Linear 未知なる時空を訪ねる旅の途中でめぐり逢った不可思議な風景と出来事
知的冒険エッセイ / 時空の旅
Turn

千年の古都〜時は身じろぎもせず
 日本を代表する演歌歌手、都はるみは1948年、京都市に生まれた。 芸能好きの母親ははるみが5歳の時から日本舞踊とバレエを習わせ、6歳では母親自ら浪曲と民謡を教えた。 洛陽女子高等学校の当時の学校長の話では、いきなり 「歌手になります」 と言って中退したという。 当時のはるみは歌ばかり歌っていて成績はかんばしくなかったようである。
 16歳で唄った 「アンコ椿は恋の花(1964年)」 が多くの大衆から喝采を浴びるや、「涙の連絡船(1965年)」、「好きになった人(1968年)」、「惚れちゃったんだョ(1969年)」 ・・ 等々のヒット曲を立て続けに世に送り出した。 当時の都はるみは 「はるみ節」 と呼ばれたうなり声のような力強いこぶし回が人気で脚光を集めていたのであるが、その独特な歌唱法がゆえに、そのごに立ちふさがった壁を越えるのに苦悶することになる。
 1972年に歌った 「おんなの海峡」 はその 「はるみ節」 を脱してようようたどり着いた歌唱の新境地であった。 かくなる歌唱は 「北の宿から(1975年)」 で第18回日本レコード大賞に結実した。 そのごは 「大阪しぐれ(1980年)」、「浪花恋しぐれ(1983年)」、「夫婦坂(1984年)」 とヒットをつづけたはるみであったが、人気、実力ともに絶頂だった36歳で 「普通のおばさんになりたい」 と突然に歌手引退を宣言して活動を休止してしまった。
 それから6年の空白を費やしたはるみは 「小樽運河(1990年)」、「千年の古都(1990年)」 で再び表舞台にカンバックした。 小樽運河は演歌にとらわれないどちらかと言えばジャズのような洋風な曲調であった。 他方、千年の古都は演歌歌手としてひとり歩んできたはるみの生涯を古都に流れた悠久な時間に託して描いた 「都はるみの風景」 であるとともに、人生流転への万感の思いが込められていた。 この曲を最後にしてそれからは唄うことをやめたかのようにこれといった楽曲を残していない。 2016年にはインタビューにこたえて 「この歌でもういいかなと思うこともある いい詞に出会えばいいけど なかなか巡り会わない」 と当時の心境を述べている。 都はるみの熱情は 「千年の古都」 に燃え尽き、生まれ育った京都の空に向かって昇華、夢はもうその先へは往かなかったということであろう。
 
千年の古都 / 作詞 吉岡治 作曲 弦哲也

約束もなく 日が暮れて
衣笠山に 一番星です
蚊柱を追う 蝙蝠も
機織る音も 変わらないですね
夏は 火の車 抱いたまま
冬は 心に闇を 凍らせて
母が唄った 星の歌
あの星は あの星は
あなたにとって 何ですか
ああ 時は身じろぎもせず
悠久のまま
ああ 時は身じろぎもせず
悠久のまま
千年の古都

これほど星が 多いとは
玻璃(ガラス)の街で 忘れていました
根付の鈴を 嬉しさに
地蔵の辻で 鳴らしてみました
春は 秘めやかに 若葉雨
秋は 燃えたつような 曼珠沙華
母が祈った 流れ星
陽は昇り 陽は昇り
別離と出会い 繰り返す
ああ 夢は老いることなく
悠久のまま
ああ 夢は老いることなく
悠久のまま
千年の古都

ああ 時は身じろぎもせず
悠久のまま
ああ 時は身じろぎもせず
悠久のまま
千年の古都
 
 「母が唄った星の歌はいったい何であったのか? 時は身じろぎもせず悠久のままであり 夢は老いることもなく悠久のままである 嗚呼 千年の古都」
 2021年、都はるみが元俳優の矢崎滋と共に東北地方でホテル暮らしをしているというささやかな消息がもたらされた。 年齢を数えれば73歳ほどになろう。 ようようにして 「普通のおばさん」 になるときがやってきたのである。

2021.03.30


copyright © Squarenet