Linear ベストエッセイセレクション
安井かずみの風景
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優雅な生活が最高の復讐である
 安井かずみ(1939〜1994年)神奈川県横浜市出身、作詞家、訳詞家、エッセイスト、歌手。フェリス女学院高等学校、文化学院油絵科卒業。 女流画家を目指していたが、在学中にアルバイトで訳詞をしたことがきっかけで作詞家となる。 信仰の厚いクリスチャンでもあった。
 売れっ子の作詞家であった頃は時代の最先端をいくファッションで身を包み、颯爽と外車を乗り回し、六本木のイタリアンレストラン「キャンティ」や赤坂のディスコ「ムゲン」で派手に遊び回り、海外旅行がめずらしかった当時、世界中を旅し、貴族や有名人と優雅な生活を送っていた。
 安井の片鱗は「日本に手本になる人間がいなかったから、ファッションはフランスの「VOGUE」誌から、料理はアメリカのタイムライフ社の雑誌から、結婚はボーヴォワールやジェーン・フォンダから、住まい方はイタリアの「domus」誌と旅行先のパリの友人宅から盗んだ」とする述懐に色濃くあらわれている。
 年代順に略歴(遍歴)を記すと以下のようである。
1967年 ローマにて青年実業家と結婚するも、翌年にはニューヨークにて離婚。
1969年 パリに暮らし、1971年に帰国。
1977年 8歳年下のミュージシャン、加藤和彦と再婚。
 優雅なライフスタイルで憧れの夫婦として支持されるも発癌、余命1年宣告で夫の緩和治療の希望のままに、1994年3月17日、肺癌のため55歳の若さで死去。
 日本のトノヴァンと呼ばれた加藤和彦と結婚してからの安井は生活スタイルを一変させた。それまでの人間関係を大胆に切り捨て、2人だけの排他的な生活を始める。その生活はゴージャスであるとともにスタイリッシュであり、インテリジェンスであるとともにひどく優雅であった。世界中の街から街へと旅し、時としてその街に住みついては暮らす。それはまさに「世界は2人のために」を地でいくような生き方であった。だが青天の霹靂のごとく襲った安井の発癌で旅は終着を迎える。
 その間のくだりは安井の闘病生活を題材にしたNHKハイビジョン特集「優雅な生活が最高の復讐である(2012年3月)」で濃密に描かれている。 安井が行き着いた最期の言葉は「金色のダンスシューズが散らばって、私は人形のよう」であった。 他方、加藤は通夜の席で「妻が神のもとに旅立っても私はいまだに夫婦だと思っています ・・ 悲しくなんかありません ・・ ただ淋しいけれど ・・・ 」とスピーチした。
 その加藤もまた2009年、長野県軽井沢町のホテルで「ただ消えたいだけ」との遺書を残して自死する。死の前には安井が眠る青山墓地を訪れていたという。若き日の盟友、北山修は「自分は精神科医でありながら加藤の精神の変調を見抜くことができなかった。ただ急報を聞いて駆けつけた彼の部屋で見たものは、チリひとつなく綺麗に整頓された室内と、棚の上にポツンと置かれた“ザ・フォーク・クルセダーズの解散コンサート”で撮られた仲間との写真であった ・・」と述べている。それはあたかも加藤の墓標のようでもあり、加藤は終局において原点であった「あの若き日」に戻りたかったのかもしれない。
 安井かずみが生きた時代とは戦後日本が急成長をとげ豊かさを手にしつつあった頃である。そんな時代を一抹の閃光を発するように安井かずみは優雅に颯爽と駆け抜けていった。「安井かずみの風景」とはまぎれもなく近代日本が背負ったひとつの断面風景である。「優雅な生活が最高の復讐である」とする表題は、また我々現代人に投げかけられた問いでもある。
 蛇足ながら思うにまかせて私の好みで選んだ安井かずみの作品は以下のようである。
 ・・・ 1964年「何も言わないで」園まり / 1968年「恋のしずく」伊東ゆかり / 1970年「経験」辺見マリ / 1971年「わたしの城下町」小柳ルミ子 / 1972年「折鶴」千葉紘子 / 1973年「危険なふたり」沢田研二 / 1974年「よろしく哀愁」郷ひろみ / 1980年「不思議なピーチパイ」竹内まりや ・・・

2015.10.13


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