Linear ベストエッセイセレクション
秋山真之の風景
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本日天気晴朗ナレドモ波高シ
 日本海海戦、1905年(明治38年)5月27日、東郷平八郎が丁字戦法でバルチック艦隊を破った時、作戦参謀であった秋山真之が東京の大本営に打電した電文である。 電文の全体は次のようである。「敵艦見ユトノ警報ニ接シ 連合艦隊ハ直チニ出動 コレヲ撃滅セントス、本日天気晴朗ナレドモ波高シ」
 これを名文だとする所以は「戦況を伝えるには前半のみで十分であって、後半は蛇足以外の何物でもないが、皇国の興廃を決する決戦を目前にして、あえて“ 本日天気晴朗ナレドモ波高シ ”の一文を付け加えたところに、全軍にみなぎる秘めたる闘魂の心意気と必勝の覚悟を伝えている」とするところにある。
 事の経緯は以下のようである。
 飯田少佐が真之のところへやってきて、草稿をさし出した。「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、聯合艦隊ハ直ニ出動、之ヲ撃滅セントス」とあった。「よろしい」真之はうなずいた。飯田はすぐ動いた。加藤参謀長のもとにもっていくべく駈け出そうとした。そのとき真之は「待て」ととめ。その草稿をとりもどすと、右の文章につづけて「本日天気晴朗ナレドモ波高シ」と入れた。 後年、飯田は中将になったが、真之の回顧談が出るたびに、「あの一句を挟んだ一点だけでも、われわれは秋山さんの頭脳に遠く及ばない」と語った。
 たしかにこれによって文章が完壁になるというだけでなく、単なる作戦用の文章が文学になってしまった観がある。だがこの「天気晴朗ナレドモ波高シ」という文章は、朝から真之の机の上に載っていた。東京の気象官が大本営を経て毎朝とどけてくる天気予報の文章だったのである。
 「天気晴朗ナレドモ波高シ」について、後に海相山本権兵衛が「秋山の美文はよろしからず、公報の文章の眼目は、実情をありのままに叙述するにある。美文はともすれば事実を粉飾して真相を逸し、後世をまどわすことがある」と評した。
 原則としては山本のいうとおりである。だが真之には美文をつけ加えるつもりはなかった。かつてウラジオ艦隊の巡洋艦三隻が日本近海に跳梁して陸軍輸送船を何隻も沈めていたとき、それを追撃した上村艦隊が、かんじんなときになると濃霧に遭遇、そのためしばしば敵をとりにがしていた。「天気晴朗」というのはその心配がない、ということであり、視界が遠くまでとどくためとりにがしはすくない、ということを濃厚に暗示していたのである。
 さらに砲術能力については日本のほうがはるかにすぐれていることを大本営も知っていた。視界が明朗であれば命中率が高くなり、撃滅の可能性が大いに騰るということを示唆している。「波高シ」という物理的状況は、ロシアの軍艦において大いに不利であった。敵味方の艦が波で動揺するとき、波は射撃訓練の充分な日本側のほうに利し、ロシア側に不利をもたらす。「きわめてわが方に有利である」ということを、真之はこの一句で象徴したのである。
 このことは電文をうけとった東京の軍令部は理解した。だが軍政家の山本は世界海軍史上最大の海軍のつくり手ではあったが、戦闘や作戦の経験がほとんどなかったため、真之の文章を単に美文と思ったのかもしれない。
 最も秋山真之は伊予松山の出身であり、短詩型文学(俳句・短歌など)中興の祖となった正岡子規とは幼なじみの親友であったし、かっては正岡ともども文学志望の青年であった。美文を書く才能は多分に蔵していたのである。だが日本騎兵の父といわれた兄、秋山好古との繋がりで軍人の道に進み、冒頭に記した日本海海戦の勝敗を分けたとされる「丁字戦法」は真之がバルチック艦隊殲滅を期して昼夜をわかたない熟考に熟考を積んで練り上げた一撃必中の作戦であった。
 「天気晴朗ナレドモ波高シ」の名文が真之のいかなる才能からうまれたのかは判断に窮するが、おそらくは天が与えた「機の狭間」で思わずして念頭に生まれたものではなかったか。
 日露戦争終結後、東郷平八郎が連合艦隊を解散するに際して述べた解散之辞は秋山真之の草稿であるとされる。「百年兵を養うは、一日にこれを用いんがため」に始まり「勝って兜の緒を締めよ」で結ばれている。軍人であり文人であった秋山真之の躍如たる風景である。

2015.05.21


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