豪、ゲーテ(1749〜1832年)である。 彼はまた、いかなる警鐘をもってしても、技術と科学の結合による世界の進歩的な改造が、阻止し難いことも同時に知っていた。 彼はそのことを、彼の最後の小説「遍歴時代」の中で、憂慮とともに次のように語っている。
 「 ・・・ 増大する機械文明が私を悩ませ、不安にします。 それは雷雨のように、おもむろに近づいて来ます。 でも、それはすでに方向を定めました。 やがて到来して襲いかかることでありましょう ・・・ 」
 また友人への手紙の中では
 「 ・・・ 富と速さは、世界が称賛し、誰しもが目指しているものです。 鉄道、急行郵便馬車、蒸気船、そして交通のありとあらゆる軽妙な手段は、開花した世界が能力以上の力を出し、不必要なまでに自己を啓発し、そのためかえって凡庸さに陥るために求めているものであります。 そもそも現在は、すぐれた頭脳、理解の早い実用的な人間のための世紀であり、彼らは、たとえみずからは最高度の天分を有さずとも、ある程度の器用さを身につけているだけで衆に抜きんでるものと思っているのです ・・・ 」
 現代科学文明への展開がスタートした250年前にして、その行き着く先を、かくのごとく予測し得た、まれにみる慧眼、まさにゲーテ畏るべしである。
 その後、ゲーテの思想を研究したオーストリア生まれ(1911年)の文芸評論家、エーリヒ・ヘラーは、科学的合理主義の行き着く先を 「 ・・・ 技術的進歩とは、地獄をもっと快適な居住空間にしようとする絶望的な試み以外のほとんど何物でもありません ・・・ 」 と簡潔、かつ直裁に語っている。
漱石またしかり
 ドイツの文豪、ゲーテが抱いた科学的合理主義への危惧を予見した人物は我が日本国にもいた。 明治の文豪、夏目漱石(1867〜 1916年)である。 以下は彼の名作「行人」からの抜粋である。
 兄さんは書物を読んでも、理窟を考えても、飯を食っても、散歩をしても、二六時中何をしても、そこに安住する事ができないのだそうです。 何をしても、こんな事をしてはいられないという気分に追いかけられるのだそうです。
 「自分のしている事が、自分の目的になっていないほど苦しい事はない」と兄さんは云います。
 「目的でなくっても方便になれば好いじゃないか」と私が云います。
 「それは結構である、ある目的があればこそ、方便が定められるのだから」と兄さんが答えます。
 兄さんの苦しむのは、兄さんが何をどうしても、それが目的にならないばかりでなく、方便にもならないと思うからです。 ただ不安なのです。 したがってじっとしていられないのです。 兄さんは落ちついて寝ていられないから起きると云います。 起きると、ただ起きていられないから歩くと云います。 歩くとただ歩いていられないから走けると云います。 すでに走け出した以上、どこまで行っても止まれないと云います。 止まれないばかりなら好いが刻一刻と速力を増して行かなければならないと云います。 その極端を想像すると恐ろしいと云います。 冷汗が出るように恐ろしいと云います。 怖くて怖くてたまらないと云います。
 私は兄さんの説明を聞いて、驚きました。 しかしそういう種類の不安を、生れてからまだ一度も経験した事のない私には、理解があっても同情は伴いませんでした。 私は頭痛を知らない人が、割れるような痛みを訴えられた時の気分で、兄さんの話に耳を傾けていました。 私はしばらく考えました。 考えているうちに、人間の運命というものが朧気ながら眼の前に浮かんで来ました。 私は兄さんのために好い慰藉を見出したと思いました。 「君のいうような不安は、人間全体の不安で、何も君一人だけが苦しんでいるのじゃないと覚ればそれまでじゃないか、つまりそう流転して行くのが我々の運命なんだから」 私のこの言葉はぼんやりしているばかりでなく、すこぶる不快に生温るいものでありました。 鋭い兄さんの眼から出る軽侮の一瞥と共に葬られなければなりませんでした。 兄さんはこう云うのです。
 「人間の不安は科学の発展から来る、進んで止まる事を知らない科学は、かつて我々に止まる事を許してくれた事がない、徒歩から俥、俥から馬車、馬車から汽車、汽車から自動車、それから航空船、それから飛行機と、どこまで行っても休ませてくれない、どこまで伴れて行かれるか分らない、実に恐ろしい」
 「そりゃ恐ろしい」と私も云いました。
 兄さんは笑いました。
