Linear ベストエッセイセレクション
信玄と謙信〜永遠の光芒
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風林火山
 戦国の雄、甲斐の武田信玄は中国古代の兵法書「孫子」から採った「風林火山」を旗印とした。
 孫子の記載は ・・ 疾(はや)きこと「風の如く」、徐(しず)かなること「林の如く」、侵(おか)し掠(かす)めること「火の如く」、動かざること「山の如し」 ・・ であり、信玄はそれらの頭文字を合成し「風林火山」としたのである。
 信玄は軍を采配するにあたって、この世の「人間」に範を求めたのではなく、この世の「自然」に範を求めたのである。
 不確定性に満ち、とらえどころのないこの世を生きるにおいて、処世の羅針盤を人間に求めるよりは、より高次元な自然の必然に求めることは当然なことではあろうが、この当然なことが並みの人間ではできないところである。
 現実(実戦)の万物事象を制する羅針盤として自然の必然に倣った信玄であってみれば、従軍した士卒は信玄の一挙手一投足の中に、風を、林を、火を、山を、観たに違いない。
 畢竟。信玄の強さとは、一個の人間が発する強さではなく、その人間が、自然に昇華(化身)したところから発する強さであったということができる。
 甲斐の武田信玄の宿敵は越後の上杉謙信であった。両雄相並び立たず、両者は幾度となく軍を発し、激しい戦いを演じた。
 甲斐の武田信玄の旗印が「風林火山」であったのに対し、越後の上杉謙信は北方の守護神(軍神)であった毘沙門天から採った「毘」をその旗印にあてた。そして謙信自らは「毘沙門天の化身」であると信じていたのである。
 信仰心と正義感に溢れ清廉潔白な人格であった謙信は、戦史上最も劇的と言われた「川中島の戦い」に出陣するにあたって独り毘沙門堂にこもり戦勝を祈願した。
 ・・・ 今度こそ極悪人信玄を討たせたまえ ・・ 信玄は信濃の平和を乱し、実父、武田信虎を追放して家督を奪い、その義弟、諏訪頼重を殺し、その娘をてごめにし、信濃守護、小笠原長時や、北信濃領主、村上義清らを追い、信濃の大半を我がものにした ・・ 罪なき多くの人々が彼の欲望のために不幸になり死んでいった ・・ 小笠原や村上らは我を頼り我は正義のために信玄と戦い始めたがいまだに信玄を滅ぼすことができない ・・ 正しき者は救われなければならず、壊れた秩序は取り戻さなければならない ・・ どうか、我に力をお貸しください ・・ 我が軍に大勝利を、そして大悪人信玄に、何とぞ天誅を ・・・
 現実(実戦)の万物事象を制する羅針盤として毘沙門天の神通力に倣った謙信であってみれば、従軍した士卒は謙信の一挙手一投足の中に、毘沙門天の風姿と神威を観たに違いない。
 畢竟。 謙信の強さとは、一個の人間が発する強さではなく、その人間が、神に昇華(化身)したところから発する強さであったということができる。
決戦川中島
 甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信の戦いは12年間の間、都合5回に渡って行なわれた。永禄4年(1561年)の第4回の川中島の合戦が最も激戦であり、信玄41歳、謙信32歳のときであった。
 謙信は1万8000の大軍を率いて春日山城を出撃、信濃の善光寺に集結した。ここに後詰として5000の兵を残し、自らは1万3000の兵を率い雨宮の渡しから千曲川を渡って妻女山に陣を張った。一方、信玄は1万6000の兵を率いて海津城に入った。
 9月9日の夕暮れ、海津城から立ちのぼる炊煙に信玄の奇襲作戦を看破した謙信は、妻女山頂に大篝火を焚き、旗幟を立て、上杉軍が陣取っているように偽装し、亥刻(午後10頃)を待って妻女山を下り、千曲川の雨宮の十二ケ瀬、狗ケ瀬を渡って八幡原へと軍を進めた。史書「日本外史」を著した江戸期の儒学者、頼山陽は、この時の情景を「鞭声粛々夜河をわたる 暁に見る千兵の大牙を擁するを 遺恨なり十年一剣を磨く 流星光底長蛇を逸す」と詠んだ。
