Linear ベストエッセイセレクション
宇宙の天秤
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あなたが医者である限り僕の言葉は絶対だ!
 テレビドラマ「フラジャイル」で主人公の青年病理医、岸京一郎の決めゼリフである。 フラジャイル(Fragile)とは「壊れやすい」「もろい」「はかない」「かよわい」等の意味をもち、語源はラテン語で Fragility 「割れやすい」からきているという。
 病理医とは、主に大病院などに勤務して病理診断を行う医師のことで、病理診断とは、患者の臓器から採取された細胞を顕微鏡などで調べたり、CTスキャンで撮影された画像を分析したりすることを言う。 病理医はこれらの分析データから病気の原因を明らかにし、適切な治療方法を判断する。 病理医は通常の医師(臨床医)のように直接患者を治療したり、手術を行うことはなく、病理診断の結果を踏まえて担当医に適切な助言をすることが仕事である。 だが患者に直接治療しないとはいえ、診断ミスすることは許されない大きな責任を負っている職種である。
 ドラマはご都合主義的な治療に終始する臨床医の怠慢と愚行を容赦なく裁断する完全主義者である病理医、岸京一郎を中心にして展開する。 物語の佳境で発せられる 「あなたが医者である限り僕の言葉は絶対だ!」 という神の如くの「断言」とともに事件は解決するという痛快無比なドラマである。
 それにしてもこの青年病理医の傲慢とも思える自尊心と自負心はどこからくるのであろう ・・ もしこれが、この青年病理医自身からくるとすれば、まことに鼻持ちならない若者ということになるが、おそらく、この絶対的自信は自らの内にあるものではなく、彼が信じる外なる「何か」に支えられての自信であろう。 それは人間存在を超えた「絶対的な存在」であるようにみえる。
 かって 「宇宙の天秤」 で私は以下のように書いた。
 この世には事の是非を測るに「ふたつの天秤」がある。 ひとつは「人倫の天秤」であり、人間社会での善悪や正邪が測られる。 他のひとつは「宇宙の天秤」であり、人間社会を包含する宇宙の真実や真理が測られる。
 人倫の天秤は人間の倫理観から作られた天秤であるため、時間軸に添った「時代」により、また空間軸に添った「場所」により、その測定結果は異なる。 しかし、宇宙の天秤は、宇宙の真理から作られた天秤であるため、時間軸にも空間軸にも影響されることなく、いかなる時代でも、またいかなる場所でも、その測定結果は同じである。
 人倫の天秤は人間の意思が測定結果に影響を与えるが、宇宙の天秤は人間の意思に何等影響を受けない。 このため人倫の天秤の測定結果は、えてして「不公平」である。 人間社会の特異性は、この人倫の天秤による不公平な測定結果にあると言ってもよい。 人間社会に生きる我々の消費エネルギの多くが、この人倫の天秤による不公平な測定結果を「改ざん」し、また時として「ねつ造」するために費やされてしまう。
 これに対し、宇宙の天秤はおそろしいほどに「公平」である。 時代や場所を選ぶことなく、また人間の意思にも左右されず、測定結果は同じである。
 換言すれば、人倫の天秤は「相対的天秤」であり、宇宙の天秤は「絶対的天秤」である。
 我々は、この相対と絶対のふたつの天秤の使用限界と性能を充分に理解し、適宜に使い分けることが必要なのだが、現代社会では相対的な人倫の天秤のみが重要視され、世の大道は、人倫の天秤を抱えた群衆で混雑し、その測定結果を改ざん、ねつ造する人々が大手を振って闊歩している状態である。 しかしながら、この状況では、我々は決して「心の安らぎを得る」ことはないであろう。 なぜなら、人倫の天秤の測定結果は、いついかなる状況で急変するかが予測できない。 一夜にして天国から地獄に突き落とされるかもわからないのである。
 我々が本当の心の安らぎを得ようとしたら、宇宙の天秤を使用することである。 なぜなら、宇宙の天秤の測定結果は、いついかなる状況でも変化することなく「絶対的公平」であり、安定した生活が保証されるからである。 だが宇宙の天秤は絶対的公平であるがゆえに、また是非もない「非情の天秤」でもある。 強いものが勝ち、弱いものが負け、多いものは多く、少ないものは少なく、在るものはあり、無いものはなく、心臓が止まれば人は死ぬことを明らかにする。 その測定結果に影響を与えるものは真実と真理のみであって、それ以外の何ものでもない。
 我々現代人は、そろそろ人倫の天秤に対する傾斜した価値観を転換し、かっての古代人が大切にした宇宙の天秤に回帰しなければならない段階に来ているのではなかろうか ・・? 思わせぶりな脚色も、追従笑いもいらない ・・ 宇宙はただそこに在り、時が刻々と経過しているのみである。
 勿論、青年病理医の絶対的な自信は「宇宙の天秤」に支えられた自信であることはまぎれもない。 ご都合主義的な「人倫の天秤」にすがっているくだんの臨床医の相対的な自信ではもとより勝負にはならなかったのである。 だがこの構図は何も医療界に限られたものではない。 昨今の世相を鑑みれば、政界にしてしかり、経済界にしてしかり、学界にしてしかり ・・ しかりであって、惨状は目を覆うばかりである。 あるいは青年は以下のように断言したかったのかもしれない。
あなたが 人間である限り 僕の言葉は絶対だ!
