Linear ベストエッセイセレクション
逆因果律と経路積分
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 逆因果律とは時間経過にしたがって現れる原因と結果の順序を逆にした独自の因果律である。 この逆因果律と理論物理学者リチャード・ファインマンが提唱した経路積分は紙の表裏であって、同じことを別々の視点で述べているにすぎない。 少々長くなるがその本質についてである。
逆因果律
 かく今、自身が存在するためには「過去のすべてが必要であった」と考えることができる。 そして、「自身の未来を創りだす」ためには、その「自身の過去が必要不可欠」であり、その過去がいかなるものであったとしても、その「材料」なしに未来を創りだすことはできない。
曰く、自身の過去を否定して自身の未来を生みだすことはできない。
 もしも仮に、「かかる未来において何ごとかを創りだしたとき、その材料であった過去の意味が確定されると考える」ならば、逆の因果律が成立する。 そうつまり、「未来が原因で過去が結果」という考え方である。
 人はその人生観において過去は絶対的に変更不能ということを信じて疑わない。 ゆえに過去の失敗は取り返しがつかない。 だが「人間万事塞翁が馬」という諺のごとく、その失敗があったがゆえに未来において何事か成功したとき、過去の失敗は取り返しがつかないどころか必要不可欠な失敗となる。
つまり、未来に成す何事かに依って、過去に成した何事かを変更しうる。
 過去が未来において変更可能であるとすれば、未来の意味は大分変わってくる。 可能性に賭ける人生とは、この未来を原因化する人生である。 9回裏2アウト満塁3点差、ここでホームランを打てば過去の失敗は成功に転化する。 この一発逆転を目指してヒーローはバッターボックスに入るのである。 勝負は下駄を履くまでわからないのであって、物事は終わりよければすべてよしなのである。
 先日、コピーライターの糸井重里氏の「面白い発想」を知るにおよんで、なるほどと感得した。 その発想を抜粋すると以下のようである。
 かつて、ぼくは、ピラミッド型組織を横に倒して船のように見立てるのがいいと考えた。てっぺんにえらい人がいるというより、責任を持って船の進路を決める人が前にいる。食事係でじゃがいもの皮をむいている人も動力をコントロールしている人も次の港での交易を計画している人もそれぞれ、互いにいのちを預けあった乗組員だ。この考え方、なにかといろいろおもしろくしてくれる ・・ (中略) ・・ 映画館で考えていたのが、また横に倒すことだった。なにを横に倒してみるのか? 「トーナメント表」である。頂点の1人を、横にしてみたら出発点に思えるだろう。つまり、ひとりの人間がいま生まれた状態。この段階では、まずすべての人が参加している。少し生きると、選択肢2つのどちらかになる。もう少し生きていくと、選択肢4つの1つになる。少し生きることが進行するごとに、8、16、32、と ・・ どんどん生きてきた道筋といる場所は変化する。まったく別の道を歩いてきた人と出合ったり、近い人と、ちょっとしたことで離れることになったり、横に倒したトーナメント表は、無数の運命を、無数の未来を、無数の交流を生み出し、複雑のうねうねと生きもののように成長する。目の前には、意味のわかりにくい選択肢が、次々に現れて、人は次々にどちらかを選び続ける。「そっちを選ぶと、いままで避けてきた方向に導かれてしまうぞ」なんてこともあるだろうし、沈む方へ沈む方へと向かっていた人が、なにかの選択の場面で浮かぶようになることもある。たったひとりの勝者を決めるはずのトーナメント表が、ずいぶんと豊かな「人生表」に見えてくるものだ。これはおもしろいや! 映画の主人公たちの、その都度の選択のドラマが、ぼくに、ちょっと別の考え方を与えてくれた。
 そうこの発想は逆因果律の世界を語っているのである。 トーナメント表は通常、最上部のひとりの勝者に向けて最下部から上に向かっての道筋を示している。 糸井氏はそのトーナメント表を横に倒すことで、時間の最先端にいるひとりの勝者がたどる「運命の道筋」を思考しているのだ。 曰く、自身の過去を否定して自身の未来を生みだすことはできない。
経路積分
 理論物理学者リチャード・ファインマンは「量子力学の精髄」と位置づけた二重スリット実験の結果を解析するにあたって経路積分(歴史総和法)という独自の方法を編み出した。
 実験に対するファインマンの説明によれば ・・ 光子や電子などの量子粒子は発射源と蛍光板の到達点の間で、ありとあらゆる可能な道筋、あるいは軌跡を試そうとする。 微粒子は波長が長いために水の波の干渉のように蛍光板上に干渉縞状の到達点の確率分布を示す。 だが粒子の質量が大きい野球のボールともなれば、ニュートン力学が述べる道筋以外のいかなる軌跡でも相殺干渉が起こることを示している。 量子論では電子がどこに到達するかを予測することはできない。 それは電子がある点に到達する確率を示すだけである。 言えることは電子を1個蛍光板に向けて発射したならば、蛍光板上の多くの点で閃光が現れる可能性である。 だが確率は測定が行われることで事実に変わる。 電子がある点で発見されたが最後、それがほかの場所で見つかる確率はゼロになる。 何度も何度も実験を繰り返して初めて、確率分布が意味のあるものとなり干渉縞が形成されるのである。 つまり、電子が蛍光板に衝突する前に、その所在を尋ねることはできない。 電子は何らかの方法で空間と時間全体に広がっており、蛍光板に衝突する前は、まったくでたらめな方法で2つのスリットを通り抜け、自分自身と干渉しあっている。 電子は同時にすべての場所に存在し、かつどこにも存在しない。 事が起こるたびに、世界は新しく生まれる ・・ というのである。