 一方、信玄は別働隊1万2000を子の半刻(午前1時頃)に海津城から妻女山へ向かわせ、信玄自らは弟信繁、嫡男義信をはじめ8000の兵を率いて八幡原に布陣し、夜の明けるのを待った。世に有名な「啄木鳥(きつつき)戦法」である。この戦法は武田軍別働隊が妻女山を奇襲し、謙信が八幡原に出てきたところを、信玄率いる武田軍本隊が待ち伏せて、挟み撃ちにし、全滅させようというものであった。
 しかし、さすがは毘沙門天の化身、軍神謙信は武田軍の作戦の裏をかいて、八幡原に布陣し、濃霧の晴れるのをじっと待っていたのである。
 午前7時、八幡原にたちこめていた霧が晴れた。
 信玄が採った陣立ては「魚鱗の陣」である。魚鱗の陣とは、上から見ると縦に長い紡錘形、魚の形をした攻撃型の陣立である。「風林火山」の軍旗を背にした信玄は、静寂の霧の中からおびただしい「毘」の軍旗が忽然と現われたとき、かかる作戦の破綻に少しも狼狽することなく、即座に軍扇を横に振った。「鶴翼の陣」への陣立ての変換である。鶴翼の陣とは、鶴が翼を広げたときのように横に長い陣形であり、敵軍の攻撃をかわして包み込もうとする守備型の陣形である。
 謙信の採った陣立ては「車掛の陣」である。車掛の陣とは、軍勢を車輪が回転するようにグルグル移動させながら常に新手を繰り出しながら絶え間なく猛攻を繰り返すという攻撃型の陣形である。
 「毘沙門天」と「風林火山」の激突は遂に火蓋を切った。
 戦闘は上杉軍が優勢に進めたが、乱戦となった機を逃さず、紺糸威の鎧の上に萌黄緞子の胴肩衣を着し、白手巾で頭を包み、放生月毛の馬に乗った謙信は、三尺の小豆長光の太刀を振りかざして、ただ一騎、信玄の陣営に突入し、電光石火のごとく三太刀信玄に斬りつけた。信玄は太刀を抜く間もなく、軍扇で謙信の太刀を防いだが、三の太刀は信玄の肩先を斬りつけ、信玄あわやと思われたとき、駆けつけた中間頭の原大隅守が槍で馬上の謙信をめがけて突き上げた。一瞬かわされ槍先は馬の尻を刺し、驚いて跳ね上がって駆け出したことにより、謙信は信玄の首を逸し、信玄は謙信の必殺の太刀から免れたのである。 後世に語りつがれた謙信と信玄の「一騎打ち」である。
 激闘数刻、妻女山に向かった武田軍別働隊がようやく八幡原に到着して戦況は逆転、謙信もこれ以上の戦闘続行は不利とみて善光寺に引き上げた。
 戦闘での死傷者の数は、上杉軍の死者3400余人、負傷者6000余人、武田軍の死者4600余人、負傷者1万3000余人であったという。その数はただちに信用できないが、戦史にのこる激戦であり、聞きしにまさる死闘であったことには間違いない。
謙信と信玄
 謙信と信玄は好対照をなす「Pairpole」である。
 「神」を信奉した謙信と「自然」を信奉した信玄。 「理想主義者」の謙信は「詩人」のようであり、「現実主義者」の信玄は「実業家」のようである。
 川中島の激闘は、還元してみれば「神と自然の闘い」であり、「理想と現実の闘い」であると観ることができる。 しかして謙信は軍神、毘沙門天の化身として、理想を掲げ詩人のように闘い、信玄は自然、風林火山の化身として、現実を掲げ実業家のように闘ったのである。
 両雄の闘いが激しさを加え長きに渡っても決着がつかなかった原因は、かかる根元的な「Pairpole構図」にあったとすることができよう。 ゆえに、永禄4年(1561年)信濃善光寺平、八幡原で交わされた第4回の川中島決戦は、かくも劇的であり、またかくも詩的であったのである。
その後の信玄
 永禄4年(1561年)の川中島での謙信との激闘の後、10年して、信玄は遂に天下の覇権を賭けて上洛を決意した。
 元亀3年(1572年)10月3日、2万の大軍を率いて甲府を出発 ・・ 10月10日、遠江に進行 ・・ 10月下旬、二俣城を攻撃開始 ・・ 11月下旬、同城攻略 ・・ 12月22日、三方ヶ原の合戦で徳川・織田連合軍を撃破 ・・ 元亀4年(1573年)1月、三河に進攻し、野田城を攻略 ・・・ まさに破竹の勢いで織田、徳川軍を粉砕して行ったのであるが ・・・。
 野田城攻で受けた負傷(ある説に鉄砲の弾があたった、またある説に目に矢が刺さった ・・ 等々、いまだ不明)がもとで、「風林火山」を旗印にした自然人にして、最強の戦国武将、武田信玄は天正元年(1573年)4月、高熱の末、あっけなくも突如としてこの世を去った。 享年53歳。
