Linear ベストエッセイセレクション
宇宙へのアプローチ
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微分か積分か
 アイザック・ニュートン(英国1642〜1727)が「自然哲学の数学的諸原理(プリンキピア)」を著して以来、物理学で何かの理論を構築しようとする者は微分方程式と呼ばれる道具を使ってきた。 理論の結論はその微分方程式を解くことで導かれてきたのである。 その常識をリチャード・ファインマン(米国1918〜1988)が覆した。 それは1949年のことであり、若干30歳の新進気鋭の頃であった。 彼の方法は「経路積分」と呼ばれる独創的な手法であった。
 従来の量子力学で電子の未来のふるまいを予測しようとすれば、実験が始まる時点における電子の運動量やエネルギといった情報(初期状態)が、実験が終わる時点におけるそれらの情報(終期状態)がどうなったのかを計算するか、少なくともある特定の終期状態に達する確率を計算する必要があった。 そのためには微分方程式を解かなくてはならなかったのである。
 ファインマンが考え出した方法では、この微分方程式を解く必要性がなかった。 その方法とは、電子が初期状態から終期状態までにたどる可能性があるすべての経路を、あるルールに従って足し合わせるというものであった。 従来のニュートン力学の世界では、素粒子は、われわれの日常世界での物体がそうであるように「決まった経路を通る」とされていた。 しかし、量子世界では、電子は宇宙を踊るように飛び回っているのであって、それ以外の経路についても考慮しなくてはならないのである。 電子が宇宙の彼方まで旅したり、時間的にジグザグにさかのぼったり、進んだりする経路を無視するわけにはいかないのである。 これらの経路をたどると、自然は何の制御も受けず、通常のルートを無視しているように見えるのである。
 ファインマンは「いろいろな出来事を時間の順序で並べるのは的はずれであって、すべての経路を加算すれば実験者が観察する最終的な量子状態に至っている」と主張した。 ファインマンの方法は極端で、ばかげているように見えた。 我々には時間と空間について、断固とした考え方があり、時間は過去から現在、そして未来へと進むものなのである。
 だがファインマンに言わせれば、そのような「ルールに縛られない自由なプロセスにこそ秩序がある」というのである。 ファインマンの主張は、当時の物理学者にとっては理解しがたく、また受け入れがたいものであった。 さらにファインマンが経路を合算するために導入したいわゆる「経路積分」と呼ばれる手法は、数学的には証明されてなかったし、時にあいまいでもあった。 また独自の理論に答えを引き出すために図を使う方法(今日ではファインマン・ダイアグラムと呼ばれている)は、生まれて初めて見るようなしろものだった。
 彼らは証明を要求した。 その証明とは、考えを式で表すことから始めて、その式を数学的に導いてみせてくれというのだが、ファインマンの手法は、「直観」と「推論」と「試行錯誤」から作り出されたものであって、証明はできなかった。 1948年に開かれた会議でこの手法を発表したファインマンは、ボーア(デンマーク1885〜1962)やディラック(英国1902〜1984)のような当時の物理学界の重鎮から容赦なく攻撃された。
 だが結局、彼らもファインマンという存在を無視できなかったのである。 これまでなら何ヶ月もかかった理論上の計算を、ファインマンは30分で解いてみせたりしたからである。 やがて登場した若き物理学者、フリーマン・ダイソン(米国1923〜)が、その一般性を示したことで、徐々にファイマンの手法が利用されるようになっていったのである。
 ファインマンの「経路積分」という考え方は「パラレルワールド」で述べた、エヴェレット(米国1930〜1982)が1957年に提唱した「平行宇宙」と表裏の関係にある。 その中ではファインマンの経路積分を別名の「歴史総和法」として使用している。
刹那か連続か
 ファインマンの「経路積分」は宇宙へのアプローチ方法をそれまでの微分的手法から積分的手法に転換したことで物理学に大きな変革をもたらした。 彼の積分的物理学は多分に「右脳的」であり、「直観的」であり、「幾何学的」であった。 逆にそれまでの微分的物理学は「左脳的」であり、「論理的」であり、「代数学的」であったと言えよう。
 素粒子に関するエットーレ・マヨラナ(イタリア1906年〜1938年)とポール・ディラック(英国1902年〜1984年)の予見について考察した「真理のかたち」の中で、私は自ら構築した Pairpole 宇宙モデル について以下のように述べている。
 Pairpole 宇宙モデル では時間軸に添って構成されている宇宙を「連続宇宙」と呼び、時間軸と垂直に構成されている宇宙を「刹那宇宙」と呼んだ。 連続宇宙は言うなれば「空間を時間で積分した宇宙」であり、我々はその宇宙を「時空間」と呼んでいる。 刹那宇宙は「空間を時間で微分した宇宙」であり、いまだ呼び名はない。
 ここで言う「空間を時間で微分した宇宙」である「刹那宇宙」こそが「微分的手法でアプローチした宇宙」であり、「空間を時間で積分した宇宙」である「連続宇宙」こそが「積分的手法でアプローチした宇宙」である。 ファインマンが「経路積分」をもってアプローチした宇宙とは、実にこの空間を時間で積分した「連続宇宙の風景」であり、それすなわち「時空間」のことに他ならない。
 もしファインマンの主張が正しければ、我々が住む連続宇宙としての時空間とは「いろいろな出来事を時間の順序で並べるのは的はずれな世界」であり、「すべての経路を加算すれば実験者が観察する最終的な量子状態に至っているという世界」であり、「ルールに縛られない自由なプロセスが秩序となっている世界」ということになる。
