Linear ベストエッセイセレクション
共時性に想う
Turn

ふと発生する宇宙
 以下の記載は著書「Pairpole」に掲載されている「ふと発生する宇宙」からの抜粋である。
 私は車を運転している。 先ほどからお腹がすいており、どこかで食事をしようと思っている。 道路沿いにはさまざまなレストラン、食堂、ドライブインが点在している。 私は何が食べたいのか考える。 「スパゲテイでも食べよう」私はハンドルを切りとあるレストランに入った。 ドアを開けると人の良さそうなマスターがカウンターでなじみ客と笑いながら何事かを話している。 私はひとつのテーブルに腰を掛けメニューに目をおとす。 マスターが私に近づき話かける「何にしますか」、私が答える「スパゲテイのナポリタン」と。
 マスターは遠ざかり、私はタバコを取り出し火をつける。 空中に煙を吐き出しながらふと考える。 このレストランの世界はどうして私の回りに存在しているのか? この宇宙はどうして発生したのか? おそらく、このレストランは私が訪れる前にも長い間ここに存在してきたのであり、マスターの人生と生活が存在し、それをとりまくさまざまなお客が存在してきたのである。 私はそれを知る由もない。 私にとってみればこの世界は、このレストランのドアを開けるまでは存在しなかった。 もちろん私が入ることにおいては、他のレストランでもよかったことである。 「たまたま」スパゲテイが食べたくなり、「たまたま」目についたレストランに入ったのであるから。 きっともう少し車を走らせて入ったレストランであれば、また違った世界であったであろう。 美人のウエイトレスが注文をとりに来たかもしれない。 またぞろ同じマスターが登場することはないであろう。
 宇宙の発生とは、つまり、このようなものなのか?
 ふとスパゲテイが食べたくなり、ふととあるレストランに入る、ドアを開ける ・・ すると世界が発生する。 最初に戻る。 ふとスパゲテイを食べたくなる。 すると人の良いマスターのいるレストランの世界が発生する。 「ふと思う」、すると「世界が発生する」。
 この世は「ふと思う」ことによって発生し存在するのか?
 この視点からは「物質世界」は「意識世界」によって発生するように思える。 「ふと思う」とは「顕在意識」ではなく「潜在意識」である。 この「ふと思う」ことが、この宇宙の発生に、深く、そして密接に関わっている。
 ニューサイエンスの旗手、理論物理学者、デビット・ボームは「明在系と暗在系」という2つの構造により宇宙が構成されていると説明する。 人間が認識し理解できる世界を「明在系」と呼び、認識し理解できない世界を「暗在系」と呼ぶ。 これは心理学で言う顕在意識と潜在意識の構造と同じである。 潜在意識とは無意識下の世界であり、意識できない世界である。 顕在意識とは意識できる世界であり、我々は日常この意識により物事を考え行動している。 つまり、明在系とは顕在意識の世界であり、暗在系とは潜在意識の世界である。
 しかし、この2つの宇宙は無関係に併存しているわけではない。 顕在意識は潜在意識の反映であり、深く影響を受けている。 しかし、潜在意識は暗黒の宇宙であって、垣間見ることができない。 数学で言えば「虚数」の世界である。 我々が日常使用する、ひとつ、ふたつと数えることができる「実数」に対して、虚数は数えられない数である。 しかし、虚数も2乗すれば数えられる実数に相転換する。 潜在意識も「ふと思う」ことにより、意識できる顕在意識に相転換する。 相転換すると暗在系の見えない宇宙から、見える明在系の宇宙が発生する。 つまり「ふと思う」ことと、「2乗」することは同義的である。
 では「ふと思う」という「きっかけ」は、どこから発生するのであろう?