 「君の恐ろしいというのは、恐ろしいという言葉を使っても差支えないという意味だろう、実際恐ろしいんじゃないだろう、つまり頭の恐ろしさに過ぎないんだろう、僕のは違う、僕のは心臓の恐ろしさだ、脈を打つ活きた恐ろしさだ」
 私は兄さんの言葉に一毫も虚偽の分子の交っていない事を保証します。 しかし兄さんの恐ろしさを自分の舌で甞めて見る事はとてもできません。
 「すべての人の運命なら、君一人そう恐ろしがる必要がない」と私は云いました。
 「必要がなくても事実がある」と兄さんは答えました。 その上下のような事も云いました。
 「人間全体が幾世紀かの後に到着すべき運命を、僕は僕一人で僕一代のうちに経過しなければならないから恐ろしい、一代のうちならまだしもだが、十年間でも、一年間でも、縮めて云えば一カ月間乃至一週間でも、依然として同じ運命を経過しなければならないから恐ろしい、君は嘘かと思うかも知れないが、僕の生活のどこをどんな断片に切って見ても、たといその断片の長さが一時間だろうと三十分だろうと、それがきっと同じ運命を経過しつつあるから恐ろしい、要するに僕は人間全体の不安を、自分一人に集めて、そのまた不安を、一刻一分の短時間に煮つめた恐ろしさを経験している」
 「それはいけない、もっと気を楽にしなくっちゃ」
 「いけないぐらいは自分にも好く解っている」
 私は兄さんの前で黙って煙草を吹かしていました。 私は心のうちで、どうかして兄さんをこの苦痛から救い出して上げたいと念じました。 私はすべてその他の事を忘れました。 今までじっと私の顔を見守っていた兄さんは、その時突然「君の方が僕より偉い」と云いました。 私は思想の上において、兄さんこそ私に優れていると感じている際でしたから、この賛辞に対して嬉しいともありがたいとも思う気は起りませんでした。 私はやはり黙って煙草を吹かしていました。 兄さんはだんだん落ちついて来ました。 それから二人とも一つ蚊帳に這入って寝ました。
 現代人の不安を100年前にして予測し得た漱石の慧眼もまたしかり、ゲーテに遅れをとるものではない。
精神的破産者
 現代人は物質的に見れば大富豪であろうが、精神的に見ればみじめな破産者のごとくである。
 現代科学は我々の周りに実在化した万物事象を理性で分析し、解剖し、我々の生活のために役立つ道具に変換した。 万物事象に対するこの科学のアプローチ手法の絶大な成功は、「科学的合理主義」という、唯一絶対的な概念を、現代人の精神世界に強烈に植え付けることにもまた成功した。
 現実世界を客観的に冷ややかに理性をもって眺めることが科学の基本姿勢であり、その中に自己の主体性を差し挟む余地はない。 あくまで自己を空しくし、対象である万物事象を客観視しなければならない。 我々はこのような科学的合理主義をもって、あらゆる万物事象を利便的道具に変換し、現在、目にするごとくの、豊饒な物質文明社会を、地球という惑星上に築いたのである。
 しかし、物質文明社会の大成功の裏で、人間自身の主体性の喪失という、精神文明の衰退が、密かに進行してきたことを見落としてはならない。
 自己を空しくし、現実世界の万物事象を客観視する姿勢は、必然的に「これ」という自己基準でものを考える視点から、「あれ」という他者基準でものを考える視点に、視点が転換することを強要する。 「これ」から「あれ」への視点転換で確立される主体性とは、「あれ基準」で構築された偽善的主体性であり、自己を主体とする「これ基準」で構築される真の主体性ではない。 言うなれば、他者を主体とする「従属性」である。
 科学的合理主義を信奉する多くの現代人が主張する「主体性」とは、実は他者への「従属性」に他ならない。
 これらの従属性は、現代社会のそこかしこに顕れている。 それは社会システムへの従属であり、権力への従属であり、金銭への従属であり、土地や物への従属であり ・・ 等々である。 「これ」以外の「あれ」への従属は、また隷属であり、追従であり、服従である。 ゆえに、現代人は華やかな物質文明社会に生きて、生活を豊饒な利便性物質で飾り、自由人であると胸を張って微笑んではいるものの、その微笑みに、どこか薄ら寒い、虚しさが漂うのである。
 現代人は物質的には大富豪に近づきつつあるとともに、精神的には破産者へも近づきつつある。 それは紙の表裏の構図であり、物質と精神の 「Pairpole」 でもある。

2005.11.29


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