 他方、いまだ呼び名のない微分的刹那宇宙とはいかなる宇宙なのか。 私は同様に「真理のかたち」の中で、その刹那宇宙の胎動を以下のように述べている。
 刹那宇宙では、無から有への発生と、有から無への消滅が、間断なく繰り返され、有と無が混合したエマルジョンとなり、あらゆる可能性が「ゆらぎの状態」にある。 刹那宇宙では、生と死が混在し、創造と破壊が混在する。 あらゆる生命は刹那に生まれて刹那に死に、あらゆる存在は刹那に創造されて刹那に破壊される。
 さらに数学的解釈を用いて「空間を時間で微分した刹那宇宙」を考えれば、それは「宇宙の傾き」を表現したものであろうし、「空間を時間で積分した連続宇宙」を考えれば、それは「宇宙の面積」を表現したものということになろう。 宇宙の傾きを「宇宙の方向性」に、宇宙の面積を「宇宙の運動量」に還元すれば、それはまた「宇宙のベクトル量」と「宇宙のスカラー量」を表現したものということになる。
 また工学的解釈を用いて「空間を時間で微分した刹那宇宙」を考えれば、それは「宇宙のデジタル概念」を表現したものであろうし、「空間を時間で積分した連続宇宙」を考えれば、それは「宇宙のアナログ概念」を表現したものということになろう。 世は総じて今、デジタル技術に向かっているが、アナログ技術もそう捨てたものではない。
時間か空間か
 ハイゼンベルク(ドイツ1901〜1976)の「不確定性原理」によれば、量子の「位置」と「運動量」の2つを同時に高い精度で確定することはできず、片方の精度を上げようとすれば、もう片方の精度が下がってしまう。
 空間を時間で微分した刹那宇宙を「宇宙の位置」と考え、空間を時間で積分した連続宇宙(時空間)を「宇宙の運動量」と考えれば、不確定性原理の記述は「宇宙の位置と運動量の2つを同時に高い精度で確定することはできない」と変換される。
 さらに宇宙の位置を「時間」と考え、宇宙の運動量を「空間」と考えれば、不確定性原理の記述は「宇宙の時間と空間の2つを同時に高い精度で確定することはできない」と変換される。
 重複を避けるため詳細の記述は割愛するが、「時空間の同一性」では、シュレーディンガー(オーストリア1887〜1961)の波動理論における観測問題を基にした「時間と空間の不確定性」を、また「タイムシフトウィンドウ」では、私が開発した映像表示技術を基にした「時間と空間の不確定性」を、さらに「風景の物語 1」、「風景の物語 2」では、私の体験を基にした「時間と空間の不確定性」をそれぞれ視点を変えて述べている。
 我々が住む時空間とは、まさにファインマンの「経路積分」が適用される宇宙である。 上記した「時間と空間の不確定性」を省察するとき、そこにはファインマンが主張した「この宇宙はいろいろな出来事を時間の順序で並べるのは的はずれな世界であり、すべての経路を加算すれば実験者が観察する最終的な量子状態に至っているという世界であり、ルールに縛られない自由なプロセスが秩序となっている世界である」という予見の正当性が象出しているように私には観える。
線か面か
 宇宙へのアプローチ方法の異なりは、「線か面か?」という哲学的な課題を提起する。 それはまた人生へのアプローチ方法の異なりでもある。
 「線の旅人と面の旅人」では、線の旅人とは「代数学で旅する者」であるとし、代数学は「数式を考える」ことを基とするため「緻密で精確な解を得ることができる利点」はあるものの、「問題を線としてとらえるため」、途中の第 n 方程式を間違えると、以降の解はすべて間違いとなり、最終解がとんでもなく見当違いのものになる危険性をはらんでいるとした。 他方、面の旅人とは「幾何学で旅する者」であるとし、幾何学は「図形を眺める」ことを基とするため「緻密で精確な解を得ることができないという欠点」はあるものの、「問題を面としてとらえるため」最終解がとんでもなく見当違いとなる危険性からはまぬがれるとした。
 論じてきた区分で言えば、線の旅人とは「微分的」、「刹那的」、「デジタル的」 ・・ であり、面の旅人とは「積分的」、「連続的」、「アナログ的」 ・・ ということになる。
 また「野に遊ぶ」では、線の旅人は点と点の間に引かれた線の上を行く「1次元世界の旅人」であるため、旅の自由度はその線上を行くか、戻るかの「2通り」しか許されないが、面の旅人は面の上を行く「2次元世界の旅人」であるため、旅の自由度はその面上360度方向「無限に」許されるとした。 さらには、線の旅とは、しゃにむに街道を急ぐ「目的達成に向けた旅」であり、面の旅とは、街道をはずれ、気ままに回遊する「自己充実に向けた旅」であるとし、物質的利便性が満たされたこれからは、街道をはずれ「野に遊ぶ」面の旅人の姿が、地球表面のそこかしこに散見されることになるであろうと予測している。
 古人曰く「この世は浮き世である」と、ここまで宇宙のアプローチ方法における視点の異なりをさまざま眺めてきたが 「浮き世」 という言葉以上に、宇宙の核心をとらえた直観を、私は他に見つけだすことができない。 浮き世とは万物事象が織りなす「曼荼羅の世界」である。 我々がその曼陀羅世界の「どこに生き」、「どこに遊ぶ」のか ・・ それは、みなさん「ひとり」、「ひとり」に与えられた「自由な人生」の賜なのである。
 「信州つれづれ紀行」 には自らをひとつの量子になぞらえて行った「実験的経路積分紀行」の様相が記録されている。 最先端物理学の思考実験と宇宙の片隅で行われた体験的実験が、いかなる経路を経て、いかなる宇宙風景に到達するのか ・・ 時空の旅は果てることがない。

2015.01.20


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