 潜在意識や暗在系は認識も見ることも触ることもできない宇宙である。 ここで心理学者、ユングが構築した「共時性」に思い至る。 共時性とは相互に因果関係がない2つ以上の分離した事象が、この時空間において、単なる偶然を越えた「何か」を意味するように同時発生する現象である。 2つの同時発生事象には「意味ある符号」が存在する。 暗示的な符号であるから、それを意味あるとするか否かは、符号に遭遇した人の心理状況に関わっている。 「ふと思う」というきっかけは、この「意味ある符号」に関係する。 つまり、そのレストランに入ろうと「ふと思った」のは、その500m手前で見た道路わきの1本のアカシアに象出した「意味ある符号」に発したという関係である。
 それはまた人間の外部に存在する「マクロ宇宙」と、人間の内部に存在する「ミクロ宇宙」の構造に似る。 人間の内部に存在するミクロ宇宙は、外部のマクロ宇宙に反映し、逆に外部マクロ宇宙もまた、内部のミクロ宇宙に反映する。 つまり、人間の内部に存在する内的宇宙と人間の外部に存在する外的宇宙は一体的なのである。 潜在意識(暗在系)という内的ミクロ宇宙の中に、そのレストランがすでに存在しており、それが共時的な意味ある符号(1本のアカシアの木)に誘起され、顕在意識(明在系)によって認識ができ、見ることができ、触れることができる外的マクロ宇宙に反映して、このレストランを象出させたことになる。 我々が遭遇し、知る宇宙とは「すべて我々の内部にすでに存在する宇宙」なのである。 今日、初めて出会う人も、目撃する出来事も、すべて我々の内部にすでに存在しているのである。 逆にそうでなければ、ユングの言う共時性は説明できない。 なぜなら我々自身の中にすでに存在しないのであれば、超因果的に同時発生した事象を誘起する意味ある符号を、我々が見いだすことなど、どうして可能になることができよう。
 これらの見解は超因果的であり、超因果的思考ツールが確立されていない現時点では、不可解な見解であると酷評されるであろう。 従来の因果的見解では、たまたま偶然に、そのレストランがそこに存在していたと記述されるのであるから。
 このような内と外の構造は、数学の実数と虚数の対比の中に、社会の表と裏の対比の中に、空間の光と影の対比の中に、見られるものと同じである。 そしてこれらの直観はまた、宇宙のフラクタル(入れ子)構造の背景を予感させる。 このフラクタル構造の背景は「宇宙の意志」が、万物事象の中にあまねく行き渡り、宿っていると我々に感じさせる根拠につながっている。 この宇宙意志存在の直観が、西欧のキリスト教社会に「神」を登場させ、東洋の仏教社会に「仏」を登場させ、道教社会に「道(タオ)」を登場させ、儒教社会に「天」を登場させたのである。 私はかくなる存在を「宇宙の心」と表現している。
 私はスパゲテイを食べ終わり入って来たドアからそのレストランを出る。 そのレストランの宇宙はここで終わる。 再び訪れるかもしれないが二度と訪れないかもしれない。 このレストランの宇宙は私から考えると今ここに「私のために用意された宇宙」のようにも見える。 私が去った後、存在するのか存在しないのかは、再び訪れるかどうかで決定する。 訪れなければ存在するかどうかは確定できない。 つまり、再び無意識下の暗在系の宇宙に、外的マクロ宇宙から内的ミクロ宇宙に紛れ込んでしまい消滅する。 これを逆にレストランのマスターから考えれば、私の存在もまた消滅することを意味する。
 私は車のアクセルを踏んでそのレストランからもとの道路上に戻った。 再び道路の両側には次々とレストランが、食堂が、ドライブインが、現れては過ぎ去り、過ぎ去っては現れる。
 はたして、あのレストランは存在したのか、存在しなかったのか?
 はたして、あのマスターは存在したのか、存在しなかったのか?
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 しかして、私は存在しているのか、存在していないのか?
 ? ・?? ・・??? ・・・???? ・・・・?????
 遡る20年近く前に書いたものであるが、読み返すと、この知的冒険の出発点が、いかようであったのかを再認識させられる。 あるいは、遥かな時空を貫いて、ここに、かくなる「知的場面」が甦ったこともまた「共時性」のなせる業なのかもしれない。
ありえない確率
 以下は私が遭遇した共時性についての話である。
 とある日、と言っても20年ほども前の話である。 私は軽井沢にある「セゾン現代美術館」を訪れた。 軽井沢特有の深閑とした森の中にたたずむ瀟洒な美術館である。 その際、通路に置かれた「ある彫刻像」に興味をひかれた。 それは白い等身大の石膏像、4体で構成され、街中の舗道で織りなされた「ワンカット」を切り取ったかのような作品であった。 前面に立つ2人の男は何やらひそひそと話をしているようであり、後ろのベンチに座った女2人はそれには無関心を装って会話に夢中といったような場面である。 この彫刻像は「いったい何を語っている」のであろうか? 興味はそこであった。
 それから2日ほどして、私は居住する松本市の市街に位置するとある書店で1冊の本を買った。 哲学者、大森荘蔵の「時間と存在」である。 帰宅して読み出したところで、私は唖然としてしまった。 その第2章、幾何学と運動、第3項、空間と幾何学に、その彫刻像について記述されているではないか。 その作品の作者は、アメリカのジョージ・シーガルであり、作品名は、ゲイ・リベレーションであった。
 意図なくふらりと訪れた軽井沢の美術館で興味にひかれて眺めた作品が、直後に、これまた意図なく訪れた松本市の書店でふと手にした哲学書の中に顕れる確率とはいったいいかなるものか? 数学的に計算すれば、ほとんどありえない程に希少な確率であろう。 例えて言えば「ゴビ砂漠の中から1本の針を見いだす」ようなものであろう。
 またとある日、5年ほど前の話である。 私は紅葉を撮影するため上信越自動車道を新潟県妙高市に位置する妙高高原を目指していた。 その時、車内では、どうしてそうなったかは今となれば定かではないが、マーク・トウェインの「トムソーヤ」の話になった。 トムソーヤの話などは数十年近くしたことがない。 そしてようよう到着した妙高高原、池ノ平温泉スキー場のゲレンデにカメラを据えて振り向くと、そこには「トムソーヤ」と大書きされた看板を掲げたレストランが建っていた。 スキーシーズンのみ開業する店のようである。 意図なく始まったトムソーヤの話の直後に、意図なく訪れた高原にあるレストラン「トムソーヤ」に遭遇する確率とはいったいいかほどになるのか?