三界の狂人は狂せることを知らず
 世の中の間違いに付き合う正当性などどこにもない。 それはテレビドラマ「フラジャイル」の主人公、岸京一郎の言うとおりである。 そのようなものに付き合っているとあたら貴重な人生を虚しく消耗してしまう。 間違った人生をよかったというような人はそうはいない。 この世は繰り返しのきかない1回限りのものであってみればその正誤は明らかである。
 おそらく弘法大師、空海もまた岸京一郎と同じであったであろう。 四国、讃岐から青雲の志を抱いて奈良の都に出てきた青年空海が見たものはご都合主義的な処世術に汲々とする官僚や学生の姿であった。 なぜこのように間違った生き方を日々繰り返しているのか ・・? 正しい生き方とは何なのか ・・? 空海の落胆と疑問はそこにあった。
 以降、その解を求める旅が始まる。 山野を彷徨し深山幽谷に分け入る日々を続けたが、その解を見いだすことはできなかった。 だがある日、運命を変える経文の断片に出逢う。 それは久米仙人の逸話がのこる奈良橿原の久米寺でのことであったという。 寺の宝塔内でその断片を見いだした空海は飛び上がらんばかりに驚喜した。 やはり自分と同じ疑問を抱き、ついにはその解に行き着いた者がこの世にいたのである。 その経文の断片とは密教の中核をなす大日経の片鱗であった。 空海は読んだ刹那に密教の何たるかを感得したと言われる。 後日、空海は経文のすべてを求めて唐に渡ることになるが、その消息は本論を外れるのでここでは割愛する。
 結論から言えば、空海が求めていたものとは「即身成仏」である。 つまり、「仏として生きる方法」である。 他方、それまでの仏教(顕教)が目指してきたものとは「仏になるための方法」であった。 空海の英知は、仏になるための方法をいくら究めても、結局は「生きられない」ことを見抜くとともに、それを確信したのである。 空海もまた相対的な「人倫の天秤」ではなく、絶対的な「宇宙の天秤」を求めたのである。 空海のその信念は生涯に渡って変わることはなかった。 ゆえに空海は弘法大師として間違った世の中を導く灯台のあかりの如くに輝き続けたのである。
 だがその空海でさえ、死に臨んで書いた「太始と太終の闇」と題する詩文の中で、間違った世の中の迷妄はかくのごとく深いという諦念にも似た嘆息をもらしている。
三界の狂人は狂せることを知らず
四生の盲者は盲なることを識らず
生れ生れ生れ生れて生の始めに暗く
死に死に死に死んで死の終わりに冥し
ツァラトゥストラはかく語りき
 哲学者、ニーチェが目指したものは「超人」である。 人間を超えた人間である。 岸京一郎にしても、また空海にしても、目指したものはこの「超人」である。 空海が嘆いた「三界の狂人は狂せることを知らず」という迷妄せる人々を、ニーチェは自著「ツァラトゥストラはかく語りき」の中で「末人」と呼んだ。 末人の様相は、第636回 「末人」で描いている。
 だがその末人を脱して超人を目指すことは人生に多大な困窮と危険をもたらすこともまた事実である。 それはニーチェがたどった人生が証明している。 その危険の様相を彼は以下のように書いている。
 ・・・ 怪物と闘う者は その過程で自分自身も怪物になることがないよう気をつけねばならない 深淵をのぞきこむとき その深淵も こちらを見つめているのだ ・・・・
 ニーチェ哲学の研究者で盟友でもある関西学院大学教授の宮原浩二郎君もまた「ニーチェを研究することはそれなりの覚悟がいる」と述べている。 その覚悟とは「超人への道」が人間をも破綻させてしまいかねない危険をともなうことの自覚である。
 その破綻の様相を、私はニーチェが得意としたアフォリズムを使って 「君の歌は破綻していない」 と題して以下のように書いた。
 かって関西学院大学社会学部で教授をしている宮原浩二郎君(あえて君というのは彼は教授と言われることを好まないため)と松本市にある、小さなスナックで飲んだ時のことである。 その頃はまだ日本経済も活気に満ちていて店内は空席がないほどに繁盛していた。
 カウンター席で飲んでいた私たちの隣席では少々酩酊状態の青年たち3人がカラオケで気勢をあげていた。 その内の1人の歌に対して宮原君が 「君の歌は破綻していない」 と言ったのである。 言われた当人は目を丸くしていたが、しばらくしてまんざらでもない表情を浮かべた。
 彼の歌は右にふらふら、左にふらふら、行きつ戻りつ、あたかも断崖絶壁の稜線をかろうじて渡っているような危うさであったが、決して足はふみはずさないものであった。 さらにその乱調子が歌唱に独特な情感を醸し出し、いうなれば「聴かせる歌」となっていた。 その状況を宮原君は「君の歌は破綻していない」と評したのである。
 破綻しているかいないかは「重要なポイント」である。 奇才ビートたけしの過激なつぶやきは破綻しているようで決して破綻していない。 名だたる政治家の整然たる演説は破綻していないようでまったく破綻している。 私のような人跡未踏の荒野を拓く開発型の人間にとっては、この破綻しているか否かは「生命線」である。 時としてそのぎりぎりを歩かなければならないが破綻してしまっては何もならないのである。 もちろん宮原君もその線上を歩いている者である。 ゆえに教授は「君の歌は破綻していない」という最高の讃辞を彼に授与したのである。
 老婆心ながら付け加えておくと、「破綻」と「矛盾」は似て非なるものである。 それは矛盾していても破綻していないということもあれば、矛盾していなくとも破綻していることがあるからである。 つまり、破綻とは、矛盾という論理性をも超えた、思考中枢の本質的概念にもとづいているのである。
 勿論、超人を目指した者たちはその危険の意味を充分に自覚している。 だがそれでも「宇宙の天秤」を人生の指針に据えたのは、なにより「自らが真実と納得できる人生を生きる」ことが、生涯を賭けるに価する 「最高の価値」 であることを確信していたからに他ならない。 その孤高の風景を、第421回 「遙かな旅人」で描いている。

2016.03.18


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