Linear ベストエッセイセレクション
藤圭子の風景
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時代を背負った歌姫
 本人が自覚していようがいまいがあるひとつの個性が時代を背負うということがある。 藤圭子はそんな歌手であった。
 当時、人気作家であった五木寛之は「ゴキブリの歌」と題されたエッセイ集の中で、彼女の唄は艶歌でも援歌でもなく、それは「怨歌」だと言い、「歌い手には一生に何度か、ごく一時期だけ歌の背後から血がしたたり落ちるような迫力が感じられることがあるものだ」と続け、「口先だけの援歌よりこの怨歌の息苦しさが好きなのだ」と結んでいる。
 私は 知的冒険エッセイ 第618回 「学校遠望」 の中で高校生であった当時の世相を以下のように書いた。

 学校をおえて 歩いてきた十幾年
 首(こうべ)をめぐらせば学校は思い出のはるかに
 小さくメダルの浮き彫りのようにかがやいている
 そこに教室の棟々(むねむね)がかわらをつらねている
 先生はなにごとかを話しておられ
 若い顔たちがいちようにそれにきき入っている
 とある窓べでだれかがよそ見して
 あのときのぼくのようにぼんやりこちらをながめている
 彼のひとみに ぼくのいるところは映らないのだろうか?
 ああ ぼくからはこんなにはっきり見えるのに
                                  丸山薫 「学校遠望」

 私が高校1年生の頃、我が家に下宿していた信州大学文学部の学生であったSさんから教えてもらった詩句である。感じるところがあり、以後、今に至るまで忘れずに脳裏にある。 当時、Sさんは京大に2浪した後、都落ちの気分にて松本に至り、信大に席をおいていた。私が16歳であったから、Sさんは20歳を越えていたにちがいない。
 世相は学生運動の混乱期であったが、狂騒は地方まではとどかず、2階の隣同士の部屋であった私達は、階下の両親が寝静まった頃を見計らっては、夜毎そろそろと家を抜け出し、深夜の松本の街を徘徊、時には焼肉屋で、時には喫茶店で、あれこれとくだらないことを、とりとめもなく話していた。時勢の標語は「青年は荒野をめざせ」であり、巷には藤圭子の歌う「新宿の女」が流れていたことを記憶している。それから40年の歳月が流れたことになる。
 その後、高校を卒業した私は青雲の志を抱きて大阪に向かい、Sさんは群馬県で高校の教師になったのだが ・・ 年齢からすれば、もう定年退職しているであろうか ・・・?
 藤圭子を「時代の徒花(あだばな)」と言う人もいる。だが徒花であろうがなかろうが彼女が日本の一時代を背負ったことはまぎれもない事実である。そのことを私は忘れない。

2013.08.23


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