 従来の量子力学で電子の未来のふるまいを予測しようとすれば、実験が始まる時点における電子の運動量やエネルギといった情報(初期状態)が、実験が終わる時点におけるそれらの情報(終期状態)がどうなったのかを計算するか、少なくともある特定の終期状態に達する確率を計算する必要があった。 そのためには微分方程式を解かなくてはならなかったのであるが、ファインマンが考え出した方法では、この微分方程式を解く必要性がなかった。 その方法(経路積分)とは、電子が初期状態から終期状態までにたどる可能性があるすべての経路を、あるルールに従って足し合わせるというものであった。 従来のニュートン力学の世界では、素粒子は、われわれの日常世界での物体がそうであるように「決まった経路を通る」とされていた。 しかし、量子世界では、電子は宇宙を踊るように飛び回っているのであって、それ以外の経路についても考慮しなくてはならないのである。 電子が宇宙の彼方まで旅したり、時間的にジグザグにさかのぼったり、進んだりする経路を無視するわけにはいかないのである。 これらの経路をたどると、自然は何の制御も受けず、通常のルートを無視しているように見えるのである。 ファインマンは 「いろいろな出来事を時間の順序で並べるのは的はずれであって、すべての経路を加算すれば実験者が観察する最終的な量子状態に至っている」 と主張した。
 ファインマンの方法は極端で、ばかげているように見えた。 我々には時間と空間について、断固とした考え方があり、時間は過去から現在、そして未来へと進むものなのである。 だがファインマンに言わせれば、そのような「ルールに縛られない自由なプロセスにこそ秩序がある」というのである。 だがファインマンの主張は、当時の物理学者にとっては理解しがたく、また受け入れがたいものであった。 さらにファインマンが経路を合算するために導入したいわゆる「経路積分」と呼ばれる手法は、数学的には証明されてなかったし、時にあいまいでもあった。 また独自の理論に答えを引き出すために図を使う方法(今日ではファインマン・ダイアグラムと呼ばれている)は、生まれて初めて見るようなしろものだった。 彼らは証明を要求した。その証明とは、考えを式で表すことから始めて、その式を数学的に導いてみせてくれというのだが、ファインマンの手法は、「直観」と「推論」と「試行錯誤」から作り出されたものであって、証明はできなかった。 1948年に開かれた会議でこの手法を発表したファインマンは、ボーア(デンマーク1885〜1962)やディラック(英国1902〜1984)のような当時の物理学界の重鎮から容赦なく攻撃された。
 だが結局。 彼らもファインマンという存在を無視できなかったのである。 これまでなら何ヶ月もかかった理論上の計算を、ファインマンは30分で解いてみせたりしたからである。 やがて登場した若き物理学者、フリーマン・ダイソン(米国1923〜)が、その一般性を示したことで、徐々にファイマンの手法が利用されるようになっていったのである。 ファインマンの「経路積分」という考え方は、エヴェレット(米国1930〜1982)が1957年に提唱した「平行宇宙」の考え方と表裏の関係にある。 ファインマンの経路積分は別名「歴史総和法」とも呼ばれている。
 「出来事を時間の順序で並べるのは的はずれである」というファインマンの主張は 「過去・現在・未来と連続する線形時間は存在しない」 とする私の主張と一致する。
 私の主張の意味するところは「過去と未来は現在に含まれていて」その中からある過去がある未来が今の今である現在としての現実空間に象出するというものであり、それらがたどる運動軌跡は紙や意識のキャンパスに描くことはできても実在としての現実空間に描くことはできないというものである。
 他方。 ファインマンの主張の意味するところを私なりに解釈すれば「可能なすべての過去と未来を加算すれば我々が眺める現在に至る」ということであり、過去・現在・未来で構成される線形時間は的はずれであってそれに縛られない自由なプロセスこそが秩序であるということである。
 「可能なすべての過去と未来を加算すれば我々が眺める現在に至る」という経路積分の考え方は逆因果律の考え方と通底で一致する。 そして「過去・現在・未来で構成される線形時間は的はずれであってそれに縛られない自由なプロセスこそが秩序である」とする考え方もまた逆因果律がとった自由なプロセスそのものであって思考の妥当性を補強してくれる。

2018.04.01


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