 さらにとある日、4年ほど前の話である。 私は撮影の途上で長野県東筑摩郡麻績村にある法善寺に立ち寄った。 その時に法善寺が信濃三十三観音札所めぐりの「1番札所」であることを初めて知った。 それから2ヶ月ほどして、今度は三重塔を撮影すべく長野県上水内郡小川村にある高山寺を訪れた。 そこで、あろうことか、その高山寺が信濃三十三観音札所めぐりの「33番札所(結願札所)」であることを知った。 意図なく、続けて、訪れた寺が信濃三十三観音札所の寺であり、かつその「1番札所」と「33番札所」であることの確率とはいったいいかほどになるのか?
 私が遭遇したこれらの出来事はたんなる「偶然である」と言ってしまえばそれまでである。 だが私には偶然を超えた「必然である」ように観えるのだが、どうであろう。
無と有の狭間
 「思考は現実化する」の著者として知られるナポレオン・ヒル(米国、1883〜1970年)は成功哲学の祖とも言われる。 同様に米国で活動したアイルランド出身の牧師、ジョセフ・マーフィー(1898〜1981年)は潜在意識を利用することによって幸福へと導く「マーフィーの成功法則」を提唱した。 どちらも意識世界(精神世界)が物質世界(現実世界)に与える影響について述べている。 換言すれば意識世界から物質世界が発生することを語っている。
 「南無阿弥陀仏に思う」では念仏としての「観想念仏」と「口称念仏」について述べている。 これもまた意識世界と物質世界の応変について思考したものである。 さらに「思惟半跏像への回帰」では無の世界と有の世界を繋ぐ意識ワームホールとしての「思惟」について述べている。
 これらをまとめると物質世界に影響を与える意識行為として、「思考する」こと、「祈る」こと、「念仏する」こと、「思惟する」こと ・・ 等々の意識操作の動向がかいま見えてくる。 だがこれらの意識操作が「共時性的現象の原因」であるとすることに対する世相の評価はよくみても相半ばであろう。 それらの現象は超因果的であって原因と結果から構成された強固な因果律に基づいている科学的合理主義からすればおいそれとは受け入れがたいのは当然の帰結であろう。
 しかしながら上記した「ありえない確率」で述べた各々の現象は、その強固な因果律に基づいた科学的合理主義でもってしても「説明不能な現象」であることもまた「事実」なのである。
直観的場面構築と歴史的場面構築
 直観的場面構築とは顕在意識や潜在意識で構成された広漠茫洋たる意識の大海に蓄積されていた玉石混淆、種々雑多なさまざまな断片的認識要素(断片的記憶要素)が、ある瞬間に連鎖関連して(連鎖反応して)意識のスクリーンに投影する「直観的場面」である。
 他方、歴史的場面構築とは物質的現象で構成された玉石混淆、種々雑多、多様な出来事が、ある瞬間に連鎖して物質世界に実現した「現実的な場面」である。 直観的場面と歴史的場面は意識世界と物質世界の間に掛け渡された「Pairpole」であり、相対的であるとともに相補的な関係を構成している。
 ふたつの場面についての詳細は「直観的場面構築」と「歴史的場面構築」の各記述を参照願うこととして、ここで述べたいのは共時性との関わりについてである。 より言えば現実世界に現れた「ありえない確率」での物質的現象との関わりについてである。
 直観的場面が広漠茫洋たる意識の大海に蓄積されていた断片的認識が、ある瞬間に連鎖して意識のスクリーンに投影した場面としているが、この意識メカニズムが起動するきっかけである「ある瞬間に発生する連鎖反応」こそが共時性で言う「意味ある符号」に他ならない。 それは冒頭の「ふと発生する宇宙」を熟読いただければ了解されよう。
 直観的場面の構築が即ち歴史的場面構築の原因であるとする考えは多分に独創的であって未だ仮説に過ぎないが、私のなかでは充分に妥当性をもったアイデアであると考えている。 しかして「歴史的場面構築」の末尾を私は以下のような記述で結んでいる。
  意識メカニズムが投影した直観的場面と行動メカニズムが投影した歴史的場面は互いに相対的であり相補的である。 関ヶ原の戦役は、西暦1600年の日本列島に生きていた人々の意識メカニズムが行動メカニズムに投影した歴史的場面であり、ナチスのホロコーストは当時のドイツに生きていた人々の意識メカニズムが行動メカニズムに投影した歴史的場面である。
 世に怖ろしきは実に「意識する」ことであり、その意識メカニズムが直観的場面を構築し、行動メカニズムに投影して歴史的場面を構築してしまうのである。 「思いは実現する」とは、巷間よく言われることである。 我々は正しく意識する必要がある。 なぜなら正しい意識だけが、正しい行動を発生させ、正しい歴史的場面を構築するからである。

2015.12.29


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