 最期の言葉は「明日は瀬田(滋賀県大津市)に旗を立てよ ・・ 」であった。
 信玄を失った武田軍は、遺言「我死して後、喪を三年間秘めよ」に従い、影武者を立て、軍を甲斐に引き返す。その退却は上洛を目前にしての「謎の反転」として世人の耳目を集めた。
 その後、かかる好機に乗じて、信長、家康が天下をその掌中におさめたことは後世周知のごとくである。
その後の謙信
 15代将軍、足利義昭の頼みに応じ、謙信もまた上洛を決意する。
 謙信の西上は、天正5年(1577年)、永禄4年(1561年)の川中島での信玄との激闘から16年の歳月が経過し、信玄がこの世を去って4年の月日が経っていた。
 織田信長の東海道における信玄への備えは徳川家康であったが、謙信への北陸道における備えは柴田勝家であった。信玄上洛に際しては家康から援軍を頼まれても余裕がなく、佐久間信盛と平手汎秀に3000人の兵をつけるのがやっとであったが、謙信に対しては、丹羽長秀、滝川一益、羽柴秀吉ら錚々たる援軍を派遣した。
 謙信は能登を瞬く間に制圧、加賀に進攻、自軍をはるかに上回る兵力(織田軍5万、上杉軍3万といわれる)と手取川で激突するも圧勝して加賀を手中にした。
 軍神毘沙門天の「毘」を旗印にした謙信の強さは比類なき天才軍略家としてのものであり、戦後「織田はあんがい手弱の様子、このぶんなら天下統一も容易 ・・ 」と豪語したといわれる。 さもありなんである。
 織田軍を撃破した謙信は、雪を懸念したのであろうか、そこで進行を止め、関東を平定しようと越後に帰国してしまう。 その後、関東出陣の日を天正6年(1578年)3月15日と定めたが、同月9日、突如として倒れ、13日、この世を去った。 享年49歳。
 能登を征したとき、詩人謙信は後世「九月十三夜、陣中の作」と言われる傑作を遺している。
霜は軍営に満ちて 秋気清し  (しもは ぐんえいにみちて しゅうききよし)
数行の過雁 月三更       (すうこうの かがん つき さんこう)
越山併せ得たり 能州の景   (えつざんあわせえたり のうしゅうのけい)
遮莫 家郷 遠征を憶う     (さもあらばあれ かきょうの えんせいをおもう)
 謙信45歳の作。 胸中の静謐、星霜歴々としてその気魂蒼天に昇るものがある。
敵に塩を送る
 「甲斐の虎」と「越後の虎」、2匹の猛虎に並び称された戦国不世出の英雄、信玄と謙信。「宿敵」にして「盟友」という互いの心情をよく物語る逸話がのこっている。
 信玄が上洛を期して駿河を攻めたとき、今川氏真は甲斐へ塩を送ることを止めてしまった。海のない甲斐にとって塩を止められることは深刻な問題であり、生活への被害は甚大であった。かかる信玄の窮状を知った謙信は越後から甲斐に塩を送ったのである。
 後世「敵に塩を送る」として語り継がれる誰もが知る有名な話である。
 理想家にして詩人、謙信の面目躍如たる話であるが、それとともに両雄の胸の内にあった心象風景がいかなるものであったのかを垣間見せてくれる。
 謙信からのかかる無言の援助を受けて、信玄は次々と駿河を攻略、上洛に向けて織田・徳川軍との戦いに赴いていったのである。
永遠の光芒
 風林火山にして自然人、信玄。 毘沙門天にして軍神、謙信。
 現実主義者にして実業家、信玄。 理想主義者にして詩人、謙信。
 好対照を成す「Pairpole」の彼らであってみれば、天下を奪取することなど、実のところ、どうでもよかったのかもしれない。 彼らの上洛の状況をつぶさに眺めれば、沸々としてそんな思いがわいてくる。
 彼らが戦国の世に発した火のような熱情は、41歳の信玄と32歳の謙信として、永禄4年(1561年)の川中島における乾坤一擲の激闘の中で、その光芒を永遠の彼方に閃光のごとく放射し、信濃善光寺平、八幡原の時空に昇華 ・・ 夢はもうその先へは往かなかった ・・ ということではあるまいか。
 かくして ・・ かかる光芒は天空に架かって煌々と輝き、平成における今も尚、その光彩はいささかも衰えてはいない。

2005.06.10


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